ひとりの重さ

宣教『ひとりの重さ』 大久保バプテスト教会副牧師石垣茂夫             2023/03/19

聖書:ルカによる福音書15章1~7節(p138)

招詞:エゼキエル書34章16節(p1352)

 

「はじめに」

主イエスは沢山の「たとえばなし」をなさいましたが、皆様は、その中から、一つを選んでくださいと言われたなら、どの「はなし」になさるでしょうか。「善きサマリア人」でしょうか、「放蕩息子の帰郷」でしょうか。

ある書物には、主イエスの「たとえ」について、このように書かれていました。

「主イエスのなさる『たとえばなし』、その目的はいつも、「神とは、どのようなお方なのか、これを教えるためである、とありました。

今朝はその中で「見失った羊」のたとえから、「神とは、どのようなお方なのか」を導かれたいと願っています。

 

聖書の創世記によりますと、「神は、ご自分に似せて“人”を造り、命を与えました」(創2:7)。神はご自分と向き合うものとして人を造られましたが、造られた人も、互いに向き合うものとなるようにと、神は望んでいました。しかし「人」はその思いに反して、神と向き合わず、人は互いに憎み合うようになり、神のもとから迷い出て「失われた者」となりました。創世記には、そうした人間の姿が描かれていて、読む度に、原点に立たされ、厳粛な思いになります。

 

今朝の招詞は、旧約聖書エゼキエル書34章のみ言葉です。ここには、そうした「人」に向けて、「わたしのもとに帰るように」、「失われた者」を追い求める、羊飼いとしての神の思いが表されています。

16節の前半は、特に印象的な言葉ではないでしょうか。

34:16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。

主イエスも、こうしたみ言葉に導かれて、「見失った羊のたとえ」を話されました。

「たとえ」の中で羊飼いは、「見失った羊」一匹を見つけるまで捜し続け、群れに戻すことが出来たことを喜びます。

羊飼いは、当然、野原で待つ、群れから離れなかった九十九匹の羊を大切に思い、これを喜びます。

群れになって待っていた羊たちは、離れて行った一匹を捜し続ける羊飼いを見て、飼い主への、いっそう強い信頼を、抱くようになると言われています。

 

わたしたちは、この「たとえ」から、わたしたちの神は、「ひとり」を大事にしてくださる神、すべての存在を公平に扱う神、そのようなお方だと知ることが出来ます。

この朝も、神とその愛を覚え、揺らぐことのない信仰に立ちたいと願っています。

 

「たとえばなしのきっかけ」

15章の1節と2節には、主イエスが、この「たとえ」を話すきっかけが記されています。

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

 15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

ユダヤ社会にも、そのコミュニティーからはじき出された人たちがいました。ある者は、祖国を裏切り、支配者であるローマ政府の力を利用できる徴税人ちょうぜいにんになりました。また、貧しさのため、或いは病のため、律法や宗教生活を守れない人たちがいました。これらの人々をユダヤ社会では、罪人つみびとと呼んでいました。

主イエスのもとに、話を聞こうとして、そうした徴税人ちょうぜいにんや罪人つみびとと呼ばれる人たちが近寄ってきました(15:1)。

そこにはすでに、ファリサイ派の人々や律法学者たちがいました。

この人たちは、主イエスをユダヤ教の教師と認め、ラビ(先生)と呼んで尊敬していました。しかし、主イエスが徴税人や罪人たちに近づき、交わりを持つことについて「あなたは、罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」、「わたしたちは、そのような交わりはしない」と不満を言いだしたのです。

ファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分たちこそ、神と向き合ってきた正しい人間だと自信を持ち、常に罪人たちを裁さばいていたのです。

そこで主イエスは、彼らに向かって、「神が喜びなさるのは何か」と、ひとつの「たとえばなし」をなさいました

 

「見失った羊」のたとえ

15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

 15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹きゅうじゅうきゅうひきを野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

ある日羊飼いは、羊一匹が足りないと気づきました。見失った羊は、百匹のうちの一匹でした。百匹という数は、標準的な群れの数だそうです。

羊飼いは、どれくらい時間をかけ、どのような苦労をしてその一匹を捜すことになるのでしょうか。

そこまで話をすると、主イエスは、聞いている人たちにむかってこう問いかけました。

「あなたがたも、見失った一匹に気付いたなら、見い出すまで捜し回らないだろうか」と。

 

そして、主イエスは話を続けます。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

 15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

わたしは、繰り返して読んでいるうちに、次第に、見つけたときの少しオーバーな、この喜び方が気になりました。一人で喜ぶのではなく、親しい人を集めて喜びを分かち合っている様子が気になってきました。

分かりやすい、誰にでも分かる「たとえばなし」と思っていたのですが、この喜びようは、少し大げさではないのか、そのように思い始めていました。

主イエスはこのたとえで、父なる神を、「失われた羊一匹を捜し続ける羊飼い」として話されたのです。「見つけるまで捜し続ける」、果たして、わたしたちに出来ることでしょうか。

 

「ユダヤ人の食卓」

人と食事を共にするという事は、他の人と共に生きるわたしたちにとって、とても大切な事です。しかしユダヤ人にとっての食事は、腹を満たし交わりを持つ以上に重い意味を持っていました。食事とは、神に感謝し、その恵みを味わう、聖なるひと時なのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、この食事の作法を厳格に守っていました。

しかし主イエスは、徴税人ちょうぜいにんや罪人つみびとをそばに招いたり、時には彼らに招かれて、一緒に食卓についておられました。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、この主イエスの振る舞いをしばしば見て嫌い、不満を強めていました。

「この人、イエスと言う人は、交わりを持つと汚れる徴税人や罪人つみびとたちを迎え、食事まで一緒にしている。わたしたちならばそのようなことはしない」と、不平を言ったのです。

「ファリサイ派や律法学者たち」から見れば、徴税人がしていることは、自分の方から神を見放して離れて行った人々、罪人なのです。

彼らは、こうした「徴税人や罪人」といった人々から離れ、清く暮らすことに熱心だったのです。

「ファリサイ」とは、ニックネームです。「わたしたちは違う」という意味があります。いつも、「おれ達は違う」と、言っていたのでしょう。いつしか「ファリサイ派」と呼ばれるようになっていました。

この「ファリサイ」を弁護する話になりますが、神の民イスラエルは、幸せな民族ではありませんでした。信仰を貫つらぬくことが困難な、長い時代を過ごしていました。しかし、そのような中にあっても、神に対する信仰を保ち、神の民らしく真剣に生きて来た人たちが「ファリサイ」でした。同胞ユダヤ人の、他の人がどうであろうと、正しいと導かれた自分たちの生き方を貫いてきた人々でした。いつも一緒に登場する「律法学者」は、その中でも、特に聖書の知識に詳しい人たちでした。

「わたしたちは違う」。差別し裁くこと、これは私たちにも起こる事です。

 

そのような考えが覆っているユダヤに、主イエスは人々の思いもよらぬ姿で登場し、神の福音を伝え、常識を破るように、徴税人や罪人と一緒の食卓につかれたのです。「ファリサイ派」「律法学者」は、驚くと同時に、怒りさえ覚えていきました。

一方で、世の中が相手にしてくれない、自分たちのような者と食事を共にし、交わりを持つ主イエスに、徴税人や罪人たちも驚いていたことでしょう。

 

「ひとりの重さ」

5:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人きゅうじゅうくにんの正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

皆様には、この「羊飼い」は、神であり、主イエスでもあると分かっておられると思います。

さて、もう一度物語を辿ってみて、どうでしょうか。

語り手である主イエスは、この物語を誰に向けて話しているのでしょうか。

 

ある方は、この「たとえばなし」のタイトルを変えてしまいました。

“「見失った羊」のたとえ”ではなく、悔い改める必要のない九十九人」のたとえとしてしまいました。

その方は、主イエスは、悔い改める必要のない九十九人に向けて語ったのだ。それがこの箇所を読む者の読み方だと言いました。

わたしたちは、このたとえを聞くときに、わたし自身は迷い出た一人なのか、あるいは悔い改めの必要のない九十九人の中の一人なのか、どちらなのかとと思いめぐらしておられたのではないでしょうか。

あるいは、いや、自分はどちらにもなると思われたかもしれません。

 

 

「いのちの電話」

今朝の宣教題を「ひとりの重さ」としました。

人と、一対一で向き合って関わる「いのちの電話」を例として話します。

「いのちの電話」の発想は、1959年イギリス聖公会に始まり、間もなくドイツの「ミッドナイト・ミッション」(真夜中の宣教)の活動となり、北欧に広まったそうです。

「これを日本でもやりましょう」(1969)と提案したのは、既に「ミッドナイト・ミッション」から日本に派遣されていたルツ・ヘトカンプ(Ruth Hetcamp)という若い宣教師でした(1960~1985)。彼女は、クリスチャン社会活動家・賀川豊彦かがわとよひこの要請(1960)により、既に、日本で他の活動に就いていました。

「いのちの電話」の活動は、日本のプロテスタント教会と信徒の協力を得てすぐ実行に移されました。

以前のわたしの家からは、歩いて10分の所、上野駅のすぐそばに日本基督教団下谷教会があります。その教会の菊池きくち吉きち弥や牧師は、日本の「いのちの電話」という市民運動の創設者の一人となりました(1971~2005)。

皆様は「いのちの電話」についてご存じでしょうか。今も市民活動として続けられ、日本には最低でも各県に一か所、50以上のサービスがあります。このサービスは、誰にも相談できない人のために、名前を明かさずに電話で相談ができるシステムです(telephone counseling service)。「いのちの電話」は、次第に自殺願望の人たちに対応することが多くなっていきました。

奉仕者は、一対一で向き合って関わることになるため、専門の教育を受け、忍耐強く、おだやかな性格の人でなけれ務まらない仕事です。ボランテアが、夜の十時から朝の八時まで、「真夜中の電話番」になります。普通は、月に二回奉仕するそうです。

 

これは、菊池牧師が聞き、お話しくださった、ある夜の女性担当者の経験です。

【ある夜、自殺願望の男性から電話がありました。対応したのは女性担当員でした。その男性は、繰り返して「わたしは孤独だ。誰も信じられない。友もいない。この孤独には耐えられない。死にたい。孤独だ、死にたい」と言い続けました。担当者はこの人の電話に対応していて、次第に耐えられなくなり、一緒に泣き出してしまい、そして思わずこうこう叫んでいました。

「あなたは一人ではない。ここに私がいるではないですか」、と叫んでいたのです。

「あなたは一人ではない!」。すると男性は驚いたようで、急に静かになり、黙ってしまいました。やがて、話を再開した時、男性の声の調子は変わっていて「もう孤独とは言わない。有難う」と言って電話を切ったという事でした。】

 

この担当者は、長い信仰生活を経て来たクリスチャンでした。

「わたしがあなたと、ここに一緒にいる」。

それは、神ご自身が遣わした主イエスによって、わたしたちに向けて、繰り返し言われる言葉です。

 

百匹の羊の、一匹一匹は、神様の目から見れば、みな「失われる」恐れのある存在です。神様はそのような恐れが覆う世に、独り子主イエスを降くだしてくださいました。主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈ってくださいました。神によって救われてこそ、わたしたちの命は回復します。

わたしたちは、主イエスの十字架に表わされた、神の憐れみと愛に守られています。この神に信頼を置き、互いに愛し合い、日々歩ませていただきましょう。神は、「ひとりの重さ」を大切に見守ってくださるお方です。

【祈り】