「約束」に生きる祝福

「『約束』に生きる祝福」 7月第二主日礼拝   宣教 2020年7月12日

 ガラテヤの信徒への手紙 3章15〜20節    牧師 河野信一郎

東京でのコロナウイルスの新規感染者数が三日連続で200名を超える厳しい現状ですが、今朝、この礼拝堂に集められている皆さん、またオンラインで出席されている皆さんと共に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。

先々週から感染者が増えていますので、週末の外出を控えられ、礼拝をオンラインに切り替えられた方も多くおられますが、賢明なご判断だと思います。「感染したらどうしよう」と不安を感じられるお方、ご自身やご家族の健康と命を守らなければならない責任があるお方は、どうぞ礼拝ライブ配信を用いて神様に礼拝をおささげいただきたいと思います。このような困難な時期にあっても神様の祝福がありますように、お祈りしております。

さて、今朝は、宣教に入る前に皆さんにお願いが二つございます。一つはアンケートに答えていただきたいというお願いです。3月29日の日曜日から礼拝をライブ配信しております。コロナ感染の恐れがじわりじわり拡大する中、必要性に駆られ、ちゃんとした心の準備も、配信のための機材を事前から準備することもなかった本当にドタバタのスタートでした。常に手探りの状態での取り組みでしたが、神様の憐れみと励まし、皆さんのお祈りと励ましの中で、週末の外出ができない教会員の皆さん、来会者の皆さんが礼拝をささげることができるように頑張りました。フェイスブック、インスタグラム、そしてユーチューブを使って配信を続けてきましたし、プライバシー保護のために個人名を出さないように心がけましたし、個人名を出す前にはちゃんと許可を得るようにしました。6月からは礼拝を2部制にしたり、他にも様々な工夫を重ねて参りましたが、これからのライブ配信の方針を考えてゆく上で、皆さんからフィードバック、ご意見をお聞かせいただきたいと執事会は願っております。本日、教会員の皆さん、また継続的に礼拝に出席くださっている方々にアンケートを配布させていただきました。ぜひ幅広いご意見を皆さんからお聞かせいただけると、今後の教会の福音宣教と教会形成の方針を決めてゆくことに反映させることができます。オンラインの方々には来週発送の月報と一緒にお届けする予定です。アンケートをデータベースで欲しいという方にはメールでお送り致しますので、その旨を教会までメールでお知らせください。

もう一つのお願いですが、コロナ感染の収束がいつになるのか見当もつかない苦しい状況ですが、神様はわたしたち大久保教会を祝福してくださって、来週19日の礼拝の中で、転入会式が執り行われ、一人の方が転入の証しをされ、教会の家族に加えられる予定です。すべて神様の驚くべきお取り計らいとお導き、恵みであって、本当に感謝なことです。来主日の礼拝を欠席される方々には証しを日曜日の朝にメールでお送りいたします。そして礼拝の中で教会の承認を得たいと願っています。この恵みを覚えて、この一週間お祈りください。

他にも大久保教会への転入を希望されている方々や主イエス様への信仰を告白してバプテスマを受けたいという決心をされている方が恵みのうちに与えられていますが、健康上の理由から、このコロナ感染が収束するまで教会に戻ってくることができずにおられますので、その方々のためにもお祈りに覚えていただければと思います。

さて、今朝はガラテヤの信徒への手紙3章15節から20節を通して、「『約束』に生きる祝福」というタイトルで、神様のみ言葉を共に聴いてゆきたいと願っていますが、その冒頭で皆さんにお断りしておきたいことが二つあります。一つは、今朝は3章の15節から18節を中心に聴いてゆき、19節から20節は次回の宣教の時に触れたいと思います。「では、どうして20節まで読んだの? 18節までにしておけば良かったのに!」と素朴な疑問が浮かび上がる方もおられると思いますが、理由は二つです。新共同訳聖書は15節から20節までを一区切りにしているということと、19節と20節は「なぜ神様は『律法』をイスラエルの民にお与えになったのか」という重大なテーマであり、21節から25節に横たわっている大きなテーマに直結していますので、次回の宣教でお話しした方がよろしいかと感じた次第です。しかし、パウロ先生は15節から18節でも律法のことを引き合いに出していますので、今朝は20節まで読ませていただきました。

もう一つお断りしておきたいことですが、今朝の宣教のタイトルについてです。「『約束』に生きる祝福」としておりますが、本当は「『約束』に生きる難しさと祝福」としたかったのです。しかし、この約束に生きる「難しさ」という言葉を省いた理由は、週報の紙面上の都合が一つ。もう一つは「約束に生きる祝福」というタイトルのほうが肯定的と言いましょうか、ポジティブな印象を与えるタイトル、耳触りの良いタイトルと考えたからです。

しかし、実際にどうでしょうか。わたしたちを含め、実に多くの方々がいま身をもって実感されている、過去に経験されてきたように、約束に生きること、つまり約束を守るということは、本当に大変なことです。生易しいことではありません。世の中には誠実な人がたくさんおられますが、いつも正直に、誠実に生きたいと願って、常に心がけていても、取り巻く環境や突然の状況の変化、仕事の都合、経済的な理由などによって、大切な人との約束を守ることが難しくなる、あるいは難しいと感じ、ストレスを感じることがあると思います。過去にもそのような経験があったと思います。どうでしょうか。

例えば、映画の予約であれば、都合が悪くなれば日時の変更やキャンセルもできますが、簡単に約束や契約の変更やキャンセルができないこともあります。新型コロナ前の日本社会では、大人数のパーティーや宴会の予約を平気でドタキャンする無責任極まりない人もたくさんいて、レストランや居酒屋、宴会場が大きな損失を一方的に被ることがあり、泣き寝入りをすることがありました。

今回の新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、様々な取り組みがなされましたが、そのような中、卒業式、入学式、入社式などがなくなった方、授業や入社後の研修がオンラインになったりされた方、大切なイベントや計画や旅行などの延期や変更を余儀なくされた方、家族や友人との約束が果たせなかったと悔やんでいる方、あるいは「すべてはコロナの所為だと」とコロナを恨んでおられる方もおられると思います。

この3ヶ月の自粛期間、そして今も収束する時期や先行きが見えない状態の中で、生活が一変してしまい、たいへん苦労されている方々がたくさんおられますし、家族との約束を果たせないまま、突然のお別れを迎えなければならなかったという方もおられます。ですから、約束を守ること、約束に生きるということは、祝福というよりも、人にとっては重荷であったり、重い十字架を背負わされる感覚の方もおられると思います。しかし、過去に交わした約束がなければ、今の自分は存在しないという方も、わたしたちの中におられるのではないでしょうか。

自分のことをお話しして恐縮ですが、わたしの両親はそれぞれクリスチャンになる前に神様と約束を交わし、イエス様に従ってゆくと約束しました。その二人が結婚の約束を交わし、一緒に神様とイエス様に仕えてゆくと約束しました。その神様との約束がなければ、わたしと言う存在は生まれることはありませんでした。つまり、わたしの命、わたしたちの命というのは、約束の上にあり、約束から生まれた、約束の中で存在し続ける恵みであるということです。だからこそ、どんなに大変なことがあっても、この約束を忘れない、疑わないということ、忘れてしまえば自分の真の存在理由もわからなくなり、また自分の存在自体を疑うことになってしまうからです。

教会への転入会を希望されている方々は、この教会の皆さんと一緒に神様とイエス様に仕えてゆくという決心をされ、主と教会の前で約束をなさいます。イエス様を救い主と信じてバプテスマを受けられる方は、イエス様と一緒に生きてゆく決心した信仰を告白し、その信仰と約束の証として水によるバプテスマを受けられます。ですから、バプテスマは信仰生活のゴールではなく、輝かしいスタートです。信仰を告白するということは、愛してくださっている神様を、私の罪の贖いのために十字架に架かってその命を与えてくださった主イエス様を愛しているという証であり、信頼し、従ってゆくという約束の表れです。

では、皆さん。皆さんがいつ、どこで、どのような状況の中で、また何故イエス様を救い主と告白されたかすべてを把握しておりませんが、神様との約束、イエス様との約束を覚えておられるでしょうか。イエス様に何を告白し、何を約束されたでしょうか。あるいは、主イエス様と約束されたこと自体を覚えておられるでしょうか。イエス様と交わした約束を忘れて、自分だけを頼りに生きてはいないでしょうか。今、大きな不安や恐れが心にあるのは、イエス様と約束したことを忘れて、自分の知恵と努力、頑張りようだけで、直面している問題や課題を乗り越えようとしているからではないでしょうか。

わたしたちは、愛する家族や大切に思っている人がこのコロナのことで二進も三進もゆかなくなって苦しんでいると聞くと、心が張り裂けそうになり、居ても立っても居られない状態になり、何とかならないかと自分の力や知恵を尽くし、冷静な時には決してしないことを考えたり、したりします。「アァ、お金があったら」と心の中で叫びます。頑張っても、頑張っても、成果がまったく出ないので、自分の不甲斐なさに落ち込んでしまうことがあります。「お金があったら!」という思いにさせるのはサタンの仕業です。サタンがわたしたちの心を神様から、イエス様から引き離そうとする誘惑です。

しかし、わたしたちにとって本当に必要なのはお金ではありません。神様の愛なのです。神様が与えてくださる愛は、「忍耐強く、情深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かず、不義を喜ばず、真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える愛で、この神様の愛は決して滅びない」と第一コリント13章にある通りです。

わたしたちが落ち込むのは、最も大切なことを忘れているからです。イエス様を忘れ、イエス様と交わした約束を忘れてしまっているからです。では、なぜ約束を忘れてしまうのでしょうか。それはイエス様を、イエス様の霊であるご聖霊をわたしたちの心から締め出してしまい、イエス様がいつも近くにおられること、すべてを守り導いてくださるという約束を忘れているから、そして自分の知恵と力で何とかやってみよう、救いを得ようとしているからではないでしょうか。

パウロ先生は、ガラテヤ地方に生きるクリスチャンたちに、イエス様を信じ続け、イエス様との約束を忘れないようにしなさい、そうすればその信仰によってあなたがたは完全に救われるとイエス・キリストの福音を語りました。しかし、ユダヤ教の影響を強く受けているユダヤ人クリスチャンたちは、「いや、信じるだけではなくて、モーセの律法を守ることによって救いを完成することができる、信仰だけでなく、自分の力、能力を信じ、救いの達成に励みなさい」と勧めました。そのような中で、多くの異邦人クリスチャンたちが混乱しました。そのような人たちにパウロ先生は「なぜ自分の力や努力でおのれの救いを完成しようと無駄なことをするのですか」と問い、律法を守ろうとすることは自分で自分の首を絞めることになると声を大にして言うのです。

これまでにもパウロ先生は、例えば3章6節にあるように、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」とイスラエルの尊父アブラハムを引き合いに出して、神様の約束だけを信じる信仰の重要性を語ります。モーセを通してイスラエルの民に十戒、律法が与えられる430年も前の時代に生きた人で、神の言葉、約束の言葉だけをひたすら信じて、神様に「義」と認められた、つまり神様が喜ばれた信仰の人です。このアブラハムのように、神様の言葉であるイエス・キリストを信じて生きる人は信仰の人アブラハムの子とされ、永遠に祝福された者とされるとパウロ先生は語るのです。

さて、15節から18節にこのようにあります。「兄弟(姉妹)たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を刺して、『子孫たちとに』とは言われず、一人の人をさして、『あなたの子孫とに』と言われています。この『子孫』とは、キリストのことです。わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから430年後にできた律法が無効にして、その約束を反故(役に立たないもの)にすることはないということです。相続が律法に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです」とありますが、この説明でも異邦人であるわたしたちが理解することは難しいと思いますので、最後に簡単に申し上げます。

モーセを通してイスラエルの民、コミュニティに与えられた律法よりも、神様がアブラハムに与えた約束が遥かに重要であり、律法を守るという行いよりも、約束を信じるという信仰が大切であるということです。16節に「アブラハムとその子孫に対して約束が告げられました」とあるのは、約束を与えられたのは神様であるということを教えるためです。

神様とわたしたちとの関係性の土台は、イエス様という神の愛と約束の言葉、神のひとり子、救い主を信じる信仰であって、わたしたちの努力や行いではありません。神様の愛がわたしたちを創り、わたしを赦し、わたしたちを生かし、用いるのです。愛とは、約束とは何か。それは、神様に信頼すること、神様との信頼関係の中で、生かされることです。主イエス様の手を決して離さないで、イエス様と一緒に生きてゆくことです。そのために、イエス様を信じ、イエス様と約束し、その約束に生きることが大切です。たとえ人生に大変なことがあっても、イエス様が与えてくださる約束を信じて歩む時、それはすべて祝福となってゆくのです。