わたしは来て、あなたのただ中に住まう

宣教要旨「わたしは来て、あなたのただ中に住まう」副牧師 石垣茂夫

*招詞  ゼカリヤ書2章14~15節(旧約p1482)

*聖書  マタイによる福音書1章18~23節(新約p1)

*応答賛美195「待ちわびし日」

最近の教会でのことですが、お父さんたちが「赤ちゃん」を抱く姿をよく見かけるようになりました。しかもお父さん一人で、教会に小さなわが子を連れて来られます。“一人で赤ちゃんを抱いて外出する”。わたしはそうしたことを、全くしてこなかった者ですのでとても驚いています。わたしはそうしたお父さんたちを見ていて、ヨセフさんがイエスさまを抱いている姿を想像するようになりました。

ヨセフさんは幼いイエスさまと、どのようにして過ごしていたのでしょうか。調べました限りでは、ヨセフさんがイエスさまを抱いている絵が描かれるようになったのは、宗教改革以後のようです。親の仕事の手元をじっと見る、「少年イエスの絵」もありました。

今朝は、イエスさまの父、ヨセフさんに焦点を当て、マタイによる福音書から、ヨセフとマリア、二人の悩みを共にしながら救い主誕生の意味を考えたいと思います。

“二人がまだ一緒になる前に、マリアは身ごもった。それは聖霊によるのだ”と、二人は知らされました。この時ヨセフには、マリアの懐妊は「自分が原因ではない」という確信がありました。しかし、周囲はどのようにみるでしょうか。

ヨセフとしては、マリアには、ほかに男性がいるとしか思えなかったことでしょう。ヨセフは、マリアを告発し、離縁することはできました。しかしそれでは、マリアが石打の刑に処せられてしまいます。マリアを愛するヨセフに、それはできないことでした。

悩むヨセフに、一つの考えが与えられました。それは、「秘かに離縁する」ということでした。マリアの命を守るため、そしてマリアが、他の男性と結婚できるチャンスを与えようと、二人の証人を立て、自分は傷ついてもきっぱりと身を引くという、ヨセフの心に、この優しい思いが湧き出てくる中で、夢で主の天使のお告げがありました。

1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。

男性は当時、人間の代表でした。従って、神の独り子の誕生において、ヨセフが排除されたということは、神の子の誕生において、「人間の関与が排除された」ということになります。しかし、ヨセフはそこに「聖霊によって」と言われる意味を見出せたのでしょうか。

充分に納得し、理解できたのでしょうか。クリスマスの救い主の誕生とは、人が思ってもいなかった方法による、神からの一方的なプレゼントだったということは確かです。

プレゼントは、中身が大切です。そのプレゼントの中身について、21節以下を読みながら辿りましょう。

1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

この事は、聞いてすぐわかるという内容ではありません。この言葉をヨセフとマリアの二人が直ぐに理解できたとも思えません。

これは、著者のマタイが過ごしていた教会で、信仰の先輩から伝えられ、信じてきた信仰を受け継ぐ中で導かれてきたことです。そして、さらに次の世代に伝えていで行こうとして、苦しみながら生み出した教会の信仰告白なのだと思います。

ヨセフとマリアは、相手のことを、あるときは信頼し、あるときは疑って、救い主の両親という役目に、苦しみつつ向き合っていったのだと思います。二人はどん底に突き落とされたような、恥ずかしいし、苦しい思いに、幾度となくされながらも、神の呼びかけに応えて行こうともがたことでしょう。

ヨセフとマリア、この二人に介入してきた神は、与える子に、二つの意味を持たせていました。一つの名は「イエス」・「神は救う」、“神は救ってくださるのです。”もう一つは「インマヌエル」・“神が共にいます”という意味の名です。どん底に立たされた二人は、この名前の子に励まされ、救い出されて、受け入れ難い出来事を、勇気をもって受け入れていったのではないでしょうか。

招詞で読んでいただきましたのは、ゼカリヤ書のインマヌエル預言(2:14)です。

2:14 娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て/あなたのただ中に住まう、と主は言われる。

“「わたしは来て/あなたのただ中に住まう」。”なんと力強い言葉でしょう。

神の介入だと告げられたとき、ヨセフとマリアはどんなに落ち込んだことでしょう。そのような思いにまで突き落とした神は、二人をそのままにはしておきませんでした。“「わたしは来て/あなたのただ中に住まう」”と言って立ち上がらせたのです。

クリスマスにおいて実現したことは、まさしく神が御子キリストをわたしたちの所に送り、どん底にあるわたしたちの中に住んでくださるということです。クリスマスの出来事から排除されたようなヨセフは、一時期は暗闇に落ちたような思いになったことでしょう。

わたしたちも、苦しみの中でこそ「わたしは来て/あなたのただ中に住まう」とのみ声を聞きましょう。

この一条の光のような言葉は、この世のすべての人に向けられています。

この出来事とみ言葉を、わたしたちはこのクリスマスにこそ、世に向けて伝えて行きましょう。