自分の十字架を背負うとは

「自分の十字架を背負うとは」 一月第二主日礼拝  宣教要旨 2018年1月14日

  マタイによる福音書16章24〜25節    牧師 河野信一郎

 「イエスとは誰か」というテーマで宣教を続けてきましたが、福音宣教を始められてしばらく経った時、イエスは弟子たちに「人々は、人の子のこと(つまりイエスのこと)を何者だと言っているか」とお尋ねになられました。弟子たちは、「洗礼者ヨハネだ」という人たちや「預言者エリヤだ」という人々や「エレミヤだ」という人たちや「預言者の一人」という人もいますと答えます。そうしたらイエスが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねます。シモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えますと、イエスは「あなたは幸いだ。あなたにこの事を現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われます。

 私たちがイエスをメシア、つまりキリスト・救い主として信じることができ、告白できるのは、すべて神からのお恵み、一方的な憐れみの業であるとイエスは私たちに教えます。イエスを救い主と信じ、神を信じることができるのは、神からの恵みです。そして、その恵みの上に、与えられた信仰の上に、岩の上にキリストの教会を建てるとイエスは宣言します。私たち大久保教会も、この神の恵みの中に救われ、集められ、イエスをキリストと信じる信仰と告白の上に建てられている事を共に喜び、感謝したいと願います。

 しかし、私たちの身の上に危険が忍び寄り、不安をかき立てるような出来事が起こりますと、私たちの信仰は大きく揺らぎます。そして目の前の主イエスのことよりも、自分のことで精一杯になり、自分の都合で主イエスのことを考えたり、優先順位を変えたりしてしまいます。そのような私たちの思いを「神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロに指摘し、そのような思いへとペトロを誘惑するサタンに対して「サタンよ、引き下がれ」と命じるのです。

 今回、ご一緒に注目し、自分自身と向き合いたい言葉は、主イエスが弟子たち一人ひとりにおっしゃられた24節の言葉です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 この短い主の言葉には、少なくとも4つのことを私たちに考えさせ、決心するようにと導きます。

 まず主イエスは私たちに、「弟子としてわたしについて来たいか」と尋ねられ、「ついて行くか、ついて行かないかを決めるのはあなただ」と示します。「あなたはわたしを何者と言うか。そしてそのようなわたしについて来たいか」と私たち一人ひとりの目を見て問われるのです。もしイエスがあなたの救い主、キリストであるならば、そのお方について行くことが神の御心であり、私たち一人ひとりが成して行くべきことではないでしょうか。

 次に、主イエスは「もしわたしを救い主だと信じてついて来たいのであれば、自分を捨てなさい」とおっしゃいます。「自分を捨てる」とは、自分を否定するとか、自分を傷つけたり、損なうということではありません。自尊心を放棄しなさいということではありません。神の御心は、私たちが神に創られ、愛され、主イエスによって罪赦され、祈られ、生かされている存在であることを喜び、感謝して生きることです。私たちが互いに思いやり、尊重し合い、愛し合い、助け合い、励まし合い、慰め合って、共に生きて行くことが神の御心です。ですから、「自分を捨てる」というのは、神を第一にすること、神の国と義を第一にして生きること、つまり私たちの優先順位を神第一にするということです。

 しかし、そのような優先順位ではこの世の中では生きてゆけないと私たちは色々な思い煩いをしてしまいます。つまり、主に従って行く中で、これから永遠に与えられる祝福よりも、いま自分の手元にあるものが離れて行く、取り去られることに不安と恐れを感じてしまうわけです。ですから、主イエスはマタイ6章25節から34節で、「思い煩うな。何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て加えて与えられる」とおっしゃられました。

 さて、主イエスの「自分の十字架を背負いなさい」という言葉がこの宣教の中心です。この言葉から、様々なことを考えさせられ、また示されます。まず、私たち一人ひとりは自分で背負わなければならない十字架があるということ。そしてその十字架を背負うことは一時的なことではなく、この地上で生きてゆく中でずっと背負ってゆくということ。そして、この十字架は、イエスを救い主と信じるすべての人々が自分で負うべきもので、平等に与えられるものであり、この十字架に大小がないということです。そして私たちが心に刻まなければならないのは、私たちが背負うべき十字架はいくつもあるのではなく、「一つ」であることです。つまり、主イエスに従おうとしている人数と同数の種類の十字架があるのではなく、全く同じ一つの十字架であるということです。

 私たちはそれぞれに違う生い立ちやバックグラウンドがありますから、それに準じた十字架があって、それを負わなければならない、それが運命だと思い込んでしまっているところがあると思います。例えば、性別、年齢、健康状態、社会的地位、教育、経済力、国籍、人種、肌の色などによって、それぞれが負うべき十字架は違うと私たちは思い込みやすいのですが、私はそういうことは全て関係ないと考えます。なぜなら、主イエスが「自分の十字架を背負いなさい」と言った相手の弟子たちには上記のような違いがありましたが、もし一つの十字架でないならば、「それぞれの十字架を背負って」と言ったでしょう。

 では、弟子たちや私たちクリスチャンに共通する一つの十字架とはいったい何でしょうか。それは、主イエスの十字架を見上げれば判ると思いますが、主イエスの十字架は何のための十字架であったでしょうか。そうです。私たちの罪を贖うための十字架でした。この主イエスは、十字架の死に至るまで従順に父なる神の御心に従われ、ご自分の十字架を負われ続けました。別の言い方をすれば、十字架の死に至るまで、主イエスは神の御心に従って、神と罪人である私たちに僕のように仕えてくださったということです。つまり、私たちが負うべき十字架とは、私たちの主のように生きるということ、「主の僕として生きる」ということ、この地上での命が尽きるまで「主の僕」という従順に生き、神とキリストのからだなる教会と隣人に仕えて生きるということ。それが私たち一人ひとりが負うべき「十字架」なのだと私は示されるのです。「十字架を背負うとは、僕として生き、仕える」ということ。しかし、そのように生きてゆくためには、まず私たちが自分の優先順位をしっかりと再設定する決心と献身が必要です。

 主イエスが私たちに「自分の十字架を背負いなさい」とおっしゃる時、自分の力ではどうすることもできない巨大な十字架を負いなさいと言っておられるのではなくて、「わたしの僕としてこれから生きてゆきなさい。あなたに必要なものはわたしがその都度あなたに与え、あなたを支えるから」とおっしゃられているように聞こえます。大切なのは、今から、今日から主の僕として行くことを心に定め、主にひたすら従ってゆくことであって、私たちの過去や境遇や数々の過ち、心の傷などは、主イエスがアガペーの愛を持ってすべて取り扱ってくださり、すべてを善きにしてくださいます。

 あなたが担うべき十字架は、あなたにしか担えない十字架です。他の誰かが代わってくれるものではありません。しかし、主イエスがあなたと共にいて、あなたの十字架を共に担ってくださいます。そして、共に担って生きる神の家族が備えられています。私たちに大切なのは、私たちを救うために十字架を負い、十字架に死んでくださった主イエスを信じ、主の僕として主に従い生きること、仕えて生きることを選びとってゆくことです。

 主イエスは、私たちに「わたしを信じ、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」、「わたしのように神と人々に仕える僕として生きてゆくことを信仰を持って選びとってゆきなさい」と招いてくださっています。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。わたしはあなた方の行いに応じて報いる」と主イエスはおっしゃいます。

 主イエスの僕として生きる者に、性別、年齢、健康状態、社会的地位、教養、経済力、国籍、肌の色などは全く関係ありません。それらは十字架ではなくて、十字架を負わない理由にもなりません。間違えれば、それらは主イエスに従わない言い訳になり、足かせとなるだけです。

 主イエスは、十字架の死と復活の力、愛の力によって私たちの足かせを打ち砕き、私たちを自由にしてくださいました。この自由を自分のために使うのではなく、主と隣人のためにおささげして参りましょう。それが、主イエスがおっしゃる私たち一人ひとりが、また弟子である私たちが共に背負うべき「十字架」なのです。