ルカ(21) 罪を赦すイエス

ルカによる福音書5章17節〜26節

先週は、重い皮膚病を患っていた男性がイエス様の「権威と力ある言葉」によって完全に癒された箇所をご一緒に聴きましたが、今回は中風の人、つまり体が麻痺した人をこれまた「言葉によって」癒すという箇所に聴きます。その「言葉」とは、いったいどのような言葉であるのか。このイエス様の言葉は、ルカによる福音書の中心、核心となる部分の言葉で、イエス様が語る福音の中心はここにあるという事がよく分かる箇所になります。

また、この箇所は、イエス様ご自身にとっても非常に由々しき箇所、今後のイエス様の宣教活動にとっても容易ならなくなる箇所です。いわゆるイエス様の「宿敵」、イエス様を悩まし、遂には死に追いやる人々が初登場します。そういう人々と対峙してゆくためにも、5章16節にあるように、イエス様は「人里離れた所へ退いて神に祈られた」のです。

わたしたちには「宿敵」のような人は存在するでしょうか。どんなに努力しても関係性がうまくいかない、しっくりいかない、いつもギクシャクしたり、衝突したりする人、そういう人はおられるでしょうか。例えば、家庭・家族では舅・姑・義理の兄妹など、職場では上司や同僚、取引先の人、教会では牧師や教会員、それ以外にはご近所さんやママ友など、どうでしょうか、そのような人が皆さんの周囲にいるかも知れません。あるいは、今後そういう人と出会い、悩まされるかも知れません。ですので、イエス様のように、お祈りを通して神様につながり続け、助けを求め続ける必要がわたしたちにはあるのです。

さて、17節前半に「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである」とあります。この「ファリサイ派の人々と律法の教師たち」はエルサレムにいるユダヤ社会のリーダーであった祭司長や長老たちから派遣された人たちです。彼らは、15節にあるように、「イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり、病気をいやしていただいたりするために、集まって来た」人たちの一部です。しかし、彼らは、とても批判的で、消極的で、前進タイプではありません。ただ興味本位で来ています。イエス様を敵か味方か判断するために来ています。

そのような人々が「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来た」とありますが、それらの地名はイエス様がこれから出かけてゆく地域ですが、それらの場所で彼らは今後イエス様に対して試そうとして難癖をつけたり、神学的違いから何度も衝突し、論争を繰り広げてゆき、敵意だけでなく、殺意を抱いてゆきます。ですので、今回のこの箇所は、そのことの発端となる重要な箇所なのです。だからこそ、そういう人たちと出会ってゆくことを知っておられたイエス様は、神様にじっくり祈られ、「御心」を求め、これから彼らとひっきりなしに対峙してゆくために必要な力を求めたのだと思います。

さて、次に、17節後半に「主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた」と記されています。ここで大切なのは、「主の力が働いて」という部分です。「主の力」とは、神の力です。イエス様の病気を癒すだけでなく、悪霊を追い出す時も、イエス様のなさる驚くべき「奇蹟」の背後には、いつも父なる神様の力、聖霊の力があったということです。この人々を癒す力も、悪霊を追い出す力も、神様への祈りの中でイエス様が求めた「権威と力」であったということは言うまでもありません。イエス様は、単独で、お独りで悪霊を追い出したり、病いを癒したり、難局を打開したり、高慢で頭でっかちの人たちと対峙していったのではなく、いつも神様の力があったということです。そして、この力は、イエス様がバプテスマを受けられた直後の神様の祝福の言葉によって与えられたものです。

今回覚えたい事の一つは、わたしたちも決して独りではなく、いつも神様、主イエス様、神の霊であるご聖霊がわたしたちと常に共にいて力を与え、共に戦い、言葉を与え、なすべきことを教えてくださるから、常に祈りなさいということです。神様を自分の前に置くとき、自分の思いよりも神様の御心を大切にしようとするとき、神様に従おうとするとき、神様の力が働いて、わたしたちの想像を遥かに越えることを成してくださいます。

さて、18節に「すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした」とあります。先ほども言いましたように、「中風を患っている」とは体が麻痺しているという事で、自分の力だけでは何もできない、人に頼らざるを得ない苦しみの中にあるという事です。しかし、そのような人のことを大切に思う人たちがここにいて、家の中にいるイエス様のところへ連れてきて、彼をイエス様の前に置こうとチャレンジする人たちがいた事が分かります。とても真剣で、積極的で、前向きです。イエス様に癒してもらいたいという強い願い、強く求める心がある人たちです。

しかし、「群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかった」と19節にあります。群衆とはどのような人たちであったでしょうか。「大勢の群衆が、教えを聞いたり、病気をいやしていただいたりするために、集まって来た」とありました。確かに、興味本位の野次馬のような人達がほとんどであったでしょう。しかし、その中には、心も、身体も、イエス様に癒してほしいと願う人達、神様の言葉を求めて来ていた人たちもいたと思います。どのような人であれ、その目と耳と身体、そして心はイエス様に向いています。

身体が麻痺している友を連れて来た人たちは、群衆に、人々の多さに最初は圧倒されたでしょう、ショックを受けたかも知れません。しかし、今日は無理そうだから明日にしよう、出直そうと言う気持ちは起こらなかったようです。彼らは他に「運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした」とあります。他人の家の屋根に上がって瓦をはがし、大きな穴をつくるなど非常識極まりない行為です。家主にとっては大迷惑な行為です。

大半の人々は、迷惑行為と見なしたでしょう。器物破損というよりも、不法侵入のような行為です。しかし、彼らには「正当な理由」がありました。イエス様に、大切な人を、友を癒してほしい、助けてほしいという切なる願い・理由がありました。

20節には、「イエスはその人たちの信仰を見た」とあります。友を愛する心、友を癒してほしいという強い願い、イエス様なら出来ると言う思い・信頼、そして彼らの積極性を「信仰」とイエス様は受け止められ、感心され、喜ばれたのだと思います。そのような信仰心に、イエス様は応えられてゆきますが、イエス様はこの身体が麻痺している人に対して、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われるのです。あれっと思われるかも知れませんが、当時、病はその人の罪が原因であると考えられ、病は汚れと思い込まれていましたので、身体の麻痺という病の根源である「罪」を赦したとイエス様は宣言されます。「あなたの罪は赦された」とイエス様はここで初めてはっきりと宣言されます。

この「あなたの罪は赦された」というイエス様の言葉は、ギリシャ語では完了形になっています。すなわち、あなたの過去の罪は赦されたし、現在の罪も赦されているという意味を持つ言葉です。過去の出来事(罪の赦し)が現在も継続している、つまりこれからも継続してゆくという宣言になります。イエス様を通して罪赦されたら、ずっと罪赦された状態が続くということです。しかし、だからと言って「罪」を犯しても良いという訳ではありません。イエス様に罪赦された人はイエス様に従う者となりますので、イエス様を見つめて従うと、満たされない思いになったり、不安になったり、恐れを抱くことはなくなるので、罪を犯さないで生きるようになる、罪を犯さなくても良くなるのです。

ところが21節です。「律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。『神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』」とイエス様を「神の子」と信じない人たちが心を騒がし始めます。彼らの主張は正しいです。確かに、神様以外に罪を赦すことはできません。しかし、イエス様は「神の子」、この地上に神様から遣わされた救い主なのです。救い主の地上での使命とは、わたしたち人間を罪から贖い出し、解放し、自由にすること、罪の赦しの宣言なのです。ですから、イエス様の「あなたの罪は赦された」との宣言はもっと正しいのです。

しかし、イエス様を疑いの目で見て、その言葉を批判的に聞く人たちは、イエス様を信じないので、「神を冒涜する者」としか裁くことができません。彼らの心のうちを知っておられたイエス様は、彼らに対して、「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問い掛けます。

皆さんが身体の麻痺した人であるとして、『あなたの罪は赦された』と言われるのと、『起きて歩け』と言われるのと、どちらが励まされるでしょうか。「あなたの罪は赦された」と宣言されるのと、「起きて歩け」と出来ないことを命令されるのと、どちらが嬉しいでしょうか。本心を言えば、起きて自由に歩けるようになりたいでしょうし、「あなたの罪は赦された」という言葉は戯言にしか聞こえないでしょう。それが人間の限界です。

しかし、神様から救い主としてこの地上に遣わされたイエス・キリストには限界がないのです。イエス様には罪を赦す力があるのです。イエス様の言葉は戯言ではなく、権威と力があるのです。ですから、24節で「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われ、その罪を赦す力を示し、不自由の中に生きて来た人を救うために、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われるのです。

そうしたら、群衆の目の前で、イエス様を信じない人々の前で、イエス様を裁く人たちの目の前で、25節、「その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った」とあります。凄いことです。人には決して出来ないことをイエス様はなさるのです。わたしたちの罪を赦すこと、罪によってがんじがらめにされているわたしたちを解放すること、自由にすることがイエス様にはお出来になるのです。

それでもわたしたちに出来ること、それはこのイエス様を救い主として信じること、ただ信じて、身も心も委ねてゆくことです。中風の人のように、イエス様の言葉によって、古い病の人から健康で新しい人へ変えられるのです。新しくされた人は、「神を賛美しながら家に帰って行った」のです。心が喜びと賛美で満たされたのです。それはお金では買えないものです。地位や頑張りようで買えないもの。しかし、イエス様を信じるという信仰が無償で与えられる。罪の赦しが無償で与えられるのです。それがキリストの福音です。

26節に「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、『今日、驚くべきことを見た』と言った」とあります。わたしたちに大切なのは、「今日」という日に神様の愛を受け取り、喜びに満たされて、賛美しながら生きることです。「今日」という繰り返しが、祝福された人生へとなってゆきます。すべて神様の愛から出ています。