「心の装い」ルツ記から

宣教「心の装(よそお)い」―ルツ記から―   大久保教会副牧師 石垣茂夫     2018/09/16

聖書 ルツ記1章1~10節 招詞 ペトロの手紙Ⅰ3章3~4  賛美73「善き力にわれ囲まれ」

「ルツ記」、その初めに(1:1)「士師が世を治めていたころ、・・・」と書かれているのを読みまして、士師記に続いて「ルツ記」を読んでみました。士師の時代の荒々しさとは対照的に、「ルツ記」は心温まる美しい物語です。「ルツ記」は短い物語です。そして主人公のルツは、ユダヤ人ではなく、死海の東、モアブという外国の女性であることが特徴です。ルツも、しゅうとめナオミも、夫となるボアズも、同じようにこの物語の主人公と見て読むことも出来ます。今朝の礼拝では、厳しい時代であっても、ルツやナオミの心に形成されていった「内面の装い」、「心の装い」にわたしたちの思いを向けてみたいと思います。

 

一節に書かれていますように、ベツレヘムから一組の夫婦、エリメレクとナオミが二人の男の子を連れて、飢饉を逃れるため、止むを得ず隣国のモアブに移住しました。ベツレヘムはエルサレム近郊にあり、ダビデの町、イエス・キリストとの生まれた地として知られています。ベツレヘムとは、「パンの家」という意味です。本来は豊かな土地柄であったのでしょう。皮肉にも、「パンの家」が飢饉に見舞われたのでした。

モアブで、二人の息子は成人し、モアブの娘と結婚して暮しはじめました。ところが、10年ほどの間に、ナオミの夫エリメレクは、家族を残して死に、二人の息子も、嫁となったモアブの女性二人を残して死んでしまったのです。つまり、やもめとなったユダヤ人ナオミは、同じように未亡人となった二人のモアブ人の嫁とともに、異教の地で暮さなくてはならなくなったのでした。

そうしたなかで、ナオミは故郷のベツレヘムでは飢饉が納まり、状況が回復したという情報を耳にしまし、ベツレヘムに帰って暮そうということでした。8節には「故国ユダに帰る道すがら・・・」とありますので、三人は初めは一緒にユダに向かったのです。しかしナオミは途中で決心を変え、「嫁さんたち。あなた方二人は自分の里に帰りなさい。主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与えてくださるように」と、彼女たちの将来に神の祝福を祈り、モアブへの帰郷を促しました(1:11)。二人はなおも一緒に行くと願ったとき、ナオミは「そのようなことをすれば、それはわたしにとっては、もっと辛いことだ」(1:13)と説得します。ついに一人の嫁オルパはモアブに戻りますが、ルツはなおも、ナオミにすがりつき、こう訴えました。

 1:16 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。

 申命記25章には、配偶者に先立たれた妻の結婚に関する規定が記されています。

夫に先立たれた女性は、夫の家族以外の者に嫁いではならず、亡き夫の兄弟の妻となり、そのようにして生まれた長子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから絶えないようにしなければならないのでした。そのような役目となる兄弟のことを、レビラト(ラテン語)と言いますが、その言葉を使って「レビラト婚」と呼ばれるしきたりがユダヤにありました。ベツレヘムには亡くなった夫エリメレクの土地がありましたが、その家系の男子にしかこれを所有する資格が与えられていませんでした。

ベツレヘムに移り住んで間もなく、ルツには、ナオミの縁者ボアズと再婚するという、幸いなめぐり合わせが訪れます。そして息子オベドを授かりました。オベドには息子エッサイが与えられ、エッサイにはダビデが生れます。そのようにして、ルツはダビデの「曾祖母(gerat-grandmather)ひいおばあさん」となったのです。

 

わたしは宣教の準備をしていまして、内村鑑三の、ある逸話(いつわ)を思い出しました。

内村は自分の娘をルツ子と名付けました。日本では、聖書から名前をいただくことは珍しくあり、難しいのです。聖書のルツを知っている母方の祖母は、「止めておきなさい」と反対しました。その辛(つら)い身の上を心配したのでしょうか。ルツ子でなく、ツル子と名前を変えるようしきりに勧めたそうです。しかし内村は自分の娘をルツ子と名付けるほど、「ルツ記」に感動していたようです。そのようなことがあって33歳の時、初めて出版した「聖書研究」には、「ルツ記」を選んだと言われています。その内村鑑三の「ルツ記注解」は、内村の「聖書研究」の中でも、渾身(こんしん)の一冊(力が入っている)と評価されています。

ルツ記に戻ります。ナオミは異郷モアブの地に、夫と二人の子を失い、嫁のルツに伴われて寂しく故郷のベツレヘムに帰って来たのです。ナオミと嫁のルツの二人は、貧しい者の権利を利用して、他人の畑の落穂を拾い生活する以外に道がありませんでしたが、それからも厳しい生活続いたことに変わりはありません。しかし神は、ルツを顧みておられました。神はルツを、ナオミの縁者ボアズの畑に導き、ナオミの夫エリメレク家の責任をボアズが継ぐという幸いな出来事を起こされました。苦しかったナオミの生涯は、ルツの信仰によって支えられ、その晩年になって安息が与えられたのでした。マタイによる福音書1章にイエス・キリストの系図が記されています。そしてこの系図は主イエスの誕生で終えています。異邦人女性ルツの信仰の決断が救い主の誕生へとつなげられています。内村は「ルツ記注解」の最後に招詞の言葉を選んでいました。

3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。(Ⅰペトロ1:3~4)

ルツは義理の母ナオミによって「主なる神」への信仰を導かれていったと思われます。

信仰を「内なる人」と呼ぶことがあります。押し付けるようなものではなく、ナオミのこころの深い所からにじみ出てくる信仰です。ルツはそのようなナオミに導かれて、強く、しかもやさしく生かされているナオミに倣ってその信仰を受け入れたのでしょう。

わたしたちはどうでしょうか。人を説得し、信仰に導くことのできる言葉を持っているでしょうか。わたしたちにとってそれは難しいことだ思います。むしろ、何気ない、日ごろの生活の中で神を証しし、キリストを証していくのだと思います。

ルツはナオミを見ていて「主なる神」への信仰を持ちましたが、ナオミもまた、ルツと生活を共にすることによって『神様どうして』という疑いから解き放たれるという、大切な経験をしたのでしょう。

私たちはこの朝、このようにして、礼拝しつつ歩む信仰の友を与えられています。こうした友との交わりを、一層豊かにしていただきましょう。信仰の友とご一緒に、互いに信仰を育てられ、歩んで参りましょう。