宣教「共に喜び、共に泣く」

宣教「共に喜び、共に泣く」   大久保教会副牧師 石垣茂夫   2017/11/19

聖書:ヨブ記1章6~12節  招詞:ローマの信徒への手紙12章14~15節  

今朝は聖書朗読でヨブ記1章の御言葉を読んでいただきました。ヨブ記を貫くテーマは「人はなぜ、何の理由もなく災いに遭(あ)い、病に苦しまなくてはならないのか」ということです。答えを得る事の難しい問題ですが、ご一緒に御言葉に導かれたいと思います。

主人公のヨブは、神に祝福され、世の中にこれ以上の幸せ者はいない人物でした。6節から読んでいただきましたが、この箇所はわたしたちの覗くことの出来ない“天上の会議”です。

1:6 ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。神様の主催する会議に、御使いと共にサタンが出席しているという衝撃的な場面です。みなさんは、サタンの役目、それは地上を巡回して、人の罪を探し出すこと言われます。

1:8 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。

神はヨブを信頼しきっていますが、サタンは簡単に頷(うなず)くことはしません。

1:9 サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」

これは鋭い質問です。「神さま。ヨブは何かよい事があるから、あなたに従っているだけではないのですか」と切り返しました。

北森嘉蔵(かぞう)という方がおられました。牧師であり、世界的に認められた日本人ではただ一人といわれる神学者でもありました。若いころのある日、その方の「ヨブ記の講義」を聞きに行きました。そのときの言葉の中で最もインパクトを受けたのが、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」というこの言葉でした。先月の教会学校でも、『教会行くと、どんなメリットがあるのですか?」と逆に問われ、おさそいしたものの、どう答えたものかと困惑した』そのようにお話くださった方がありました。わたしたちは何らかの機会に、「信仰を持つと、何かいいことがあるのですか?」と聞かれることがあると思います。そのとき、「そういう問題ではないのです」と言ってみるのですが、相手には伝わりにくい面があり、困ってしまいます。さて、神と“サタンの会議”に戻ります。もう一度9節から読んでみます。

1:9「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。

1:10 あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか

1:11 ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」 1:12 主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。

“天上の会議”では、このような相談がなされていたのです。ヨブの信仰が本物かどうか、「ひとつ試してみてはどうか」とサタンは神さまに提案し、神はその試みをは許しました。“13節から19節で、間もなくヨブには何も知らされぬまま、次々と災難が襲いました。財産を失い、愛する10人子どもたちを奪われてしまいました。よい事はすべて奪われ、残ったのは、失ったことへの悲しみだけでした。

しかしヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。」(1:21),このように言って、神を呪うことはありませんでした。ヨブは、こうした災難に遭(あ)っても、そのことで、神さまへの信頼を失うことはありませんでした。

ヨブ記第2章で神は、再びサタンの手にヨブを委ねます。するとヨブは、ひどい皮膚病にかかり、激しい苦痛に見舞われてしまいます。ヨブの妻は、これほど苦しむのなら、「神を呪って死んだほうがましだ」とさえ言いました。

この後(あと)ヨブは、「自分はなぜ、何の理由もなく不幸な目に遭(あ)うのか」と問い続けます。三人の友との長い問答が続きますが、納得のいく答えは得られません。ヨブは神に祈りますが、神は沈黙しておられ、答えてくださいません。ヨブが長く辛い苦しみを経て、絶望の淵(ふち)に立った時、神は初めて嵐の中から「お前は何者か」と問いかけてこられました(38:1)。ヨブと初めて向き合ってくださった神の第一声が「お前は何者か」という言葉です。

ヨブは自分の命以外、すべてを失いました。しかしヨブは思わずはっと気づきます。それは今まで、「自分はなぜ」、「自分はなぜ」と、常に自分にこだわってきたことでした。

ヨブ記を読んできて、これほどまでに厳(きび)しい神と向き合い、神に従うことの出来る人物が、ほかにいるのだろうかと思いました。ヨブに向き合った神は厳(きび)しい神でしたが、どこまでもヨブを信頼し、ヨブの苦しみと共にいてくださる神でもありました。ここにわたしたちの神の姿があります。ヨブも忍耐強く、神に祈り、神の答えを求めました。時には自分を正しいと証明してくれる「証人」が欲しい、「神にとりなして下さる方」が欲しいと訴えていました(9:3,16:9/19:25)。けれども「証人」などは与えられませんでした。

わたしたちは今朝、パウロの生涯から、「もう一人の神」を覚えたいと思います。ヨブが求めて与えられなかった存在です。招詞で、パウロの書いたローマの信徒人への手紙12章の御言葉を読んで頂きました。

12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。このような心境にたどり着いた使徒パウロは、幾つかの手紙の中でこのようにも言っています。

喜ばしいことがあっても、も苦しいことがあっても、それは神が選び、神が備えて下さっていることなのだ。今はただ、神のみ手に、自分の身を委ねるのみだ。』このように言っています。私たちもそのようなことを経験させられます。私たちは、苦しむ人に替わることは出来ません。わたしたちは、悲しむ人の悲しみを消すことは出来ません。その人の病を担う事も出来ません。ただ深く共感し分かち合うことが私たちにできることです。わたしたちにできることは、『ただ、隣人となることだ』と、パウロから教えられています。

私たちは、命を得て生きていく中で、これからも、身近な人たちと一緒に、この問いを繰り返し問うていくことでしょう。その問いに、わたしたちは十分には答えられません。苦難の中にある方に、神が働いてくださるようにと祈るのみです。

キリストは全く罪がないのに、人間の持つ弱さ、悲しみと苦しみのすべてを味わい尽くし、ご自分を捨てて十字架の死をとげてくださいました。それは、どんな苦難も、わたしたちには決定的な力は及ばないことを指し示すものです。