だから、こう祈りなさい

宣教「だから、こう祈りなさい」大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫

コヘレトの言葉5章1節(旧約p1039)

マタイによる福音書5~13節(新約p9)

「はじめに」

中国で、新型ウイルスの発生の情報が発せられてから間もなく一年になろうとしています。世界に蔓延したウイルスは、不思議なように先進諸国を中心に終息する気配がありません。

私たち日本国内では、医療従事者の努力や指導に守られ、互いに注意深く生活していることで、多くの人が、かろうじて感染を免れています。しかし“第三波”と断定する自治体もあり、危機的な状況は、三度みたび拡大しつつあります。このため、多くの人々の困窮の度合いは日々強まり、経済の悪化は深刻な事態を招いています。

このような中で、共に教会で祈り、それぞれの祈りの場でわたしたちはどのように祈って行けばよいのでしょうか。わたしたちには全く見えない、この先のことについて、神にゆだねる決心を迫られているように思います。今朝は、11月の祈祷会と教会学校の聖書テキストから、「祈りの心」についてご一緒に導かれたいと願っています。

「祈りの心」

「コヘレトの言葉」を読んでいる中に、「祈りについて」、次のような言葉がありました。

「5:1 焦って口を開き、心せいて/神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。」。

この言葉から想像したことですが、古い時代から、公の祈りの場面では、「祈りの言葉」を、意識的にどんどん連発できる人が注目を集め、賞賛されていたと思われます。そのためコヘレトが、「焦って口を開き、心せいて、神の前に声を出そうとするな」と、注意しなくてはならぬほどの事態になっていたのでしょう。この大げさな態度は、その後の時代になって、ますます目に余る事態になったようです。

ユダヤ教では、一日三回の祈りが義務付けられていました。それは、午前九時・正午・午後三時の三回でした。一日のうちで決まった時間に祈るという事は、良い習慣に違いないのですが、熱心な人々の祈りは、長い時代を経て、マタイ6章5節以下に、主イエスが指摘している状況になっていました。主イエスは、こうした祈りに対して、不信感と憤りを持つようになっておられました。

マタイ6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。

「偽善者」とは「役者」「演技者」という言葉でもあるそうです。主イエスは、「祈りを演じてしまう」、そうした過ちを指摘するために、「演技者」のようであってはならないと言いました。

主イエスは、『祈りとは、ただ、お一人の神に向かって、純粋に祈るのが、「祈りの心」であるはずだ。ところが、表面的には熱心に祈るが、周囲の人々の評価を気にしながら祈っているならば、それは祈りの姿勢ではない。心を神に向けているようなふりをして、その実は、人びとの顔色を窺っている。それは「偽善」だ』。主イエスはそのように言われました。

マタイ6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

この6節の聖句、この短い聖句に、「あなたの」という言葉が目につくと思います。

原典の言葉には、更に、「あなたの」という言葉が、しつこいほどに重ねられています。

私の弟子である「あなた」が祈る時には、「あなたの」部屋に入り、「あなたの」戸を閉め、「あなたの」父なる神に祈りなさいと、「あなたの」「あなたの」と繰り返されています。

ここで問題とされているのは、「自分の部屋」の問題ではなく、「心の部屋」を持ちなさい、心を神に向けて集中しなさいという事です。人々の前で祈りながら、そのような場面でこそ、心を神に向けることに集中しなさいという事です。

しかしこれは、決して簡単なことではないのです。私たちは神に向かって祈りながら、心は他の事に移り、自分の思いの中に留まってしまうのです。これは熱心に祈れる人だけの問題ではなく、人は皆、何時しか自分中心に振る舞ってしまう、そうした、人間の悲しい一面を表わしています。

6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。

異邦人の祈りとはどのような祈りであったのでしょうか。ここに言われているように。言葉数が多ければ聞き入れられると考える祈りです。旧約聖書には「バアルよ、我々に答えてください」(王上18:26)と、何時間も繰り返したと言う出来事が記されています。これほどの事ではなくとも、言葉数を気にして祈るという事は、私自身もしています。わたしたちも注意して祈って行きたいと思わされました。

「願う前から」

主イエスは、ここまでの6と7節で、私たちの祈りについて語っておられましたが、8節では、私たちが祈り願う前から、「神はあなたがたに必要なものをご存じなのだ」と、そのように言われます。

マタイ6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

「私たちが祈り願う前から、神はご存知だ」と、そのように言われてしまうならば、それではなぜ、わたしたちは神に祈る必要があるのでしょうか。そのような疑問が湧いてきます。

リュティーという説教者は、この事についてこう言っておられました。

「なぜ祈るのか。それはすべてを知っておられる神に感謝するために祈るのだ。それ以外に祈る理由はない」と言っておられました。「感謝のために祈る」とは、ご自分の体験から生まれた確信なのでしょう。

「ヴァルター・リュティー」-なぜ牧師となったのか-

私が尊敬しているスイスの説教者で、ヴァルター・リュティー(Walter  Lüthi1901-1982)という方が居られます。以前、一度ご紹介したことがあるのですが、このリュティーは、「私たちが祈り願う前から、神はご存知だ」、この経験を繰り返し体験したと、自分で言っておられました。四年ほど前に、12回にわたる「主の祈り」の説教が翻訳され、出版されました。その書物の巻末には、短い「自分史」が付けられていて、「何故、私は牧師となったのか」を紹介しています。

リュティーは、1901年、スイスのチーズ職人の家に生まれました。

父親は食事の度にいつも「主の祈り」を祈っていました。6人兄弟、末っ子のリュティーが生れて三か月後に、その父は天に召されましが、リュティーの記憶には、食卓で「主の祈り」を祈る父の姿と、父親に替わって祈るようになった母の姿が、重なりあうように残っていたようです。

父親が天に召された後、11歳の長男を始め、自分より年上の5人の兄弟姉妹は皆、家の作業場で働いたのでした。そして日曜日の朝になると、母は幼い6人の子どもたちを連れ、1時間15分歩いて教会の礼拝に通い続けたそうです。

やがて上の兄弟姉妹たちは、職を求めてアメリカに移住してしまいました。そうした中で、末っ子のリュティーだけは、なお母に手を引かれて教会に通い続けていました。リュティーにとって、礼拝の説教が分かるわけはありません。礼拝で関心があったのは、背の高い牧師が、いつ、狭い講壇から足を踏み外して落ちてしまわないかと、心配ではらはらしていた、それだけであったそうです。

それでも、この、毎日曜の朝、通い続けた礼拝で、特に「主の祈り」だけが分かりました。それと、説教は大事なことに違いないと、強い印象を自分の中に残したと言っています。やがて学校に通うようになりましたが、教室に電燈がなく、朝は暗くて授業にならなかったそうです。小学生1,2年の時の女性教師は、明るくなるまで毎朝、聖書の物語を話してくれたのです。それはとても分かりやすく、後の牧師の仕事を選ぶときの基礎になったそうです。

その後は長いこと、生活のために牛の世話をすることや、畑仕事が中心となりました。辛くとも、こうした農場での生活は魅力的で、当然、その道に進むという思いを抱いていました。大学の神学部に入学したものの、幼いころの、女性教師の聖書のお話以来、神学部での生活を、あと一年で終えようする時まで、“神について”、“キリストについて”、真剣に向き合うことはなかったそうです。

卒業の一年前、そのようなリュティーは、ようやく本心から神学を学び始めたのです。そのきっかけは、ドイツで購入したカール・バルトの「ロマ書講義」という書物でした。そして、神学部卒業後の6年間は農村の小さな教会の牧師として働きました。しかし、そのころのリュティーは、毎週、礼拝の出席者数を気にするばかりの牧師となってしまい、遂にその働きを断念し、ジャーナリストになろうとの思いを抱き、就職活動をしていきました。主要な日刊新聞に30回のドイツ旅行記を書くなど、ある程度の自信があって臨みましたが、不採用となってしまいました。このように、ことごとく、自分の欲望や望みとは全く異なった歩みとなってしまいましたが、不思議なように、再び牧師の道に導かれていきました。

晩年になって、何時、何故、そのような自分が牧師になったのか、リュティーは、今もってわからないと振り返っています。

最初の牧師職を諦め、ジャーナリストになろうとしたが、その道は閉ざされました。再び招かれた牧師の時代では、結婚はせず、独身のまま牧師を続けようと願っていたが、それも覆させられて、7人もの子供が与えられました。

-なぜ牧師となったのか-、それは、幼いころに染み付いた「主の祈り」から離れなかったこと、母が何もわからない自分を礼拝に連れて行ったこと、小学生の初めに聞いた聖書の話、そうしたことが土台になっているが、最大の理由は、神が、私の心の奥底のある祈りを、探り当ててくださったことだとしていました。「私たちが祈り願う前から、神はご存知だ」、この経験を繰り返し体験したと振り返っていました。

「だから、こう祈りなさい」

宣教題を「だから、こう祈りなさい」としました。主イエスが「だから、こう祈りなさい」と教えてくださったことには極めて重要な事なので、これを宣教題としました。

この言葉は弟子たちの祈りが、本当の祈りとなるようにと願う主イエスの思いがこもった言葉です。

マタイとルカには「主の祈り」があり、それぞれに特色がありますが、共通することは、主がこのように祈りなさいと言って教えたという事です。そのことが一番大事なことです。

「天におられるわたしたちの父よ」との呼びかけの言葉があります。最初に、祈りとは「天におられるわたしたちの父」に捧げるのだと教えてくださっておられるのです。

コヘレトの言葉のように「神は天にいまし、あなたは地上にいる。」、神はそのように、わたしたちとは遠く離れている存在でした。しかし主イエスは、「わたしたちの父」と呼びかけなさいと教えておられます。遥か遠くに離れておられる神を、一番近い“父”と呼びなさいと祈るようにと教えておられるのです。

なぜそのように祈ることが出来るのでしょうか。それは、神でありながら人となられたイエス・キリストおいて、初めて可能になった祈りだからです。

わたしたちは本来、祈りを知らない者なのです。祈りが出来ないと悲観したり、負い目を感じる必要はありません。わたしたちはそのような時にこそ、主イエスに導かれながら祈りを始め、祈る人へと育てられて行くのです。

毎週、繰り返して祈る「主の祈り」が、私たちに与えられていることに感謝し、神の導きを信じて、一語一語、噛みしめて祈りましょう。今のような、先の見えない時代にこそ、神はおられます。信仰をもって祈りつつ歩んでまいりましょう。

主イエスは、わたしたちと同じ体を持ち、同じ痛みを味わいつつ、今、わたしたちと共に歩んでくださっています。