良い知らせを伝える人として生きる

「良い知らせを伝える人として生きる」 二月第四主日礼拝 宣教  2019年2月24日

ローマの信徒への手紙10章14〜21節            牧師 河野信一郎

わたしは、教会から送り出していただいて、先週の木曜日と金曜日の二日間、三鷹で牧師たちと研修をさせていただき、とっても楽しい時間を過ごすことができました。日本にあるキリスト教会を、この大久保教会をどのように活性化していくのが神様の御心なのか、牧師はそのために何をなすべきで、何をなすべきでないのか、今後教会の皆さんとどのようにこのことに取り組んでゆくのが健康的で効果的なのかを学ぶことができました。アメリカのサウスイースタンバプテスト神学校のチャック・ローレス先生と、この教会にも昨年10月に来てお話しされたウィル・ブルックス先生、そして日本で働く宣教師の方々から様々な良い知恵と励ましをいただき、本当に感謝しています。そこで学んだことが今朝の宣教でどれだけ反映されるか、これからの大久保教会の歩み、皆さんの信仰生活、教会生活にどれだけ反映され、力になってゆくか、今は正直わかりません。未知数ですが、まずこの機会を与えてくださった神様に感謝して、日々祈りつつ、誠実に牧師としての働きをさせていただければと思っています。

神様から与えられている私たちの信仰が日々新たにされ、整えられ、成長してゆくために、そして大久保教会がさらに活性化されてゆくために最も必要なことは何でしょうか。それは、もちろん、イエスさまを救い主と信じて従ってゆくことですが、今朝私たちに与えられている聖書箇所、ローマの信徒への手紙10章17節にはこのようにあります。「実に、信仰とは聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」 つまり、私たち一人一人の信仰の土台、大久保教会が活性化される土台は、救い主イエス・キリストの言葉に聞くこと、そこから私たちの信仰が、教会形成と福音宣教が始まるということです。イエス様とその言葉が私たちの生活の出発点であり、祝福の始まりであるということです。そしてこの信仰を与えて始めてくださり、成長させてくださり、完成させてくださるのは、神様です。この恵みは、今朝も私たち一人一人に差し出されていて、これを受けなさいと招かれています。そのことを知って、共に喜び、感謝し、礼拝をおささげし、主のみ言葉に今朝も聴いてゆきたいと願います。

わたしの前回の宣教は2週間前で、その時はローマの信徒への手紙10章の5節から13節から聴きました。今朝は、10章の14節から21節をテキストに、神様の御心を探り求め、共に御言葉に聴いてゆきたいと思いますが、今朝の宣教を始めるためには、どうしても13節から聴き始めなければなりません。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のですとあります。これは旧約聖書のヨエル書2章32節から引用された言葉ですが、「救い」ということに関して重要な言葉が二つあります。「呼び求める」という言葉と「だれでも」という言葉です。これは「イエス・キリストを救い主として呼び求める者は誰でも救われる」という意味です。これが神様から私たちに与えられているキリストの福音、良き知らせ、グッドニュースです。

誰であっても、男であっても女であっても、若くても年を重ねていても、国籍や肌の色、話す言葉などが違っていても、すべての人に与えられている良き知らせです。

どのような生い立ち、バックグラウンドがあっても、今どのような状況の下に置かれている人であっても、神様を、主イエス様を呼び求めることが、いつでも、どこでも、主の憐れみの中で出来るということです。そして主を呼び求める者の声を、叫びを神様は、主イエス様は必ず聞いて答えてくださり、救ってくださる。いつも共にいてくださる。ですから、思い悩む時、心が塞ぐような時に主を呼び求め、心の中にあることを明け渡してすべて委ねてゆく時、神様は抱きしめて救ってくださる。何故ならば、それが私たちに対する神様の愛であり、切なる願いであり、御心であるからです。

私たちに大切なこと、それは私たちを区別なく、そのまま受け止め、愛してくださる神様を信じること、いつも共にいてくださるイエス様を信じること、神様の愛と赦しを素直に受け取り、喜び、感謝すること、悔い改めることです。神様はユダヤ人だけでなく、すべての人、私たちを愛され、イエス様を救い主として遣わしてくださいました。このイエス様を信じることによって私たちは義とされ、救われ、神の子としての身分と永遠の命という希望が与えられる。それが良き知らせ、福音であることを前回共に聴きました。

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」という救いの宣言の後に、パウロ先生はローマにあるクリスチャンたちと今を生かされている私たちに4つの質問をするのです。その一つ一つを確認しましょう。14節から読んでゆきます。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。」 まずこの二つの質問に注目しましょう。

最初の質問の言葉をもっと分かりやすくするためにリフレイズ、言葉を変えるならば、どのような言葉にできるでしょうか。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう」とありますが、皆さんならば、どのようにリフレイズされるでしょうか。

わたしはこう思いました。信じる、信じない以前に、その方を知らなければならない、つまり出会っていなければ、その人を信じることも、呼び求めることもできないのではないかと。ですから、わたしは「まだ出会ってない方を、知らない方を、どうして呼び求められよう」とリフレイズしてみました。

二つ目の質問ですが、「聞いたことのない方を、どうして信じられよう」とあります。「聞いたことのない方」とあって、「このお方が私たちにとって、聞く人にとってどのようなお方であるのか知らないで、どうしてその方を信じることができるでしょうか」とリフレイズしました。

この「お方」というのは、言うまでもなく、イエス・キリストです。このお方は、私にとって、私たちにとってどのようなお方なのか。それが分からないと信じることができないと言われても仕方がないと思います。この世の中にはたくさんの新興宗教があるからです。たくさんの詐欺や事件が起こるからです。しかし、イエス・キリストは、私たちに神様の愛を分かち合ってくださるお方です。神様の憐れみと慰め、赦しを伝えてくださり、私たちの罪を贖うために十字架に架かって死んで、その命を私たちに与えてくださった唯一のお方です。このイエス様のことを聞かずして、どうして信じることができるでしょうかとパウロ先生は私たちに問いかけるのです。

そして三つ目の質問をします。「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができようか」と。では、この「宣べ伝える人」とは一体全体、誰のことでしょうか。「宣べ伝える」という言葉は、確かに「宣教・説教する」というギリシャ語が使われています。ですが、だからと言って、「宣べ伝える人」は、牧師や宣教師、伝道師だけを指しているのでしょうか。皆さんの中には、「その通り」とうなずく人もいるかもしれません。何故ならば、そう思える理由が4つ目の質問にあるからです。15節をご覧ください。「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」とあります。「遣わされる」のは、福音宣教のために特別に選ばれた人、召された人、だから牧師や宣教師だと思ってしまうからだと思います。

しかし、どうでしょうか。二つのことを質問させてください。あなたが、私たちがイエス様によって救われるということは、恵みではないでしょうか。つまり、本当に信じられない、奇跡的で驚くべきこと、特別なことではないでしょうか。私たちは、神様の愛と憐れみによって、イエス様によって罪赦され、救われています。まだイエス様を信じておられない方がここにおられたとしても、その方はその救いへと今朝招かれています。その救い、救いへの招きは、驚くべきこと、特別なことです。それを「恵み」と言います。

もう一つの質問というか、考えて欲しいことは、どうしてパウロ先生はこの4つの問いかけを信徒への手紙の中でしているのでしょうか。福音を宣べ伝えることが牧師や宣教師たちの仕事であれば、クリスチャンたち、信徒たちに書き送った手紙ではなく、牧師・宣教師であったテモテへの手紙にだけ書き記せば良かったのではないでしょうか。それなのに、何故このローマの「信徒」への手紙の中で問いかけられているのでしょうか。

それは、イエス様を伝えることは、神様の愛に生かされているすべての民、「イエス様を信じるすべての信徒」のなすべきことであるからです。「すべての信徒」は牧師も宣教師たちももちろん入ります。イエス様に出会って、救われた私たちがその良き知らせをまだ信じたことのない人たち、聞いたことのない人たちに伝え、分かち合ってゆくことが主イエス様のご命令です。

「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」とパウロ先生はイザヤ書52章7節の言葉を引用しています。これは、私たちに対する神様の御心というだけではありません。この神様の言葉は、イエス様を信じ従う私たちによって成就するということだと思います。私たちにとって大切なのは、「わたしを証しなさい」という主の言葉に従順に聞き従うということです。

16節をご覧ください。「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています」とあります。イスラエルの歴史を見ると、ユダヤ人たちは従いませんし、今もそうです。

私たちが置かれている現状も同じです。私たちが忠実にイエス様の言葉に聞き従い、イエス様を分かち合っても、すべての人が福音に従う、受け入れる訳ではありません。時に笑われたり、軽くあしらわれたりします。時には無視したり、時には強く拒絶したり、威圧して突っかかってくる人もいるわけです。これからもたくさんあるでしょう。しかし、私たちには、誰がイエス様を信じて従い、誰が従わないか分かりません。

けれども、誰が聞き従い、誰が聞き従わないか、誰が信じるか、信じないかは、問題ではなくて、私たちがイエス様を伝えるか伝えないか、イエス様からいただく恵みを分かち合うか分かち合わないかが主から問われているわけです。そして、もし私たちがイエス様を伝えず、恵みを分かち合わないならば、神様の愛を聞いたことのない人は聞かないままで、イエス様に出会って、イエス様を信じるチャンスも無くしてしまうとパウロ先生は私たちに迫るのです。

17節。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」この恵みは、すべての人のためにあり、すべての人が聞けるように、私たちが先に救われ、召されています。

18節から19節の途中までにこのようにあります。「それでは、尋ねよう。ユダヤ人たちは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。それでは、尋ねよう。イスラエルはわからなかったのだろうか」と。

ユダヤ人たちはイエス様のことを確かに聞いたのです。しかし、分かろうとする前に、心を頑なにして、イエス様を拒否したのです。拒絶したのです。そして、十字架に架けて殺したのです。ですから、神様はユダヤ人以外の私たち異邦人をも憐れんでくださいました。そのことが19節と20節に記されています。

今も、イエス様など必要ないと拒絶する人がいます。ユダヤ人たちのように、心を頑なにしている人がいます。律法を守るかのように真面目に生きていれば絶対に幸せになれると自分の力を信じて頑張っている人もたくさんおられます。

しかし、本当は、みんなイエス様が必要なのです。必要でない人は誰一人いないのです。みんな、すべての人は何かを求めています。幸せ、健康、富、平安、家族、友、人それぞれ違いがありますが、私たちにとって本当に必要なものが何であるかを知っておられ、それを与えてくださることができるのは、イエス様だけです。

21節に「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」とありますが、この神様の御手は、救い主イエス様を通して今も差し伸べられています。あなたのために、私たちのために、イエス様を必要としているすべての人のために。その差し伸べられている主の御手には、十字架につけられた釘の跡があります。この御手は、今朝も私たちに差し伸べられていて、イエス様を必要とする私たちの隣り人たちにも差し伸べられています。それを知らせることが、恵みを分かち合うことであり、私たちクリスチャンの働きです。まず信じて、祈って、感謝して、勇気をもって「わたしはクリスチャンです」という一言から宣言してゆきましょう。

そうしたら、そこから神様が不思議な方法で働いて導いてくださいます。心配しなくても大丈夫です。イエス様がいつも共にいて助けてくださいますから、大丈夫です。信じましょう。そして日々イエス様の言葉に聞きましょう。何故ならば、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」からです。