誘惑に陥らないよう祈りなさい

「誘惑に陥らぬよう祈りなさい」 三月第一主日礼拝 宣教 2020年3月1日

 ルカによる福音書 22章39〜46節        牧師 河野信一郎

 コロナウイルスの感染が日本各地に拡大し、学校が休校になりました。親御さんたちは大変であると思います。無責任なデマも飛び交っています。物資の買い占めも起こって、社会全体に混乱を招いています。しかし、そういう困惑した状況の中にあっても、真実なる神様に信頼して、主の言葉に聞き従ってゆきたいと思います。

さて、先週の26日から今年の受難節・レントが始まりました。この期間は主イエス・キリストの十字架の死への道に思いを馳せる期間ですが、ルカによる福音書は、その最後のステージを今朝の22章39節から開始し、オリーブ山で祈る主イエスさまにスポットライトを当てます。他の福音書と比較しますと、ルカによる福音書には祈りについての教えが多く記され、イエスさまご自身が宣教を開始する時から、節目ごとに祈られた方であること、「祈る人」であることを丁寧に記しています。

例えば、3章21・22節を読みますと、バプテスマを受けられた後に祈っておられると、聖霊が降ったとあります。6章12・13節には12弟子を選ぶ前に夜を徹して祈られたことが記され、また9章18節にはご自分の受難のことを弟子たちに初めて話される前にも祈られたことが記されています。先週は、21章34〜38節から、わたしたちの心が鈍くならないために「目を覚まして祈りなさい」と主イエスの言葉に聞きました。そして今朝も、祈りがテーマとなります。それは、今、この時代、イエス・キリストのみ名によって神様に祈ることがわたしたちには必要であり、とりなしの祈りがこの時代、この世界には最も必要だからです。

今朝の箇所には、十字架にかけられる前夜に父なる神様に祈られる主イエスの言葉が記されています。しかし、今朝は主イエスが弟子たちに同じことを2回繰り返された言葉に注目したいと思います。その言葉とは40節と46節にある、「誘惑に陥らないように祈りなさい」という言葉です。この39節から46節までのセクションは、弟子たちに対するこの主の言葉で挟まれ、サンドイッチされています。

この言葉は、今日生かされているわたしたちへの言葉であると信じますが、なぜ主は同じことを2回繰り返されたのでしょうか。理由は簡単です。わたしたちにとって祈りが重要だからです。祈りが神様とわたしを、神様とわたしたちをつなげるからです。「祈るとは神に触れることである」と誰かが言ったことを覚えていますが、人生の節目がくると感じた時、忙しくて心が乱れる時、試練や深い悲しみに直面する時、神様に触れて、神様にわたしたちの心の中にある思いを伝え、そして神様からの声を聴くことが最も必要なことであるからです。

主イエスの「ゲッセマネの祈り」、その言葉については、来たる3月22日の夕礼拝において、カールトン・ウォーカー宣教師が宣教をしてくださる予定になっていますので、朝の礼拝に出席できない場合はぜひ夕礼拝に出席いただきたいと思い、ご案内いたします。

さて、主は「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言って弟子たちとわたしたちを励ましますが、果たしてわたしたちが現在直面している、またこれから直面するであろう「誘惑」とは、一体何でありましょうか。

まず弟子たちが直面した「誘惑」は何であったかを聖書から見てゆきたいと思いますが、今朝はこのルカの22章だけを見てゆきたいと思います。この章には主イエスと弟子たちとの最後の晩餐のことが記されていますが、ここには弟子の裏切りの予告、弟子の中で誰が一番偉いかという議論、ペトロがイエスさまを知らないと否定する予告、お金と持ち物と剣を持つことについて触れられています。これらが、弟子たちが直面していた、そしてこれから直面する「誘惑」に直結していたことと考えられます。主イエスさまのことを考えるよりも自分の考え、思い、願いを優先させている弟子たちがここにいます。案の定、この後に主は裏切られ、逮捕され、その時に剣が使用され、弟子たちに見捨てられ、イエスを知らないと否定されます。

では、いま生かされているわたしたちが直面している、これから直面すると考えられる「誘惑」は、何でありましょうか。実に多種多様な誘惑があるのではないでしょうか。皆さんには日々どのような誘惑があるでしょうか。ご存知のように、私は受難節の期間、大好きなチョコレートや甘いものを口にしないと決めていますが、目に映る甘いものがすべて輝きを増して誘惑してきます。まだ始まって5日ですが、この誘惑と戦う最初の2週間が最も大変です。なぜかというと、甘いものに自然に手が行ってしまうからです。

さて、わたしたちは日々の歩みの中でどのような誘惑があるでしょうか。自分のことしか考えない、すぐに結論づける、すぐに人を裁く、人や持ち物を自分や自分の持ち物と比較する、新しいものが欲しくなる、現状維持、現実逃避、大切なことを先延ばしにすることなどがあります。また、怒る、恐れる、悲しむ、悩む、疑う、逃げる、諦めるという誘惑もわたしたちにいつもつきまといます。その他にどのような誘惑があるでしょうか。数え切れないほどあることでしょう。

さて、パウロ先生は弟子のテモテにこのようなことを書き送っています。今朝、その箇所を読むことも大切かなぁと思わされます。テモテへの第二の手紙3章1節から5節。新共同訳聖書、新約の393ページの下の段です。このようにあります。

「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。」

このような人になるサタンの誘惑はわたしたちにいつもあって、「こういう人々を避けなさい」という言葉にはもう一つ意味があって、「このような人になることを避けなさい。そういう誘惑を避けなさい」ということがあるのではないかと感じますが、皆さんはどのように感じられるでしょうか。

主イエスは、弟子たちに、そしてわたしたちに「誘惑に陥らぬように祈っていなさい」と励まされますが、弟子たちは眠り込んでしまったと記されています。ただここで注目しなければならないのは、「悲しみの果てに、眠り込んでしまった」という点です。弟子たちは何を悲しんでいたのでしょうか。詳細は記されていませんが、22章の最初に記されている祭司長や律法学者たちが主イエスを殺そうとしていることをやっと感じ取るようになり、イエスさまを取り巻く状況が一変し、イエスさまが直面してきたユダヤ社会からの拒絶がさらにエスカレートすることを感じ、主との別れが近いかもしれないと感じ始めたからかもしれません。思い煩いすぎることや取り越し苦労もあったでしょう。そういう中で感情的に打ちひしがれるようになっていたのではないかとも考えられます。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちはイエスさまのことではなく、自分たちのことで思い煩い、取り越し苦労をし、悩み苦しんで、落ち込んで、塞ぎ込み、疲れきって眠ってしまうことが多いのではないでしょうか。そういうわたしたちに「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬように、起きて祈っていなさい」と主イエスはおっしゃいます。わたしたちは自分のことで忙しい時、時間を聖別して神様に祈り、わたしたちの必要を願い求めることがなく、試練や苦悩を通してやっと神様の前にひざまずき祈ります。しかし主イエスは、いつも神様に祈り続けなさいとわたしたちを励まします。それは、わたしたちの周りに「誘惑」が多いからです。わたしたちを惑わし、わたしたちの心を神様から遠ざける力が強いからです。

誘惑とは何かということを今朝ご一緒に考えてきましたが、誘惑とはわたしたちの心を神様から遠ざけ、神様への信頼を失わせ、自分の知恵と力に頼ることだと言えるのではないかと考えます。自分の知恵や力だけに頼ると心も身体も疲れきってしまい、弱くなってしまいます。

また、弟子たちは、イエスさまと自分たちの置かれている状況がいかに厳しいのかを見くびるというか、過小評価するという誘惑に陥り、眠りに陥ってしまったのかもしれません。わたしたちも同じ間違いをしないように主イエスに今朝励まされていますが、わたしの個人的なことを申しますと、今回のコロナウイルス感染の危険性をこの3週間見くびっていました。ですので、執事会を招集して、対策を講じることが後手後手になり、執事会の中にも混乱が生じました。わたしが先延ばしという誘惑に負けてしまったからです。申し訳なく思っています。

同じような間違いをしないために、主の御言葉どおり、誘惑に陥らないように目を覚まして祈り続ける必要です。イエスさまの御名によって祈ることがわたしたちを神様につなげ、神様の愛に触れさせ、わたしたちを励まし、奮い立たせ、主イエス・キリストによる勝利を確信させるからです。コロナウイルスの脅威は必ず過ぎ去ります。わたしたちに必要なのは、恐れることではなく、主なる神様に信頼し、主イエスさまに聴き従って、日々忠実に歩むことです。神様に祈り、神様の御心がなされますようにと祈り、主から賜る勝利を信じましょう。