アフタークリスマスの苦難にも

「アフタークリスマスの苦難にも」  年末感謝礼拝 宣教     2018年12月30日

マタイによる福音書 2章13〜23節              牧師 河野信一郎

おはようございます。2018年最後の日曜日の朝です。今朝は、教会学校のテキストであったマタイによる福音書2章13節から23節をテキストに、「アフタークリスマスの苦難にも」という主題で、宣教をさせていただき、神様からの恵みに感謝したいと願っていますが、遠い東方から来た占星術の博士たち、異国人たちが幼子イエス様のところへ来て、ひれ伏して拝み、宝の箱を開けて贈り物をささげ、そして自分たちの国へ帰ってゆきました。ここまでがイエス様をキリストとして信じ、告白し、礼拝をおささげするクリスマスです。そしてこの後から「アフタークリスマス」が始まります。

イエス様がベツレヘムの馬小屋でお生まれになって、すぐに羊飼いたちがイエス様を拝みに来て、それから8日後にはエルサレムの神殿で献児式が執り行われ、そこでシメオンやアンナに出会い、祝福を受けます。そしてまたしばらく時が経過してから占星術の学者たちが家に訪ねてきます。この期間、マリアとヨセフは、これからの生活を思い描いていたり、相談したり、計画していたのではないかと思います。どのようなことが話されていたか聖書には記されていませんが、幼子の笑みや寝顔を見ながら、産声を聞きながら、二人は夢のある楽しい時ではなかったかなぁと思います。

アメリカや最近の日本のアフタークリスマスというのは、バーゲンセールがあったりして、買い物好きな人たちには嬉しい数日ですが、イエス様を神様から預かったヨセフにとっては、占星術の学者たちが帰った後のアフタークリスマスは、苦難の始まりでした。13節から読んでまいりましょう。

「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃れ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている』」と告げます。その直後、「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた」とあります。

神の御使の言葉を夢の中で聞いたヨセフは、押し迫る危険を察知し、一刻の猶予も持たずに、御使の言葉通りにイエス様と妻のマリアを連れてエジプトへ出発します。自分たちが住んでいた郷里のナザレはベツレヘムの北に位置しますが、エジプトはその正反対の南にあります。当時は、すでにエジプトには多くのユダヤ人たちが生活し、しっかりとしたユダヤ人コミュニティもあったそうで、ユダヤで何かトラブルに巻き込まれるとユダヤ人たちはエジプトを避難場所としていたそうですが、ヨセフたちにはエジプトという異国へ行って、そこで生活するという考えは、それまでなかったでありましょう。しかし、こともあろうかヘロデ王が神様から預かったイエス様を見つけ出して殺そうとしていると聞いて。居ても立っても居られなくなり、御使の言われた通りにエジプトへ出発します。

次に16節を読みます。「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」のです。これはヘロデ王の怠慢と自分のことしか考えない傲慢の表れです。「ユダヤ人の嘔吐してお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と学者たちに言われたら、確かに不安になるでしょうが、わたしならば、占星術の学者たちに尾行をつけて、彼らの行動と行き場所を徹底的に報告させ、全てを把握し、すぐに次の一手を出すと思いますが、ヘロデ王は学者たちが自分を恐れ、自分の元に帰ってきて、報告するだろうとたかをくくっていたのでしょう。自分の権力に溺れ、全て自分の支配下にあるといううぬぼれ、怠慢があったと思います。そして王としての身の危険を感じたヘロデは、不安のタネであるユダヤ人の家庭に生まれた二歳以下の男の子たちを殺してしまいます。ベツレヘムとその周辺一帯は、言葉では言い表せないほどの大きな大きな悲しみと痛みを味わわされ、悲鳴と鳴き声がその地に満ちたことでありましょう。

私たちは、このような惨劇がクリスマスの後に起こったことを見て見ぬ振りをしたり、読み飛ばしてしまうことがあります。クリスマスの余韻にどっぷり浸りたいと願うからだと思いますが、アフタークリスマスの事実を知らされると誰もが、「どうしてこのような惨劇が起こるのか。なぜそのような悲しみや痛みを人々に負わせることを神は許されるのか。本当に神はいるのか。本当に神がおられるならば、どうしてこのような人間の醜さを容認されるのか」と多くの人が感じさせられます。今の時代にも、同じことが、同じようなことが繰り返されています。

あるクリスチャンの青年が歯科クリニックへ行って、自分を苦しめていた虫歯の治療を受けました。歯科医の先生が「はい、ちゃんと治療できましたよ。もう大丈夫。これ以上痛みませんよ」と言ってくれたそうですが、その青年の口から最初に出た言葉は「神様、感謝します」という言葉でした。「先生、ありがとうございました」という言葉を期待していた無神論者の歯科医は気に障ったようです。クリスチャンに対して、「神だって。神など存在しないよ。神が存在するなら、どうして苦しみや悩み、戦争や紛争、多くの人が苦しまなければいけないんだ。自分は神の存在など信じない」と言ったそうです。その言葉を聞いたクリスチャンの青年がこのように歯科医の先生に言ったそうです。「僕は歯科医を信じない。歯科医など存在しない」と。たった今、自分から歯の治療を受けた青年が歯科医としての自分の存在を信じないと言われた歯科医はあっけにとられ、開いた口がふさがりませんでした。そして「君は一体何を言っているんだ。今わたしから治療を受けたじゃないか」と言いましたが、その青年は、「もし歯科医がいるのであれば、どうして虫歯になったり、歯が欠けたり、歯が抜けたりするんですか。最初から虫歯になったり、歯が抜け落ちないようにしてくれたらお金もかからなくていいのに。そうしてくれないから、僕は歯科医を信じません」と言いました。あっけにとられた歯科医は「虫歯になったり、歯が欠けたりした患者さんを治療するために自分はいるんだよ」と言いましたら、その青年は「その通りです。先生が存在して治療してくれるように、神様も存在して、僕たちの罪を取り除いてくださいます。罪を犯したり、罪によって傷つけられたら、神様のもとへ行かなければなりません。この地球上の苦しみや痛みの原因は神様にあるのではなくて、私たち人間にあります。戦争も、痛みも、悲しみも、全て自分たちの傲慢や怠慢に原因があります。だから、私たちは神様の元へ立ち返らなければならないのです」と答えたそうです。

さて、19節から読んでゆきますと、「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った『起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。』そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ」とあります。

史実に基づいて計算しますと、エジプトでの避難生活は3年から4年と言われていますが、ようやく、イスラエルへ戻ることができるようになりましたが、まだ不安材料もいくつもありました。アフタークリスマスの4年間、幾つもの苦難がありました。皆さんにも、アフタークリスマスに苦難があるでしょうか。生活をしてゆく上での不安材料も色々とあるでしょうか。自分の計画が根本からひっくり返ってしまったとか、あることがきっかけで頓挫してしまったということがあるでしょうか。実際にあって、苦しんだり、痛んだり、悩んだり、たくさんのストレスを抱えておられるかもしれません。

しかし、神様は恵みの神様です。アフタークリスマスの苦難にも、その中にも恵みを備えてくださって、私たちを愛してくださっています。そのことを今朝ご一緒に確認し、喜び、平安を与えられ、希望を持って感謝したいと思います。

第一の恵み、それは「インマヌエル」が苦難の中でもいつも共にいてくださるということです。まだ幼子であったとしても、「神は我々と共におられる」という約束がいつもあって、神様が共にいてくださるのです。だから、ヨセフとマリアも大丈夫だったですし、アフタークリスマスを生かされている私たちも大丈夫なのです。

第二の恵み、それは13節から23節が3つに区分されていますが、この3つに共通することで、主なる神様が旧約の時代に預言者たちを通して言われたこと、約束が成就されるため、実現するためであったということです。15節には、「それは『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とあります。これはホセア書11章1節の言葉です。17節には、「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とありますが、エレミヤ書31章15節にある神の言葉です。18節の言葉は、捕囚の民として異国に連れて行かれる愛する家族と引き離された時にイスラエルの民たちが叫んだ言葉が引用されていますが、それほどまでに自分の子供を失うという痛みを伝える言葉としてここに記されています。そして23節には、『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」とあるのは、「預言者たち」と複数形でありますように、詩編22編6節やイザヤ書11章1節、53章3節などで主なる神様が約束されたことです。

神様の言われたことが実現するということは、神様の御意志、御旨が果たされる、実を結ぶということです。つまり、アフタークリスマスの苦難の中にも、神様の思いがあり、御心がなるための布石があるということです。ひと時の一事に目を注いでしまいますと、私たちは神様に対して不信を抱いたり、混乱してしまう以外になくなりますが、「神様の御心がなりますように」と主に信頼してゆくときに、もっと大きな神様のご計画の中に、つまり恵みの中で生きることが許されるのではないでしょうか。

旧約聖書で約束された神様の言葉が、御子イエス・キリストによって成就してゆく、実現してゆくとマタイは私たちに語り、そして私たちを励まします。

2018年も、実に色々なことがありました。喜ぶことも、悲しかったことも。自分の思いや願いとは全くかけ離れたことや正反対の方向へゆく導かれること、大切なものを失ったり、計画の変更を余儀なくされること、諦めざるを得なかったことなど、色々とあったと思います。しかし、それでも主イエス様は私たちの近くにいてくださり、私たちは神様の大きなご計画の中で、御手の中で生かされています。神様に愛され、神様のもとにいつも戻ることが許される、そのような恵みを受けることができました。これからも、主に信頼し、キリストの恵みを共にわかち、神様を讃えながら、共に歩んでまいりましょう。主が伴ってくださいます。「主よ、わたしの思いではなく、あなたの御心がなりますように」と感謝して、祈り、新しい年へと歩みださせていただきましょう。