ルカ(26) 12人を使徒に選ぶイエス

ルカによる福音書6章12〜16節

今日の箇所は、イエス様が数多くいた弟子たちの中から12人を選び、その人たちを「使徒」として立てるところです。たった5節の短い箇所であり、最後の14節から16節の3節は、使徒して選ばれ、立てられた人たちの名簿のようになっていますが、このところから導かれることを深掘りしながらお話しさせていただきたいと思いますが、まず「出会い」ということに関して、少しお話ししたいと思います。

 

この6章までの期間、イエス様は数え切れない人々と出会ってこられました。その出会った人々というのは、押し寄せる「群衆」、彼らに神様の言葉・福音を語りました。「悪霊にとりつかれた人たち」、彼らから悪霊を追い出しました。「病によって不自由な生活を強いられ、差別を受けてきた人々」、彼ら彼女らを癒して自由を与えて来られました。そのような人々の中からイエス様に従う人々が起こされていきました。

 

さらに、イエス様は漁師たちや徴税人たちに目を注ぎ、彼らを「わたしに従いなさい」として招かれてゆかれました。英語では、Hand pickと言いますが、イエス様が一人一人をその目と手で選ばれ、「わたしに従いなさい」と招かれてゆかれました。しかし、イエス様と出会ったすべての人がイエス様に従った訳ではありません。それ以上の何十倍、何百倍の人々は、観客のように振る舞い、「あ〜、良い話を聞いた。すごい奇跡を見た」と一瞬喜ぶだけで、あるいは傍観者となるだけで、イエス様からすぐに離れてゆきました。

 

わたしたちも出会いがこれまでたくさん与えられてきましたし、これからも多種多様な人たちに出会って行くと思います。出会いがあれば、別れもあります。しかし、わたしたちにとってかけがえのない出会いのナンバーワンは、イエス様との出会いです。何故でしょうか。

 

イエス様が、わたしたちの救い主であられ、わたしたちを神様につなげることができる唯一のお方であるからです。このお方が、わたしたちを救うために、その命を十字架の上で捨ててくださったからです。良いお話しは世の中にたくさんあり、感動や喜びを与えてくれます。しかし、わたしたちに「命」を与えてくださるのはイエス様だけです。

 

また、人生というものは良い出会いだけではありません。誠に残念な出会いも数多くあります。イエス様に対して憎しみを抱く者たちもいました。ファリサイ派の人々、律法学者たちです。イスラエル社会を代表する彼らがなぜイエス様を拒絶したのか。

 

それは、「律法・規定をしっかり守る」社会、律法を守る人々が「信仰深く」、守らない(守れない)人たちを「汚れた罪人」として排除することを、あたかも神の御心のように、当たり前ように捉える社会を築き上げてきた彼らの価値観に対して、イエス様が真っ向から対立したからです。

 

安息日は人々の魂の安息のために、神様との交わりの中へと招くために定めてくださった日であり、人が安息日のためにあるのではないとイエス様が言ったからです。

 

それでは12節から読み進めてまいりましょう。「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」とあります。ここに注目すべき点が三つあります。

 

まず「そのころ」とあります。口語訳聖書では「このころ」となっていますが、原典のギリシャ語聖書は、直訳すると、もっと長い「今、その日が来た」と記されています。「いよいよ、その日が来た」と訳しても良いと思います。「その日、そのころ」というのは、「多くの弟子たちの中から特別な任務に就かせる者たちを選び、その特別な働き・任務を委託する日」ということです。ですから、この日はとても特別な日であったのです。

 

二つ目の注目点は、「イエスは祈るために山に行った」という点です。イエス様は、弟子たちの中から「使徒」を選ぶために、山に登って祈られました。「祈るため」とは、神様と会話をするためということです。

 

「山」という場所は、神様との出会いの場所です。イエス様は、神様とのコミュニケーションを常に大切にされる方でした。特に、大きな使命を実行する前や大きな決断をする前には、必ず山に登られて、神様の声を聞かれました。いつも神様のご意志・御心を第一にされたのです。

 

三つ目の注目点は、「神に祈って夜を明かされた」という点です。夜を徹して祈られたということ。つまり、「使徒」を12名選ぶことは非常に重要なことであったということです。祈りの中で、神様とよく相談をして、「使徒」を慎重に選ばれたということです。

 

わたしたちの人生にも非常に重要なことがあるのではないでしょうか。その重要なことを自分の思いや勘や人の意見で決めるのではなく、神様に夜を徹して祈り、神様の御心を尋ね求め、目の前にある選択肢・オプションの中から慎重に選んでゆく、そういう習慣を身に付けることは今後も重要と考えます。

 

これまでの人生の中で後悔していること、それは浅はかな思いやひと時の感情に左右されて選び取ったことなどがあると思います。同じような間違いをしないためにも、神様にお祈りして、神様の声を聞く、相談することが大切です。

 

わたしには貴重な思い出があります。三重県の四日市という町で牧師をしていた父は神様にお祈りをささげるために早朝に、車で山に出かけ、山に登っている期間がありました。ある朝、私と弟と妹、まだ5年生、4年生、2年生でしたが、父に連れられて朝早くに山に行きました。そこで父が祈る姿を見ました。

 

その祈りの後、父はわたしたち兄妹に何かを伝えました。その言葉をはっきり覚えていないのが残念なのですが、そのすぐ後に、父は四日市教会を辞し、単身でアメリカに渡り、わたしたち残された家族は東京で父の帰りを待ちましたが、父は山に登って神様と会話をし、相談をしてきたのだと思います。そしてアメリカへ行くことを決め、そのことをわたしたちに、その朝、伝えたのだと思います。

 

さて、いよいよ、これまで出逢ってきた人たち、弟子たちの中から12人を選び、彼らを「使徒」として名付ける日が来ました。この「使徒」とは、どういう人たちであったのかを簡単に申しますと、イエス様の福音をフルタイムで語ることを使命とする人です。イエス・キリストの十字架と復活の福音を宣べ伝えることに専念する人、強いて言えば、その働きをイエス・キリストを通して神様から「委託された」人たちです。

 

この人たちは、リアルタイムでイエス様と出会い、イエス様の教えや業すべてをその五感で体現し、十字架で死なれ、三日後に甦られたイエス様に出会った復活の証人たちです。12弟子の「12」という数字は、イスラエルの12部族を象徴的に表すもので、この人たちの宣教を通して、新しい「神の民」が召され、形成されてゆくことを表していると考えることができます。

 

クリスチャンというのは、ただイエス様を救い主と信じているだけの存在ではなく、イエス様から福音を人々と分かち合う働きを委託されている人です。その働きを担うために必要な力を神様から日々受け取るために、聖書という神様の言葉とイエス様の名によって神様とコミュニケーションをとること、祈ることが与えられ、共に主の働きを担うために教会の仲間、神の家族が与えられ、共に励まし合い、祈り合いながら仕えています。

 

13節に「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」とあります。イエス様は、朝になると弟子たちみんなを山へ呼び集められ、山の上で12人を選び、彼らに「使徒職」を委託します。弟子たちを神様との出会いの場に招かれたということと、この委託は「神様の委託」であるということを示唆しています。

 

さて、14節から16節には使徒として神様から委託を受けた12人の名前が記されていますが、その最後に、イエス様を裏切る者となったイスカリオテのユダの名前があります。ある聖書講解書では、このイスカリオテのユダを選ぶプロセスがイエス様と神様の相談の中で難航し、夜を徹する祈りになったのではないだろうかとありましたが、この人を選ばれたのも神様であり、イエス様であったことを覚えつつ、わたしたちがイエス様を裏切ることがないようにいつも気をつけて生きる、いつも謙遜に生きることを心がけたいです。

 

イエス様が選ばれた使徒の中には、同じ名前を持った人たちもいましたので、その人たちや特色のある人たちには「あだ名、ニックネーム」をイエス様は付けられます。私は額に傷がありますので、小学生の頃は「フランケン」と呼ばれ、八重歯があったので一時期「真子ちゃん」と呼ばれていました。石○真子というアイドルがいたのです。

 

使徒の中にはシモンという人が二人いましたので、一人を「ペトロ」と呼び、一人を「熱心党」と呼びました。「ペトロ」とは「岩」という意味で、グループのリーダーということを示しました。ユダヤには、ファリサイ、サドカイ、エッセネ、熱心派という4つの党派があり、熱心党は反ローマの過激な党で、現代でニックネームを付けるならば「瞬間湯沸かし器」が良いと思います。他にもレビがマタイと呼ばれたり、ユダが二人いたので、一人を「ヤコブの子ユダ」と呼び、もう一人を「イスカリオテのユダ」と呼ばれました。

 

ここで大切なのは、イエス様が使徒として選ばれ、神様からその職を委託された人たちは多種多様な人々であったということです。職業も、政治的スタンスも、性格も、年齢もみんな違います。このような多様性を「カラフル」と最近ではよく形容されますが、どのような人でも神様から招かれているということです。

 

教会という場所は、わたしたちの場所ではなく、神様の場所です。その場所へ神様が人々を招き、一人ひとりに救いと信仰を与えてくださいます。そのような教会が神様の願っておられる教会なのだと信じます。

 

大久保教会は、そのような心のバリアーフリーな教会になりつつあると感じて、日々、神様に感謝をささげています。わたしたちが、喜びと感謝、平和と希望の中で生き続けるために重要なのは、互いの価値観や思想をぶつけ合うことではなく、イエス・キリストを通して受け取っている神様の愛を喜び、感謝し、そして互いに分かち合うこと、祈り合うこと、助け合うこと、仕え合うことだと信じます。そこに神の平和があると信じます。