「祈る」という愛し方

「『祈る』という愛し方」 三月第四主日礼拝 宣教 2023年3月26日

 ヨハネによる福音書17章6〜19節     牧師 河野信一郎

おはようございます。3月の最後の主日の朝、神様によってこの場所に集められ、賛美と祈りによる礼拝を神様におささげすることができて感謝です。オンラインで礼拝をおささげくださっている方々も歓迎します。あいにくの冷たい雨に打たれて桜も散ってしまいましたが、今年の桜を幾分か楽しむことができましたでしょうか。主の恵みに感謝いたします。

2022年度の歩みは、今週金曜日で終わり、土曜日から新しい2023年度が始まります。今年度は、「主の恵み深さを味わおう」という標語を掲げ、詩編34編9節と10節の御言葉、「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない」を年間聖句として聴いて歩んでまいりました。一年を通して大久保教会の礼拝に出席されている皆さんは、主の恵み深さをどれほど味わうことができたでしょうか。7月下旬から9月下旬までの2ヶ月間、オミクロン株の拡大によって、礼拝堂での礼拝を休止し、オンラインでの礼拝になりましたが、それ以外は主に守られて、礼拝堂に毎週集って礼拝をささげることができました。

この一年、他にもたくさんの恵みを神様からいただきました。新たな出会い、かけがえのない出会いが数多く与えられました。その出会いを祝福をもって与えてくださったのは神様です。この間、大切なお父様やお母様を亡くされて寂しい思いをされている方々もおられますが、その悲しみや寂しさを慰め、励まし続けてくださったのも神様であると信じます。病気や怪我で不自由な生活を強いられた方々もおられますが、その弱さの中で主の憐れみを経験されたのではないでしょうか。日々の仕事、親の介護、育児、学び、様々な雑務に忙殺されて、この一年があっという間であったという方々もおられると思います。そのような忙しさの中で、皆さんの心と身体を守り、わたしたちの信仰が守られ、恵みのうちに過ごすことができたのは、神様がいつも共にいて、わたしたちを守ってくださった主の恵みです。

残念ながら、この一年、わたしたちの教会では転入会やバプテスマはありませんでしたが、わたしたちのオンライン礼拝に出席されていた方がご自宅から近い距離にある教会に出席され始め、イエス様を信じて、今朝バプテスマを受けられます。そちらの教会の礼拝開始時間は10時半ですので、すでにバプテスマ式は終わってしまったかもしれませんが、わたしは心から神様の導きに感謝しています。一人の方が、イエス様を救い主と信じ、信仰を告白してイエス様につながり、同時に神様につながって神の子とされたのです。こんなに嬉しいことはありません。聖書に記されているとおり、天では喜びと賛美で満ちているでしょう。

バプテスマは、これからの人生をイエス様と一緒に歩んでゆく信仰生活のスタートです。決してゴールではありません。これからイエス様の言葉に養われて成長し、不必要な部分は剪定され、神様の望まれる実を結び続けてゆきます。その「実」とは、神様に礼拝を日々おささげすること、そして神様の愛とイエス様による救いを日々証してゆくことです。

わたしたちの教会では、この一年、神様への礼拝とイエス様を証しすることを大切にし、そのために生きることを目標として歩んできました。神様を第一とし、賛美と礼拝をおささげし、御言葉に日々聴き従うことが証の根幹です。祝福の基です。ですので、これからも共に礼拝をおささげし、証をし続けてゆきましょう。神様の恵みを共に味わい続けましょう。

大切な時間の中で、どうしても喜びを分かち合いたいことがもう一つあります。石垣副牧師から先週ご報告と献金へのお礼の言葉があったと思いますが、2週間前の12日の主日礼拝、「3.11を覚える礼拝」の後に感動的なことが起こりました。わたしは、「大久保教会の皆さんって、本当に愛に溢れた人たちの集まりなんだなぁ。素晴らしいなぁ。感謝だなぁ。このような愛に満ちた素晴らしい教会の牧師で幸せだなあ。」とずっと感動し続けました。

前の週の5日のメッセージの時に、わたしは「東北の3つの教会を覚えて、すでに6万円ほどの支援献金がささげられていますが、来週までにどうしてもあと3万円をみんなでささげて、各教会に3万円ずつお送りしたい」とアピールしました。そうしましたら、12日の礼拝の時に、その3倍の9万円が献げられました。また、アメリカの教会からも3万円が寄せられました。すべて合わせて18万9600円が献げられ、3つの教会にそれぞれ6万3000円ずつの献金をお手紙と共にお送りすることができました。

その数日後、3つの教会の牧師から感謝のお電話がありました。特にM教会の牧師は、「今年の教会財政はこれまで以上に厳しく、どうしようかと祈っていた時に、大久保教会からの献金が届きました。献金額の大きさにも驚きましたが、何よりも自分たちの教会が覚えられていることに大きな慰めと励ましを受けました」と喜びと感謝で声が震えていました。3つの教会の中で、最も古い教会であり、教会員も礼拝出席者も少ない教会ですが、神様を愛し、教会を愛し、人々にイエス様の福音を伝えたいと頑張っておられる教会です。そのような教会に、牧師家庭に、女の子が昨年秋に誕生したそうです。

お手紙をくださったM教会の方は、「大久保」という地名がテレビで出る度に大久保教会を覚えて祈ってくださっているそうです。本当に感謝です。遠く離れていても、このようなつながりがあるのは、すべて神様の愛とイエス様の十字架の死と復活があるからです。神様が救い主を与えてくださり、イエス様がその命を与えてくださったことを覚え続けると同時に、岩手、宮城、福島にある3つの教会のために祈り続けましょう。その祈りが愛する力、支援する力となってゆき、イエス様が今も生きて働いておられるという証しになります。

嬉しすぎて前置きが長くなりましたが、メッセージの本題に入ってまいりたいと思います。今年の受難節は、イエス・キリストが弟子たちを、わたしたちをどのように愛してくださっているのか、ルカ福音書を除く3つの福音書に記録されている十字架に架けられる24時間以内のイエス様の言葉に聴いています。テーマは、英語では「Acts of Love」、日本語では「愛の行動・行い」です。わたしたちを救うためにイエス・キリストはどのような事を成してくださったのかを福音書に聴いています。3日と12日のメッセージは、教会ホームページにありますので、ご興味のある方、もう一度お聞きになられたい方はどうぞお読み下さい。

しかし、時間のないお忙しい方々のために過去2回のメッセージを一言で要約したいと思います。最初のメッセージは、マルコによる福音書にある弟子たちとの最後の晩餐の出来事から、イエス様がわたしたちを救い、神様との新しい契約を結ばせるためにご自身のからだと血を十字架上で分け与えてくださったこと、そして裂かれたからだとながされて血潮の意味と目的について聞きました。次のメッセージは、ヨハネによる福音書に記録されている最後の晩餐の中でイエス様が弟子たちの足を洗われた事を通して、イエス様はわたしたちに謙遜に生きる模範、仲間を愛する模範、人々に心から仕える模範を示された事を聞きました。

今朝もヨハネによる福音書になりますが、イエス様は、ご自分の死を目前にしても、弟子たちのため、わたしたちのために祈ってくださったということを17章から聴き、「祈る」という愛し方があることを知り、イエス様のように祈る者とされてゆきたいと願っています。17章全体はイエス様の祈りが記録されており、特に6節から19節は、イエス様がこの地上に残してゆく弟子たちのために祈っておられる内容が記されていますが、今朝は最初にイエス様の弟子とはどういう人かという事について主の言葉に聞いてゆきたいと思います。

イエス様の弟子とはどのような人なのか、ご存知でしょうか。6節から8節に答えがあります。まず6節の後半に注目しましょう。「彼らは、御言葉を守りました」とイエス様は神様に言っておられます。ここから、イエス様の弟子とはイエス様を通して語られる神様の言葉を守る人であることが分かります。御言葉を守るとは、御言葉に日々聞き、従い、生きるという事です。次の7節に、「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています」とありますが、「知っている」とは、「喜んで受け取っている」という事です。ですから、イエス様の弟子とは主の恵みを日々受け取り、喜んで、感謝して生きる人であることが分かります。

8節の後半には、弟子たちは「わたし(主イエス)がみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです」とあります。イエス様の弟子とは、イエス様を神から遣わされた救い主であると信じる人のことです。もう一つ付け加えたいことは、イエス様を信じること、知ることは神様を信じ、知ることであり、そこに「永遠の命がある」とヨハネ17章3節でイエス様はおっしゃっています。イエス様の弟子たちには永遠の命が与えられる恵みがあるのです。

さて、9節から19節には弟子たちのために執り成しされるイエス様の祈りの言葉がありますが、この祈りは大きく2つに分けられます。最初の部分は、11節から16節です。11節に、「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」とあります。

イエス様が弟子たちと共に歩まれた時はイエス様が彼らを守り、保護をされたと12節にありますが、イエス様の贖いの死が近づき、弟子たちと一緒に居られなくなった事を受け止められているイエス様は、父なる神様に弟子たちの命と信仰を守ってくださいと願い求めます。理由は、イエス様の十字架の死を通して弟子たちに混乱が生じ、また主の復活後もユダヤ教徒たちから厳しい迫害を受け、散り散りバラバラになる彼らの弱さと危険性をイエス様は熟知しておられたからです。

ですから、「父よ、わたしの愛する弟子たちの信仰を守り、一つにつなぎ止めてください。あなたの愛とわたしの愛の証し人として生きられるように、彼らを憐れみ、あなたの御用にために用いてください」と主は祈られたのです。わたしたちは、イエス様によって罪赦され、愛され、祈られている存在である恵みを感謝しましょう。

さて、17節から19節に、主のもう一つの執り成しの祈りが記されています。17節には、「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」とあります。弟子たちを聖別してくださいと神様に祈ってくださっています。ここに「聖別」という言葉がありますが、これは「主の御用のために特別に分けられる」という意味の言葉です。つまり、イエス・キリストの弟子たちは、神様とイエス様の御用に仕える者として特別に選ばれ、分けられた存在であるという事です。人の上に立つ者ではなく、人々に仕える人です。イエス様の弟子とは、神とキリストとキリストのからだなる教会、そして人々に仕えて生きる人たちです。

しかし、どのように仕えていけば良いのか分からないので、「あなたの御言葉は真理です」という言葉が付け加えられています。イエス・キリストが神の御言葉であり、どのように歩み、生きるべきかを示してくださる道です。そして迷わないようにいつも共にいて導いてくださる光であり、真理なのです。

18節に「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」とのイエス様の言葉があります。キリストの弟子たちは、神様の愛とイエス様を通して与えられる罪の赦しと救い、永遠の命の希望を出会ってゆく人々に伝えるために生かされ、派遣されています。これが神様の愛と恵みに生きる者の使命であり、喜びです。

19節に「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」とあります。主イエス・キリスト、わたしたちの救い主は、わたしたちを救うためにその命を十字架上でささげてくださり、その愛の深さ、大きさを示してくださいました。わたしたちは、それ程までに主イエス様に愛されている存在です。その恵みを感謝して歩んでまいりましょう。そして、主を崇め、主を賛美し、御言葉に聴く礼拝を大切にし、主を証しする教会として、これからも愛し合い、祈り合い、支え合って、共に歩んでまいりましょう。