イエス・キリストとは誰か

「イエス・キリストとは誰か」 クリスマス礼拝 宣教 2022年12月25日

 イザヤ書 9章5節     牧師 河野信一郎

メリークリスマス。2022年のクリスマスを皆さんとご一緒に礼拝をおささげできて、本当に感謝です。次回、クリスマスが12月25日の日曜日になるのは、なんと11年後だそうです。4年に一度の閏年があるので、そういうことになるそうです。本当に面白いですね。

 そういうことを耳にすると、今年のクリスマスがいつもより特別にも感じますが、それはわたしたち人間の勝手な自己満足であったり、自分の都合に合わせたことであったりするわけで、最も重要なことは、主を礼拝することです。わたしたちの救い主としてお生まれくださったイエス様と御子を救い主としてこの世にお遣わしくださった神様を礼拝することです。ですから、今朝、皆さんと礼拝をおささげ出来て感謝です。今日は夕礼拝が17時からささげられます。クリスマスの夕礼拝です。どうぞ覚えてお祈りください。ご出席ください。オンラインでぜひ出席ください。ちなみに、来年は12月24日が日曜日になりますので、朝の礼拝とクリスマス礼拝、そして夕礼拝をイブ礼拝としておささげすることが出来ます。

 さて、今日の礼拝はクリスマス礼拝ですが、2022年の最後の日曜日ですので、今年の振り返りも少ししたいと思います。今年もコロナウイルスの感染状況に左右される年でもありましたが、主の憐れみの中で守られてきました。確かに、辛いこと、悲しいこと、気持ちが落ち込むようなこともありましたし、今もそれが継続して心に負担となっていることもあります。大切な家族やご友人を亡くされた方もおられます。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が10ヶ月もずっと続いています。ミャンマーやイランでも厳しい抑圧が続いています。憐れみの神様に祈り続けなければなりません。

 しかし、神様からの恵みもたくさんありました。新しい人々との出会いも与えられ、心がさらに豊かにされました。来る日曜日から新しい年が始まりますが、感謝することも、悲しいことも、どちらもあるでしょう。しかし、大切なのは、主なる神様に信頼し、主イエス様から目を離さないで歩み続けることです。独りで歩めないのがわたしたちですから、インマヌエルであるイエス様が共に歩んでくださって、神の家族・教会を与えてくださって、互いに愛し合いながら共に歩みなさいと励まし、導いてくださいます。心から感謝です。

 さて、大久保教会の礼拝に出席されているすべての方々に2022年の「今年の漢字」を募集しています。先週も少し集まりました。月報1月号で紹介したいと願って準備していますが、お名前は記しませんので、どうぞご安心くださり、奮ってご応募ください。

 ちなみに、わたしの今年の漢字は、賛美の「賛」になります。2021年は神様の御言葉を語ることに集中したということで、「言」としましたが、2022年はたくさんの新しい賛美曲に出会うことができ、日々の生活の中で賛美する機会が格段と増えました。特に、韓国の若者たちが喜びと感謝をもって賛美するたくさんの曲に出会い、感動し、励まされました。素晴らしい賛美がたくさんあるので、日本語にして賛美をしようと裵宣教師の力を借りて日本語訳にし、夕礼拝で賛美しようとしています。1月には、1・2曲お披露目できると思います。

 もしかしたら、そのうちの1曲を今日の夕礼拝で、わたしがアカペラで賛美するかもしれません。「主を喜ぶことはあなたがたの力の源」とネヘミヤ書8章にあります。主にすべてを感謝し、恵みを喜ぶことはわたしたちを成長させます。今年の漢字、お待ちしております。

 さて、今朝のメッセージは、「イエス・キリストとは誰か」ということです。羊飼いたちに現れた御使は、イエス様のことを「あなたがたのための救い主、主メシア」と宣言しました。シメオンという人は、「万民のための救い、異邦人を照らす啓示の光、イスラエルの誉れ」と言いました。東方から来た占星術の学者たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになられた方は、どこにおられますか」と尋ねました。

 バプテスマのヨハネは、イエス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。神様は、イエス様に「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼んで、祝福しました。イエス様ご自身も、さまざまな機会にご自分が何者であるかと言っておられます。イエス様の弟子たちも色々と告白しますが、それらはすべて新約聖書の時代に語られたことです。

 今朝は、イエス様がお生まれになられる750年前の旧約聖書の時代に神様に仕えたイザヤという預言者が未来に生まれくる救い主を何と預言したのかをご一緒に聞いてゆきたいと思います。預言者イザヤが生きて神様に仕えた時代は、北王国イスラエルがアッシリアとの戦争に負け、捕囚の民として外国の地に移されていった「闇の時代」、イスラエルの「どん底の時代」でした。そのような苦しみの中にあるイスラエルに、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とイザヤは希望の預言を語ります。

 今朝の本題に入る前に、皆さんに一つ質問させてください。皆さんは、今、闇の中を歩んでおられるでしょうか。不確かな状態の中に置かれているでしょうか。不安や恐れの中を独りで歩んでおられるでしょうか。家族や仲間が周りにたくさんいても、なぜか孤独感が拭えない、将来への希望が見出せないで苦しんでおられないでしょうか。

 もし、そのような方がおられたら、朗報です。闇の中を歩むあなたのために、イエス・キリストという光、救い主がお生まれになられました。あなたはその大いなる光を見ます。神様が見せます。幸運ならば見ることができるとか、自分が頑張れば見ることが可能であろうとか、そういう自分の運とか、自分の頑張り様ではなくて、只々、神様の一方的な愛と慈しみによって、御子イエスという形で神様からすでに与えられていて、その事実を知り、その光を心の中に受け入れて信じてゆけば良いだけなのです。複雑に考える必要はないのです。

 さて、預言者イザヤは、神様から救い主が送られるとの神様の約束を語ります。今朝の聖書の箇所です。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる」とイザヤは救い主の誕生を預言します。イエス様がお生まれになられる約750年も前に、です。すごいと思いませんか。わたしたちを闇の中から救うために、何百年も前から救いの約束がなされ、緻密な計画が神様によってなされていたのです。わたしたちがどれ程までに神様に愛され、大切にされている存在であるか分かります。

 まず、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」とあります。過去形になっています。まだ成就していないこと、起こってもいない未来の出来事を過去形にするのは、神様の御心は必ず遂行される、果たされるという神様の真実さの表れです。神様は約束したら、その約束を必ず守ります。神様は、わたしたちを本気で愛し、救ってくださいます。もう一つ注目したいのは、「生まれる・生まれた」ということです。これはイエス様の「人間性」を表す表現です。つまり、イエス様は人としてお生まれになられたということです。当たり前のように聞こえるでしょうが、その当たり前は間違っています。

 次に、「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」と預言されていますが、「男の子」と訳されているヘブル語は、「息子」という意味の言葉です。つまり、「神の息子がわたしたちに与えられた」という意味になります。「息子」という言葉は、イエス様の「神性」が強調される言葉です。その神様の息子がわたしたちに「与えられた」と記されています。預言者イザヤがここで強調したいのは、イエス様は100%神であられ、100%人間であられるということです。では、何のために与えられたのか、その理由と目的を知ることが重要です。

 そのことを知るためには、ヨハネによる福音書3章16節にある言葉が有益です。すなわち、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。わたしたちが罪に滅びることがないように、死の原因である罪からわたしたちを救い、永遠の命を与えるために、ご自身の命と引き換えに、十字架で贖いの死を遂げてくださったのが、救い主イエス・キリストです。

 なぜその様なことをイエス様がしなければならなかったのでしょうか。それは神様とわたしたち人間の関係性が罪によって壊されていたからです。その壊れた関係性を修復し、再構築するために、イエス様はこの世に来てくださったのです。「権威が彼の肩にある」とありますが、ちょっと分かりづらい言葉ですね。これは、この世のすべての人を救う使命とそのための力を神様がお与えになられたという意味です。わたしたちを神様に再びつなげるための目的と大いなる力が与えられたということになります。

 さて、イザヤは救い主イエス・キリストがどのような方であるのかを4つの呼び名で表しています。「その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」とあります。この一つ一つを説明し、現代のわたしたちに適応したいと思いますが、まず「驚くべき指導者」とあります。他の聖書訳では、「助言者」、「カウンセラー」となっています。つまり、暗闇の中を歩んできて、色々なものにぶつかってたくさんの傷や弱さを負ったわたしたちを癒し、慰め、励ましてくださるお方がイエス様であり、道に迷ったら正しい道へと導いてくださる方、アドバイスをくれるだけでなく、いつも共に歩んでくださって、生きる意味や人生の目的を明確に示してくださるお方であるとイザヤは言います。

 次に、イエス様は「力ある神」と呼ばれるとイザヤは言っています。イエス様は、わたしたちを罪から救い出し、生きる意味と目的を与え、わたしたちが自分らしく生きられるようにしてくださる力を持たれた方であるということです。わたしたちに重要なのは、この救い主を信じ、イエス様につながるということです。イエス様につながることは神様につながるということになります。この救い主に信頼を置くことが大切です。

 次に、「永遠の父」と呼ばれるとイザヤは言っています。この呼び名の意味は、わたしたちが生きてゆくために必要なものすべてを備え、与え、満たしてくださる父のようなお方であるということです。そのような真実なお方が共にいてくださるので、安心して良いのです。

 最後に、イエス様は「平和の君」と呼ばれるとイザヤは言います。わたしたちは「平和」という言葉を聞くと社会や世界を見渡してしまい、あそこにいじめがある、略奪がある、紛争がある、戦争があると言って、神はどうしてそのままの状態にされるのかと神様を疑うことがあります。ロシアが今ウクライナにしていることや世界中で起こっている人種差別や分断や格差の拡大など、どこにも平和などないではないか、平和の君は何をしているのかとつぶやいたり、反感を抱いたりします。しかし、一番の問題は、神様とわたしたち一人一人の関係性が壊れていることです。そこが壊れているので、人同士の関係性もギクシャクし、悪化の一途をたどるため、わたしたちの心に平安がないのです。平安がないので、悩んだり、不安になったり、怒りを覚えたり、そしてそれが徐々に言葉と行動による暴力になるのです。

 イエス・キリストは、神様とわたしたち人間の破壊された、分断された関係性を修復し、再構築し、神様との平和、心の平安を与えるためにこの世にお生まれになりました。すべては救いと平和のためです。苦しみや痛みや悲しみの根源は何でしょうか。それはわたしたちの心にある「罪」です。この罪から解放され、自由になるためには何が必要でしょうか。自分の罪と弱さを認め、罪を悔い改め、イエス様を信じて、神様に立ち帰ることです。イエス様の贖いの死と復活を信じる人には、本物の平和が心に与えられ、神様と主イエス様を喜ぶ力が与えられ、永遠の命という祝福が約束されます。

メリークリスマス!御子のお誕生、おめでとうございます。