あなたの王が来る

宣教・棕梠の日 「あなたの王が来る」 大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫       2022/04/10

聖書:マルコによる福音書11章1~11節(p83)

聖書(招詞):ゼカリヤ書9章9-10節(p1489)

 

「はじめに」

教会は、この一日を「棕梠しゅろの日」と呼びます、そしてこの一週間を「受難週」と呼び、主イエスの十字架の死を思いつつ、お互いが一日一日を、祈りのうちに過ごします。

福音書によりますと、この日主イエスは、エルサレム城内に入って行かれました。その時迎えた人々が、「葉のついた枝」を振って歓迎したのですが(ヨハネ12:13)、古い時代、「文語訳聖書」に翻訳するとき、「なつめやしの枝」とすべき植物の名を「棕梠しゅろの枝」としました。そのために、「棕梠の日」との呼び名が定着して、今に至っています。これについては、世界全体では、国によって育つ植物が違いますので、大きな問題ではないとされ、今後も「なつめやしの日」と、改めることは無いようです。

今日からの一週間の間には、主イエスが弟子たちの足を洗った木曜日、続いて受難の日である十字架の金曜日と、出来事が続きます。

ところが、最初の日曜日だけは、受難週というイメージにそぐわない、華やかなエルサレム入城の様子が描かれています。人々は熱狂的に、主イエスを「わたしたちの王が来た」と、その行進を迎えました。

 

ところが、こうして喜んで主イエスを迎えたのに、人々はわずが数日のうちに、「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫ぶ群衆となってしまいました。これは一体、彼らの内に何が起きたのでしょうか。その心の変わりようには、驚かされます。

今朝は、受難週の最初の日、「棕梠の日」に読まれる御言葉から、今、わたしたちが導かれ、祈るべきことを、与えられたいと願っています。

 

「すぐここにお返しになります」

お読みいただきましたマルコ福音書によりますと、この日主イエスは、「ろばの子」に乗り、多くの人たちに囲まれながらエルサレム城内へと入って行きました。人々は、「自分の上着」や「葉のついた枝」を道に敷き、「ホサナ、ホサナ、万歳、万歳」と、主イエスを迎えました。これは当時の、王を迎えるときの習わしでした。

 

ところで、この時の主イエスは、借りて来た「ろばの子」に乗ったと、書かれています。

王たる者は、堂々とした立派な馬に乗って行進するのですが、それに比べますと、主イエスの行進は、少し奇妙な、滑稽こっけいにも見える行列ではなかったでしょうか。

この時代、パレスチナでは、人や荷物を運ぶのに、“ろば”が使われていました。街はずれには“ろば”を貸す人が居たそうです。必要な時に私たちが、レンタカーを使うように、“ろば”を借りて使ったのです(11:7~10)。

 

もう一つ興味を引かれるのは、少し前に戻りますが、3節の「主がお入り用なのです」という、“ろば”を借りるときの言葉です。

「主がお入り用なのです」、この言葉は11年前に、わたしが副牧師として招聘された時の「就任礼拝」で、河野牧師がなさった宣教の題でもあります。

「主がお入り用なのです」と、わたしは大久保教会に迎えていただいたことで、とても励まされ、印象深く心に刻んでいます。

今朝のみ言葉はマルコ福音書です。ここには、『主がお入り用なのです』とあり、その後に『すぐここにお返しになります』との言葉があります。

ところがその日、河野先生が選んだのは、マタイ福音書でした。マタイには、『すぐここにお返しになります』という言葉がないのです。皆様は、このことに気づいておられたでしょうか。

 

私どもは、一日の終わりに、聖書を読み祈るのですが、3月23日の日課は、マルコのこの箇所でした。そのとき二人で同時に「借りた“ろば”は返すのだ」と改めて気づいたのです。

 

弟子たちは「借りた“ろば”は返す」と言いましたが、果たして返したのでしょうか?「返したと」いう言葉は聖書に見当たりません。

つい先日、河野先生と「就任礼拝」の聖書箇所を確認しながら、次のような事を考えていました。

わたしは現在まで、母教会から送り出され、大久保教会で役目に就いていますが、幸いにも母教会に戻されることなく、今日も大久保教会で、このようにお仕えしています。

これは、河野先生が、『すぐここにお返しになります』との言葉が消されている、マタイ福音書を選んでくださったからなのだと、そのようなことを考えていました。

 

先ほど、マルコ11章1~11節は、「棕梠の日」に読まれると話しましたが、この日の出来事は旧約聖書ゼカリヤ書の言葉が引用され、「ゼカリヤの預言の成就」とされています。招詞でお読みいただいたゼカリヤ書には、「あなたの王は、ろばに乗って来る」という不思議な預言が記されています。

イエス・キリストによって、ゼカリヤの預言が、実際のこととなったと捉えられています。多くの人が、イエス・キリストこそ、ゼカリヤが預言した救い主、わたしたちの真の王だと受け止めたことを、マルコ福音書が最初に書き記しました。

四つの福音書は、それぞれ表現が違うのですが、共通してゼカリヤ書の、「見よ、あなたの王が来る。…ろばに乗って来る。」という内容になっています。今朝は、このゼカリヤ書に中心を置いて、祈るべき課題に導かれたいと願っています。

 

「ゼカリヤ書とは」

ゼカリヤ書は、旧約聖書39巻の第38番目、ほぼ終わりに置かれているのですが、終わりに置かれているのは、それなりの意味をもっています。

ゼカリヤ書の内容は、歴史的には紀元前6世紀の出来事を扱っています。

紀元前6世紀初め、イスラエルがバビロニア帝国に滅ぼされますと、多くの人材が連れ去られた「バビロン捕囚」と呼ぶ歴史的な悲劇が起きました。

イスラエルは、バビロンで、50年の捕囚民としての生活を経て解放され、故国に戻ることを赦されましたが、故国は荒れ果て、再建には様々な困難が立ちはだかっていました。

この間、100年に及ぶこの期間に、イスラエルは、バビロン捕囚、捕囚からの帰還、神殿再建、内部分裂と抗争などを経験するのですが、このことは返って、彼らをより成熟した精神に導いたと言われています。

特に、この時代に旧約聖書を編纂し、自分たちを導いた神とは、どのようなお方なのかと問いかけたのです。このことは、大きな遺産となりました。

ゼカリヤ書には、そうした苦難の時代を超えて、後の世代に実現する神の国を指し示す希望の言葉に溢れています。これによって、ゼカリヤ書は、旧約聖書正典の終わりに置かれました。

ゼカリヤ書の9章から、終わりの14章にかけては、次のような内容になっています。

『終末に先立って、諸国民に対して厳しい裁きが起こる。同時に、神の民イスラエルに対しても、神は怒りを発する(10:3~)。しかし神は、神の民を憐れんで救い、同時に敵対していた周辺諸国民をも、同じように救われる(10:6)。』と、このように書かれています。

神は、バビロン捕囚、祖国再建という、険けわしい歩みを踏み出したイスラエルを憐れむだけでなく、これに敵対してきたシリアもペリシテも皆、主なる神に属する者とする、といった、途方もなく大きな平和の幻を、この書は繰り返し告げています。

 

「あなたの王が来る」

先ほど、主イエスのエルサレム入城は、「ゼカリヤの預言が成就」するためであったと申しましたが、

ゼカリヤ書9章9節を読んでみましょう。

『9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼かんこの声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。

ここで『高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。』と、ゼカリヤが述べています。

徹底して謙虚に、平和の主であることを示すお方、主イエスこそ、ゼカリヤが預言した「あなたの王」だ。

主イエスこそ、まことの救い主、王であると、マルコはその証言を記したのです。

 

ゼカリヤは続けて10節でこう述べています。

『9:10 わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。』

ゼカリヤは、10節の「平和の預言」で、こう言っています。

『来るべきメシアは、平和の君であり、武力によることなく、諸国民に平和を告げることによって、その統治が全世界に及ぶ。』という言葉です。『敵対していた周辺諸国民をも、同じように救われる。』と言っているのです。

 

わたしたちが望む『平和を勝ち取る』という大切な目的は武力ではできない。『平和的な手段』によってしか達成できないと、神は、ゼカリヤを通して語らせました。この、神の思いを、今のようなときにこそ、聞くべではないでしょうか。

 

今世紀に入っても、“聖なる戦い”「聖戦」と言う名で戦いが続きました。

或いは“正義の戦い”!と言う名で、あるいは、“この戦いは人々を救うためだ”!と言って正当化し、どれほど多くの血が流され続けていることでしょうか。

ロシアはウクライナに侵攻しました。ロシアにとって戦況が思うようにならない中で、生物・化学兵器への言及、核戦争をにおわせる言及などをして、人々を驚かせました。これに追随する国も現れ、世界中が戦争に巻き込まれるのではないかとの危機感を、今、覚えています。

この度は、敢えて激しい戦争犯罪を行ったことで、事態がエスカレートしています。人類はまた愚かな一ページを、自分たちの歴史に加えることになりました。

神から離れ、隣人と分裂しているわたしたち人間の、罪の現実を、日々痛みをもって思い知らされています。

最近のニュース番組には、ロシアの情勢に詳しい専門家が、毎日のように招かれています。

気になるのは、そうした方々でさえ、「言葉を失う」と、そのように言う場面が多くなったことです。指導者たちの心を支配しているのは何者なのでしょうか。これらの人々に気付かせる手立てだてはあるのでしょうか。

「霊の戦い」

これはある書物からの引用ですが、16世紀の牧師マルティン・ルターは、ゼカリヤ9章9節10節の説教で、『わたしたちにとって必要なのは、武力での戦いではなく、霊の戦いだ』と、次のように語っています。

『わたしたちには、既に救い主キリストの到来によって救いの道が開かれている。ゼカリヤ書には、その救いの恵みにあずかった者の、新たな生き方が語られている。

わたしたちに今、最も求められているのは、一人一人が、目には見えない霊的な戦い、心の、内なる戦いを戦い抜いて清められることである。この戦いによって、全ての人がひとつの群れになるならば、神に養われる日が到来する。

この戦いのために救われた小さな群れ、教会とその宣教の歩みは、華々しいものではないが、互いに「小さなろば」となり、重荷を負い合い、「神の器うつわ」として働き続けることが求められている。そのためにも、日々一人一人が、目には見えない霊的な戦い、心の、内なる戦いを戦い抜き、自分自身に真まことの王を迎えようではないか。』

このように語っていました。

 

四つの福音書には皆、こうして、エルサレム入城の時、黙々と仕えた“ろばの子”の姿があります。この“ろばの子”に教えられることが沢山あるように思います。

神は“ろばの子”を用いて、ご自身が果たされた救いの目的をわたしたちに告げているのです。

“ろばの子”は堂々たる軍馬に比べようもなく、小さな弱いものにすぎません。

しかし、そのような小さなわたしたちであっても、神が「わたしにはあなたが必要だ」と掛ける一声で、救いの舞台に登場させることがおできになります。

そして、忘れてならないのは、何よりも主イエスこそ、「主がお入り用なのです」との神の言葉を、わたしたちに先立って聞かれたお方だということです。

主イエスこそ、「主がお入り用なのです」との神の言葉を聞かれ、エルサレムへ、そして苦難の十字架へと向かわれたということです。

喜びの声をあげて主イエスを迎えた大勢の人々の内、誰が主イエスの、この日の、主イエスの静かな決意を知っていたでしょうか。

 

わたしたちの人生で、「主がお入り用なのです」との御声を聞くことがあるはずです。主イエスは、この神の声を聞きこれに従って行かれました。

主イエスはある時、「神のものは神にかえしなさい」と言われました。わたしたち自身をお返しするのは何処でしょうか。

わたしたち、神に造られた者こそ、イエス・キリストに倣ならい、自分自身を、造り主である神のもとにお返しし、神の働きに用いていただきましょう。

あなたには「主がお入り用なのです」との御声を聞く時があるはずです。

その時は“ろばの子”を思い出し、一歩踏み出してください。

自分の能力に問うのではなく、主の御声に心を向けてください。

ゼカリヤが「あなたの王が来る」と預言したことは、イエス・キリストによって、わたしたちに恵みとして与えられています。わたしたちは、この恵を感謝して受け、わたしたちが今、できることをもって、神のご用のためにお仕えする者とさせていただきましょう。

【祈り】