キリストはあなたを自由にする

「キリストはあなたを自由にする」 二月第二主日礼拝      宣教要旨 2017年2月12日

ヨハネによる福音書 8章31〜38節       牧師 河野信一郎

今回の箇所である8章は、ヨハネによる福音書における主イエスの十字架の道のスタート地点と言っても良い箇所です。何故なら、この8章で、主イエスと彼を殺そうとする人々との溝がはっきりと分かれてゆくことが記されているからです。そして、誠に残念なことは、主イエスを信じていたユダヤ人たちの中からイエスに反対する者たちが出現したという事実が記されています。31節で、「イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに言われた」とありますが、ここから主イエスを十字架に架ける者たちが出て来た事を覚えたいと思います。

「イエスを信じたのにどうして?」と思われる方がほとんどであると思いますが、ある神学者はこの「信じた」という言葉は完了形となっているので、おそらく口先だけの信仰告白であったろうと解釈します。他の神学者は、彼らは一時的に信じたということであろうと解釈しています。もう一人の神学者は、「彼らはイエスのある一部分、つまり受け入れやすい、自分たちにとって都合の良い部分のみを信じたのであろう」と解釈します。ある人は、「彼らは知識としてイエスを信じたのであろう」と言います。このようにすべての解釈は正しく聞こえますが、ここで私たちが熟考しなければならないのは、イエスを信じたというユダヤ人たちは、主イエスの何を信じたのかということです。そして私たちもイエスを信じていますが、主イエスの何を信じているのか。「あなたはわたしの何を信じているのか」と主イエスに問われているように感じます。そして、今回の箇所は、私たちに「イエス・キリストはあなたに真の自由を与えてくださる救い主、解放者です」ということを教え、キリストの福音を信じなさい」と招かれているのだと思います。

主イエスは、31節で「わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたは本当にわたしの弟子である」と言っておられます。この主イエスの言葉に、うわべだけの信仰者と主イエスの本当の弟子との違いが明記されています。本当の弟子とは、主イエスの言葉・教えにとどまる人、とどまり続ける人です。ですから、過去に「信じた」でも、「これから信じる」でもないのです。

信仰は、神から日々与えられる恵みですので、日々受け続ける必要があります。恵みを受け続ける、主の言葉にとどまり続けることによって私たちの心は潤され、強められ、私たちは成長して神の喜ばれる実を結んでゆくことができるのです。

また、信仰というのは、キリスト教について理解できたら信じるというものでもありません。信仰は、神から賜る恵みですので、自分の知恵や努力で得られるものではありません。ですから、神から与えられた恵み・主イエスを信じ続け、つながり続けることが大切です。つながり続けることによって、生きてゆくために必要な栄養素、水分、力が神から与えられ、主イエスが私たちを本当の弟子として育んで、成長させてくださるのです。「わたしの言葉にとどまるならば」という主イエスの言葉を「わたしの教えた通りの生き方をしてゆくなら」と訳した牧師がおられますが、その通りだと思います。

次に主イエスは、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃいますが、ここに大切なことが2つ記されています。まず「真理を知る」ということですが、「真理」とはイエス・キリストのことです。世の中には「真理」と呼ばれているものが無数あり、どれが本物なのか分かりませんが、ここで主イエスは、真理をギリシャ語で「ヘー・アレセイア」と言っています。「ヘー」とは冠詞ですから、主イエスはここで「わたしが『ザ・真理』、本物の真理である」と言っておられるのです。また、主イエスはここで「真理を知る」と言っておられ、「真理について知る」と言っておられません。つまり「ついて」というのは知識であり、知識としてしかとどまらず、信じることには至らないのです。主イエスを信じていると知っているでは大きな隔たりがあります。大切なのは、もっともっと信じてゆくことであり、親しい交わりを持ち続けることです。

さて、「真理」とは何かという問いが残りますが、真理とは、「人」として神に造られた私たちがどのように生きてゆくべきか、本来のあるべき姿、人生の目的・使命を教えてくれるものであり、それが神の御子イエス・キリストであります。

大切なこと2つ目に、主イエスが「真理はあなたたちを自由にする」と宣言されます。「真理はわたしを自由にする」、「真理は私たちを自由にする」となんどかくり返してみましょう。そうしている間に主の言葉から2つのことが示されます。一つは、「自由にする」ということは、私たちはいま自由ではないということです。もう一つは、イエス・キリストが私たちに真の自由を与えてくださる救い主であるということです。

まず私たちはいま何に捕われ、自由を奪われているのでしょうか。主イエスはユダヤ人たちに「あなたがたにはしがらみ、縛り、不自由があると言っていますが、どのようなしがらみでしょうか。そのように指摘されたユダヤ人たちはすぐに「私たちはアブラハムの子孫です」と主張するのですが、それがまさしく彼らのしがらみであったことに彼らは全く気付きません。アブラハムの子孫であるという「プライド、自信、うぬぼれ」が彼らの心を狭くし、頑なにしてしまっていたのです。ですから、そのような心では主イエスの言葉を素直に受け入れる余裕がなかったのです。

私たちの心も、様々な事柄で思い悩み、ゆとりのない、不自由な状態になりがちです。プライドや怒りや奢りや不安が心を支配し、圧迫感で窒息しそうです。ですから、主イエスが「わたしがあなたに真理を与え、あなたを自由にする。わたしを信じなさい。心の中にあるプライドを捨て去り、思い煩いをわたしに委ね、心をわたしに明け渡しなさい。そうすれば、あなたの心に神の愛が豊かに注がれ、その愛によっていつも喜び、感動する余裕が恵みとして与えられる」と救いへと招いてくださるのです。大切なのは謙遜に、素直になることです。

しかし、ユダヤ人たちは「今まで誰かの奴隷になったことはない」と大嘘をつき、救いへの招きを拒絶します。彼らは、世間体やメンツ、名誉の奴隷になっていたのです。キリストの救いへの招きを拒むことは罪ですから、主イエスは34節で「はっきり言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」と言われます。「罪の奴隷」とは罪に生き続けることであり、欲望や富、権力、世間体、誇り、習慣、伝統、偏った思想、偏屈な性格の奴隷となっていることです。不安や悩み、悲しみや怒り、死への恐怖の奴隷となっていないでしょうか。

「奴隷は家にいつまでもいる訳ではないが、子はいつまでもいる」と主イエスは35節で言いますが、奴隷はお金で売買され、たらい回しにされ、病気になったり、老いると捨てられてしまう存在です。安全、安心、保証というセキュリティーが全くない弱者です。しかし、そのような弱者、顧みられない人を神の子とし、自由を与えるために主イエスは神から遣わされました。この神の御子が様々な事柄にがんじがらめに縛られている私たちを罪から解き放ち、救いと自由を与えてくださるために十字架の道を歩まれます。そして「もし神の子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」と36節でおっしゃいます。

私たちの罪をすべて贖ってくださった主イエスを信じる時、私たちの代わりに十字架に架かって死んでくださった主イエスを信じ、すべてを委ねる時、私たちは真に自由にされ、心は喜びと感動で満たされるのです。

その時、私たちは主イエス・キリストによって、キリストを通して、神を「お父様」と呼べる自由が与えられ、神に直接お祈りする自由が与えられ、神を礼拝し、神と人に心から仕えてゆく自由が、主イエスが仕えられたように人々に仕えてゆく自由が与えられ、大きな喜びで満たされるのです。イエス・キリストを信じ、心にお迎えしましょう。