ルカ(20) 病人に触れるイエス

ルカによる福音書5章12節〜16節

今回の箇所は、重い皮膚病を患っている男性をイエス様が憐れみをもっていやされること、病人を癒すイエス様に注目を集めるところです。新共同訳聖書では「重い皮膚病」と訳されていますが、そうは言っても、今日には色々な皮膚病があり、身近なものであれば「アトピー性皮膚炎」があります。一昔前は「らい病」と呼ばれていましたが、差別用語として認識されるようになってからは、「ハンセン病」と呼ばれるようになり、その呼称でも偏見と差別を呼ぶと懸念されてから「重い皮膚病」と訳されるようになりました。

 

聖書の歴史のような話になり恐縮ですが、1955年発行の口語訳聖書、1962年発行の詳訳聖書、新改訳聖書1981年版、ならびにリビングバイブルは、ここを「らい病」と訳していますが、1987年に発刊された新共同訳聖書2014年版は「重い皮膚病」と訳しています。5年前に発刊された新改訳聖書2017では「ツァラアトに冒された」と訳され、余計に意味が分からなくなります。ところが、2018年に発刊された聖書協会共同訳聖書に何とあるかというと、「規定の病」となっています。ここでまた、「はぁ?」という気持ちにさせられますが、では、聖書のどこに規定されている病なのかと言うことになります。

 

それは旧約聖書のレビ記13章1節から46節(p 179)に規定されている様々な皮膚病です。そこには、何が汚れた皮膚病で、何が皮膚病でないのか、皮膚病の場合、どのように、どれぐらい隔離するのか等が事細かく記されています。だいぶ長い箇所ですので、今日はお読みしませんが、もしご興味があれば、レビ記13章をお読みください。祭司の「あなたは汚れている」、「あなたは清い」と言うフレーズのオンパレードです。

 

さて、12節の前半に、「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し」たとあります。全身が重い皮膚病にかかっているこの男性は、痛みや不自由さの中で身動きを取ることも大変であったと思いますが、それ以上に、レビ記13章の規定によると、このような人は健常者とは別の所に隔離されて、つまり社会から切り離されて、疎外されて生き続けなければなりませんでした。人や社会と関係を持ってはいけなかったのです。また、そのような皮膚病の人が町に姿を表すことは犯罪級レベルの行為であったわけで、刑罰を受ける覚悟がなければ出来ない行動です。つまり、この男性は、自分の命と引き換えるつもりで、必死になってイエス様のところに来て、ひれ伏したと言うことです。危険が伴う非常に切羽詰まった状態です。

 

そのような男性がイエス様に助けを求めて、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ます。この願いの口調が「叫び」であったのか、普通の口調であったかは分かりませんが、この「主よ」というイエス様へのアプローチの呼称から、彼がどれほど孤独で、苦しんでいたか、癒されたかったかがよく分かると思います。

 

この全身を覆う重い皮膚病に苦しめられている男性は、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」とイエス様に懇願します。叫びます。彼が望んでいたこと、それは彼の身体にある「汚れ」から解放され、身体が清められることです。清められたら、自由になるのです。社会復帰もできるし、家族のところへも戻ることができるようになるのです。病に苦しむだけでなく、人々からも偏見の目で見られ、社会から切り離されて孤独に生きる事は辛い事です。コロナ感染したり、濃厚接触者となったり、海外でも隔離され、帰国後も自主隔離しなければならないだけでも耐えられないわけです。

 

この男性は、自分を清めることができるのは「イエス」というお方だけであると信じて、危険を冒して、イエス様のところへ来たのだと思います。その思いが「主よ」という叫びにあるのだと思います。イエス様にありったけの希望を抱いたことの表れでしょう。

 

「御心ならば」という言葉を直訳すると、「もしもあなたが願えば」という言葉になります。つまり、「主よ、もしあなたが願えば、わたしを清くすることがおできになります」ということです。他の人の直訳では、「主よ、あなたのお心一つで、私はきよくしていただけます」となっています。「御心」とは、イエス様の願うこと、神様の希望、あるいは神の側のこと、神の領域のことという言い方ができると思います。イエス様の願うこととはイエス様の意志であり、つまり神様のご意志ということです。「癒やされるのも、癒やされないのも、神様の、イエス様のご意志のままであり、そのご意志のままになることを『御心』と受け止めざるを得ないけれども、もしわたしが清くなることをあなたが望まれるならば、わたしは清くされるのです」と身も心もイエス様にお委ねした言葉です。

 

そのような人に対して、イエス様はどのように向き合われたでしょうか。13節に「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った」とあります。イエス様はその手を差し伸べて触れた、そして「よろしい。清くなれ」と言われます。ここにイエス様の「行動」と「言葉」があります。イエス様は、言葉だけの人ではありません。行いが伴われるお方です。しかも、その行いは律法的には自分も汚れる行為です。怪我や病気を負った人に触れることはその人も汚れることであり、清められるために必要な宗教的儀式に費やす時間とお金などの負担は大きいです。

 

しかし、イエス様はこの人の身体と心に触れてゆかれます。「よろしい。あなたが清くなることはわたしの心、願いだ。今すぐ清くなって自由を得よ」と言われます。すると「たちまち重い皮膚病は去った」とあります。悪霊が去るかのように「今すぐ」に、「たちまち」に、「一瞬にして」です。これは、イエス様の言葉と行いに権威と力があることが分かる内容です。もっと大切なのは、苦しんでいた人が癒やされて解放されることがイエス様の願いであり、喜びであるということがよく分かるイエス様の言葉です。

 

神様とイエス様は、わたしたちに「清さ」を望まれる方です。わたしたちが自我や欲望を捨て去り、罪から解放され、神様のみ前に清く生きることを望まれています。この神様とイエス様は、わたしたち一人一人を罪から清めたいのです。それが「御心」です。

 

わたしたちが重い皮膚病にかかっていなくても、重い病気でなくても、心が傷とき、痛み苦しみ、悩みで満たされていたり、醜い思いで支配されているならば、重い皮膚病に苦しんでいた人と同じです。イエス様の前に出て行って、憐れみと助けを求め、心に語りかけていただき、触れていただく必要があります。イエス様はわたしを憐れんでくださると信じ、御心を求めることがわたしたちに必要なのです。このイエス様の言葉に触れられることによって、わたしたちは様々な深刻な問題から救われ、解放され、自由になります。わたしたちが願う、望む以上に、主イエス様がわたしたちの罪から清められることを望んでおられ、イエス様のもとに来ることを待っておられるのだと思いますし、そういう悩みの中にある人たちにイエス様を紹介したり、イエス様のもとに連れてくることが大切です。

 

さて、長年の苦しみから清められ、自由にされた人に対して、イエス様は「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」とお命じになります。なぜ誰にも話してはいけないのか。それは、以前カファルナウムで起こったような、群衆がイエス様を引き止めるようなことが起こり、イエス様が各地に入って宣教をすることを阻むことになるからでしょう。

 

イエス様は、「ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」とお命じになります。まず祭司のところに行って、癒やされた身体を見せなさい。そしてモーセが定めた規定どおりの清めの献げ物をし、完全に清められたことを人々に証明し、社会の中へ、家族のもとへ帰って行きなさい」とお命じになります。モーセの定めた規定は、先ほども皮膚病の説明で触れたレビ記の13章の次の14章に記されています。祭司に「あなたは清い」と宣言してもらって、神様に感謝の献げ物を心から献げ、そして社会へ復帰してゆきなさい、人々のもとに帰ってゆき、人々と一緒に生きなさい、もう孤独を味わわなくて良いということです。感謝で、感動的です。

 

15節に「しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た」とあります。マルコ福音書には、この男性が我慢できずにイエス様のことを人々に伝えたということになっていますが、ルカ福音書ではそのように記しません。どうしてでしょうか。イエス様の言葉と行いには、人が叫ばなくても、石ころが叫び出すほどの権威と力、威力があることを示そう、人にではなく、イエス様にその憐みに満ちた力があることを記録したかったからです。

 

最後の16節に、「だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」とあります。

これは、4章42節に通じることで、42節には記されていないイエス様が「人里離れた所に退いた」理由と目的が記されています。それは神様への「祈り」です。イエスさえも神様に祈りを通してつながる必要がありました。ましてや、わたしたちは祈りを通して神様につながり続けなければ、神様の「御心」、つまり神様のご意志、願い、望み、喜ばれることを知ることはできないのです。ですので、一人でお祈りすること、みんなでお祈りすることを大切にいたしましょう。

 

イエス様はここで何を神様に祈られたのでしょうか。イエス様は、何か特別なステージに移行する時、特別なことをなさる前にいつも祈られた方です。来週聴いて行く事になりますが、イエス様が祈られた理由は、これから出会ってゆく人に対して、ただ彼の病を癒すだけでなく、彼の信仰をご覧になって、「あなたの罪は赦された」と宣言する事への準備、それに対して律法学者やファリサイ派の人々から激しく攻撃されることへの準備です。祈ることは、試練の前も、その只中にあっても、その後にも、絶えず大切にすべき神様との会話です。その会話が、すべてのことと向き合える準備となります。