預言者ミカとマラキはイエスを誰と云うか

「預言者ミカとマラキはイエスを誰と云うか」 十一月第四主日礼拝 宣教要旨 2017年11月26日

ミカ書 5章1節、マラキ書3章1〜5、13〜18節    牧師 河野信一郎

「イエスは誰か」というテーマで宣教シリーズを続けていますが、今回は預言者ミカとマラキがイエスを誰と云っているかに聴きます。

預言者ミカは、5章1節においてイスラエルを治める者(メシア)は、ベツレヘムにから出て、彼は主の力、神の御名の威厳を持ってイスラエルの群れを養い、そしてこのメシアこそまさしく平和であると預言しました。実に主イエスはベツレヘムに生まれられ、イスラエルの民を養い、十字架の贖いの死と三日後の復活を持って私たちに平和、平安をお与えくださいました。来たるべきメシア・キリストに関してイザヤをはじめミカに至るまで預言されたことは、すべてイエスによって見事に成就しています。

それでは、旧約聖書の最後の書として位置づけられているマラキ書で、預言者マラキはメシア・キリストのことを誰と云っているでしょうか。マラキ書3章に聴いてゆきましょう。

まず、預言者マラキが生きた時代と背景を分かち合い、どのような人たちに神の言葉を語ったのかを分かち合いたいと思いますが、マラキが神に仕えた時代は、70年にわたるバビロン捕囚から解放され、エルサレムにイスラエルの民が帰還してから数十年がすでに経過した時代です。エルサレムに神殿が再建され、廃墟の中から回復して来た時代です。帰還した人々の代が変わり、2世、3世の時代です。

その人たちが、3章14節から15節でこのようなことを云っていたと記されています。「神に仕えることは虚しい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても、何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ」と。何十年も主に仕えてきたけれども、年を取り、身体も衰えてゆく中で、神に仕えることを虚しく思えるようになっている人々がいます。一生懸命に主に仕えて来ても、信じて来ても、何も良いことが起きない、何も変わらないと信仰の虚脱感、脱力感を味わっている人たちがここに記されています。

私たちにも、そのような思いが襲って来ることがあるのではないでしょうか。日々の信仰が、礼拝が力を失っていたのです。信仰を持って生きること、礼拝をささげて生きることに喜びと感動がなくなってしまった。そして、「これからは自分のために生きてみよう。だって、神を畏れない人たちは悪いことをしても栄えているし、神を軽んじ、試みても罰を免れているじゃないか。自分もそのように生きてみよう」と考えてしまうわけです。私たちも、そのような誘惑に遭うのです。今そのような誘惑がなくても、いつかふとそのような思いを抱く、エアポケットのような時を経験するかもしれないのです。主はいつも共にいてくださるから大丈夫と思っていても、様々な出来事、体調や心の不調によって信仰が揺さぶられ、試みを受け、信仰が問われるのです。

しかし、そのような人々に対して預言者マラキは3章1節で、「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」と言います。信仰が弱り果てている人々のところへメシアは突如来られると預言者は言うのです。「聖所に来られる」とは、私たちの礼拝の場に来られて、私たちの信仰がなくならないように守り、慰め、励まし、強めてくださると言うことです。「突如来られる」とありますが、これは私たちの思いのかけない時に来られると言うことであり、私たちの思いや計画に従ってではなく、神が計画され、備えられ、神が良しと判断される時に来られるということです。神の時は、私たちには分かりませんが、私たちが神を、救い主をもっとも必要としている時に来てくださるということだと思います。ですから、神の時を信じてひたすら待つ信仰と忍耐が私たちにいま求められているのです。

メシアは、私たちに喜びを与える契約の使者として来られると1節の後半にありますが、真の喜びを与えるために不必要なものを私たちから取り去られるお方でもあると2節に記されています。そして私たちを精錬し、汚れを取り除く者として来られると3節前半にあります。そして、メシアによって正しく礼拝をささげる者にメシアによって造り変えられ、神の喜びとなるとも4節にあります。マラキは、メシアは裁きを与え、主の目に正しい者と神に逆らう者を分けられると5節、また16節から18節で言っています。

待降節・アドベントは、救い主としてお生まれになられた御子のお誕生をお祝いするクリスマスの準備の期間でありますが、それだけではなく、主イエスが再びこの地上に来られるという主の再臨を待ち望み、備える時でもあることを覚えたいと思います。主イエスはいつも共におられるという信仰と、主は再び来られると言う信仰が私たちクリスチャンの信仰です。主の再臨の時、その時がいつかは私たちには分かりません。ですから、いつ来られても良いように、目を覚まして備え、また働いてゆく必要が私たちにはあるのです。

預言者マラキは、裁き主なるメシアが来られると云いました。日々の営みの中で苦しいこと、悩ましいこと、痛むことがあっても、信仰を投げ出すことがないように主を仰ぎましょう。好き勝手に生きてみたいと思うようなことがあっても、主イエスを見上げ、主を畏れ敬い、礼拝をささげ、主なる神と隣人に心から仕えてゆきましょう。そのためにも共に祈り、祈り合いましょう。その祈りに主は耳を傾けて聞いてくださり、愛の御業をなしてくださると16節で約束されています。信じましょう。17節では、「わたしが備えているその日に、彼はわたしにとって宝となると万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼を憐れむ」と主は約束してくださって、その約束を主イエスによって守ってくださいました。この約束は、主イエスを通して守り続けられます。この約束を信じる信仰へと私たちは招かれていますから、心を開いてこの信仰への招きに応えましょう。