霊の実・寛容

「霊の実・寛容 寛容とは主への信頼」 11月第一主日礼拝宣教 2020年11月1日

 ガラテヤの信徒への手紙 5章22節〜23節 

 ヨハネによる福音書 11章1〜6節、17〜27節     牧師 河野信一郎

おはようございます。今日から11月です。新しい月の最初の日の朝に、この礼拝堂で、またインターネットを通して皆さんと礼拝をおささげできる幸いを与えてくださる神様に感謝いたします。わたしたちに絶え間なく注がれる神様の愛、そして礼拝者として招いてくださる主の恵みは大きな喜びでありますが、神様に祈り、助けを求めたいことも多くあります。

わたしたちの教会から送り出されている大切な家族に、遠いフランス、ドイツ、スウェーデン、ノルウェー、そしてアメリカで生活し、大学などで学んでいる兄弟姉妹たちがいますが、ヨーロッパでは新型コロナウイルス感染の第二波が猛威を振るい、感染者が爆発的に増加する中でスペイン、フランス、ドイツでは再びロックダウンが始まり、イギリスでもその可能性が高まっています。フランスの大統領は春から初夏にかけての第一波を超える最悪の状態になっていると訴えています。アメリカもコロナ感染問題だけでなく、西海岸からコロラド州にいたる山火事やテキサス南部からルイジアナ州、そして南部の州をまたいで毎月のように次々と襲って来る大型ハリケーン、アメリカを二分にする熾烈な大統領選も大詰めを迎えています。トルコでは先日大きな地震があり、たくさんの犠牲者が出ています。

日本でも新規感染者数とクラスターの数が全国的に増加していて、東京は連日200名を超えています。今年は、コロナとインフルエンザの「ツインデミック」がこの冬襲い大きな被害を与えると恐れられています。多くの人々が悲鳴をあげています。フランスの繁華街にあるレストランオーナーがテレビのインタビューで「コロナウイルスではなく、ストレスで殺されてしまう」と涙を流しているシーンを見て、心が痛みました。大都市から離れようとする人々の車で道路は大渋滞。フランスやイタリアではロックダウンの判断を下した政府に反対するデモが激化しています。 

世界中が混乱している中で、わたしたちは本当に何をなすべきでしょうか。世の終わり、終末がいよいよ来ると嘆き、将来を絶望すべきでしょうか。いいえ、違います。わたしたちの置かれている現状が史上最悪に見えても、聞こえても、感じても、思えても、それでもすべてのすべてをご支配され、驚くべきご計画がある主なる神様に信頼する。神様に信頼し続け、救い主イエス・キリストのみ名によって祈るのです。祈ることを決して止めてはなりません。

さて今朝もご一緒に、ガラテヤの信徒への手紙の5章22節と23節に記されています9つの霊の実について聴いてゆきたいと思いますが、これまでに「愛」、「喜び」、「平和」いう霊の実について教える主イエス様のみ言葉と使徒たちを通して語られる神様のみ言葉に聴きましたが、今朝は「寛容とは主への信頼」という主題で、4つ目の霊の実である「寛容」についてご一緒に聴いてゆきたいと思います。

しかし、皆さん、どうでしょうか。「寛容」という霊の実を結びなさいと励まされている訳ですが、わたしたちは「寛容」という意味が分かっているでしょうか。寛容とは、多くの場合、人に対して「優しい、大らか、心が広い」という理解があると思います。辞書によれば、寛容とは確かに「寛大・心の広く緩やかなこと、咎め立てしない、他人の間違いを厳しく責めない」とありますが、福音理解の違いから教会内に論争が起こり、分裂し、互いに愛し合えない、互いの存在を喜び合えない不満や痛みや悲しみのあるガラテヤの教会、そのような中でたいへん苦悩し、傷ついているクリスチャンたちに対して、「互いにもっと優しくなりなさい、もっと大らかになりなさい、心をもっと広く持ちなさい」と果たしてパウロ先生はそのように励ましているのでしょうか。

ストレスの多い現代に生かされているわたしたちも、日々の人間関係の中で、理解し合えない困難さ、互いを認め合えず、喜び合えず、共に働けないと心に不満を抱くことが多い訳ですが、そのようなわたしたちに対して、パウロ先生は神様の霊・ご聖霊の助けを受けて「寛容」という実を結びなさいと励まします。しかし、正直な気持ち、そう励まされてもわたしたちは困難さを覚えるのではないでしょうか。何故でしょうか。理由は簡単です。わたしたちは罪人で、わたしたちに愛が足りないからです。忍耐が足りないからです。限りある自分の感情だけで相手を理解しよう、受け入れよう、許そう、愛そうとするので、次第に空回りが始まり、心が徐々に苦しくなり、大きなストレスを感じます。そのようなわたしたちが神様の求めておられる「寛容」を身に付けるためには、神様の愛が必要不可欠なのです。

コリントの信徒への第一の手紙13章4節から7節に、神様から賜る愛の特質が記されていますが、その最初に「愛は忍耐強い」とあります。「愛は忍耐強い」。この「忍耐強い」というギリシャ語(マクロセゥーミ)がガラテヤ5章22節とコロサイ3章12節では「寛容」と訳されています。つまり、寛容とは忍耐強いということです。今朝皆さんとまず心に覚えたいことは、イエス・キリストを通して神様の愛を受けないと、わたしたちは決して寛容になれない、忍耐強くなれないということです。つまり、寛容に、忍耐強くなれない時イコールわたしたちの内に神様の愛がないということであり、わたしたちは互いに愛し合えないということになります。神様の愛が不足している、必要だということです。

教会内に争いごとや派閥なるものがあることは本当に悲しいことですが、傷ついている教会が健康を回復し、霊の実を結ぶ教会になるためには、まず教会員一人一人が主イエス・キリストにしっかりつながり、神様の愛をしっかり受け取り、そして忍耐をもって互いのために祈り合う、愛し合う、許し合う、受け入れ合う、仕え合う、そして共に歩むということが必要となります。主イエス・キリストを通して神様が与えてくださる愛は、自分の好きな家族や仲間や親しい人だけを愛するための愛ではなく、わたしたちが「敵」と感じる人達を愛し、祈り、仕えるためにあるとルカによる福音書6章に記されています主イエス様の言葉に聴きました。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している」と32節で主は言っておられます。では、敵を愛し、わたしたちを憎む人に寛容になる方法はあるのかという問いに対して、「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と主は励まします。わたしたちの心の奥底にある必要・渇望を神様に祈り求める時に、神様は、イエス様とご聖霊を通して、神様と隣人を愛し、教会内で互いに愛し合うだけでなく、互いに忍耐強くなれる愛という力を惜しみなく与えてくださるのです。

さて、使徒パウロは彼の数々の手紙の中で、「あなたがたには苦難があるが、根気強く耐え忍びなさい」と何度も励ましています。寛容と忍耐はいつも二つで一つとなっています。使徒ヨハネは黙示録の中で、7つの教会に対して「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている」、「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った」という主の言葉を書き送っています。使徒ペテロは、彼の第二の手紙3章で、主イエス様の再臨が遅れているのは、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(9節)と記し、また「主の忍耐深さを、救いと考えなさい」(15節)と言っています。エルサレム教会の指導的な立場にあったヤコブは彼の手紙5章7節で、「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」と励まします。いつまで耐え忍ぶのか。それは主の再臨までです。

4つの福音書を見てゆきますと主イエス様が「寛容・忍耐強さ」というテーマで教えているところは非常に少なく、マタイによる福音書18章後半にある「仲間の借金を許さない王の家来」のたとえを語られたところと、ルカによる福音書8章で「種を蒔く人」のたとえをイエス様が語る中で、「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(8:15)と教えられたのみです。

しかし、「寛容・忍耐強さ」というテーマで祈り求めていた時に与えられたのが、ヨハネによる福音書11章1節から44節までに記されている主イエス様と大親友のマルタとマリアとのやり取りです。ここにはマルタとマリアの兄弟ラザロの死とイエス様がラザロを生き返らせる奇跡が記されていて、1節から44節まで読むことが本来は良いのですが、今朝はイエス様とマルタのやり取りのみの部分だけを読んでいただきました。もう一度読みたいと思います。

1節から読みましょう。「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」とあります。ここに愛する兄弟が病気で苦しむ姿に心を痛める姉妹がいます。その病気が異常なものに感じたマルタとマリアは焦っていました。危機感を感じていました。もしかしたら、ラザロを失ってしまうかもしれないと恐れました。ですが、イエス様ならばラザロを癒してくださると希望がありました。ですから人をイエス様のもとへ送ってイエス様にすぐに来て欲しいと嘆願するのです。わたしたちもその気持ちがよくわかるのではないでしょうか。しかし、イエス様は動かれないのです。ラザロのもとに走らないのです。イエス様は「マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と記されているのに、動かないのです。わたしたちは「えっ、なぜ?何考えているの?」と衝撃を受け、頭を抱えます。心が騒立ちます。なぜ?その問いに対してイエス様は不思議なことを言われます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と。これはどういう意味でしょうか。

イエス様がようやく腰を上げてベタニアについた時、17節ですが、「さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」とあります。マルタたちはイエス様に希望を抱き、ずっとずっとイエス様が来られることを待ち続けましたが、イエス様が来られないことと愛する兄弟の状態が刻々と悪化してゆく中で、苛立ちがあったと思います。しかし、彼女たちの願いもむなしくラザロは死にます。愛する家族を失う痛み、皆さんもよくおわかりではないでしょうか。ここを読み進めてゆくと、イエス様が着く前に、既に多くの人たちがマルタたちを慰めに来ていたとあります。イエス様というお方がなんたる失敗(失態)!と叫びたくなるような状態になっていました。

イエス様がやっと来られたと聞いたマルタはこのようにイエス様に言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と。マリアもイエス様に同じことを後で言うのです。「主よ、もしここにいてくださいましたら」という言葉に、「わたしたちの願いに応えてすぐに来て癒してくださっていれば、このような悲しみを味わうこともなかったでしょう」という気持ちがあるでしょうか。恨み節でしょうか。わたしならば、そういう嫌味の一つや二つを吐いていたかもしれません。けれども22節から27節のイエス様とマルタのやり取りが重要なのです。読んで見たいと思います。

「『しかし、あなたが神にお願いになることはなんでも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。』イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』と言った。イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない、このことを信じるか。』マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。』

ここでマルタは「復活の時に復活することは存じております」と言います。つまり、「知っている。思っている」と言うのです。しかし、イエス様は「存じている。知っている」だけでは不十分である、あなたはわたしを信じる必要があると25節から26節で3回も「信じる」と言う言葉を使って信仰へと招いています。

今朝皆さんにお伝えしたいことはこれです。イエス様を信じる信仰がないとイエス様につながることができないので、寛容・忍耐がわたしたちにないのです。神様の愛がないと忍耐がないので、すぐに苛立ったり、不安になったり、不満を口にしたりします。そして「諦める」という道しか残されないのです。諦めとは希望を手放すということです。忍耐強さ、寛容がないと、わたしたちは「存じている。知っている」という知恵と知識のレベルにとどまるだけで希望を持てないのです。

しかしイエス様は「わたしを信じなさい」とわたしたちを招かれます。「知っている」というレベルから「信じる」というレベルへ、寛容・忍耐を持つ者として招かれます。わたしたちは「死で終わる者」ではありません。永遠に神様と生きるためにイエス様はこの地上に来てくださり、わたしたちの罪、不信仰を十字架上で贖ってくださり、復活の力によって忍耐強く、寛容という霊の実を結んで生きる者として招き、共に歩んでくださいます。わたしたちがイエス様を救い主と信じることが神様の栄光であり、イエス様が栄光を受けることでもあるのです。イエス様を信じるとはイエス様に信頼することです。主に信頼することから寛容という霊の実を結ぶことができます。焦らずに、苛立たずに、いつも主に信頼しつつ、一緒に歩みましょう。