ルカ(27) 平地に立たれるイエス

ルカによる福音書 6章17〜19節

今回の学びで聞くルカ福音書6章17節から19節は、49節まで続く「平地の説教」と呼ばれている箇所の導入の部分です。マタイによる福音書5章から7章に記録されているイエス様の「山上の説教」と、多くの点で共通性がありますが、ルカ福音書の方がコンパクトになっています。

 

しかし、皆さんの中には、「平地の説教」と「山上の説教」の何が違うのか、と感じられる方もいると思います。まず、ルカ福音書は異邦人にイエス様が救い主と伝えるために記録された福音書であり、マタイ福音書はユダヤ人に対してイエス様がメシア・救い主であることを伝えるために記録された福音書であったと理解することが重要だと思います。「山の上」というのは、ユダヤ人にとっては非常に重要な場所で、異邦人にはそこまで重要でなかったと捉えてください。

 

前回の学びでは、山の上で、大勢いる弟子たちの中から、イエス様が12人を選んで「使徒」として立てられた部分を聴きました。弟子たちは皆ユダヤ人です。そして「山」という場所は、神様と出会う所であるとお話しし、イエス様は弟子たちを神様の近くに招かれたとお話しました。

 

しかし、身体的な理由や他の様々な理由で山に登れない人たちも実際にいるわけで、そういう人たちに対して、「山に登ってこない限り、神には出会えない」というのは、実に愛のない、非常に酷なことです。ですから、17節にあるように、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」のだと考えます。「平らな所」であれば、誰でもイエス様の許に来ることができます。異邦人たちも、身体に弱さをもった人たちも、高齢者たちもみんな含まれてイエス様に近づくことができるのです。

 

イエス・キリストという神の子・救い主は、父なる神の許を離れて、この地上に誕生してくださいました。イエス様が地上に来られた目的は明確です。神様の愛と赦しを伝え、神の道にすべての人を導くために、罪をもったわたしたちの身代わりとなって十字架で贖いの死を受けてくださり、わたしたちを罪と死のくびき・苦しみから解放するためでした。

 

もし天が物理的に上にあるのであれば、イエス様はそこからこの地上に降りてきてくださったと言えます。自力だけでは神様の許に行けないわたしたちを主は憐れみ、わたしたちを神様の許へ引き上げてくださるために、わたしたちの手をとって神様の許へと導いてくださるために、イエス様は来てくださったということができます。神の御子がわたしたち罪にある者たちの所へ来てくださったことは、非常に驚くべきことであり、畏れ多いことであると言えます。

 

山から降りられて平地にお立ちになったイエス様の許に、案の定、「大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から」来たと17節後半にあります。この人々がイエス様の許に来た理由は、18節に「イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた」とあります。

 

ティルスとシドンは異邦人の町ですから、弟子たちやユダヤ人だけでなく、異邦人たちも、イエス様に教えと癒しを求めて来たことが分かります。福音は、すべての人のためにあるのです。

 

数ヶ月前、近くの国際医療センターで受診することがありましたが、待合所にはどこからこんなにも多くの人たちが集まって来たのかと驚くほど、診察や治療を求めている人たちで一杯の状態でした。現代では、医療も発展し、病院も各地にでき、適切な治療を受ければ、非常に高い確率で治癒する時代となっています。

しかし、イエス様が歩まれた時代には、医者や病院などありませんから、病気になるということイコール死に直面することであり、多くの場合、医者にもかかれず、治療も薬もなく、命を落とすことが多い時代でした。今では些細な病気、風邪などでもです。ですから、イエス様の許へ来た人々は、必死でした。切羽詰まった状態でイエス様の所へ来たと考える方が自然です。

 

当時は、病気にかかることイコール汚れた霊に取り憑かれていると理解されていましたので、「汚れた霊に悩まされていた人々も」たくさんイエス様のところへ来て、「いやしていただいた」ということが18節に記されています。たくさんの人々が病に悩み苦しんでいたという状態は、医療がこれだけ発展した現代でも何ら変わらない現状です。

 

「イエスの教えを聞くため」に来た人たちもたくさんいました。イエス様の口から出る言葉には、人々の心を揺り動かす力、励ましたり、慰めたり、神様の御心をはっきり示す力があって、人生に迷っていた人たちが生きる力を得ようとイエス様の所に来たのです。イエス様の言葉には、わたしたちを根本的に変える力と権威があることを聞いて来ました。

 

今回、イエス様の癒しということを先行して取り上げましたが、この箇所には「大群衆が、教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた」とあります。つまり、イエス様の言葉が何よりも重要で、その言葉によって人々は癒されたということを覚えてください。癒しの前に、神の言葉、イエス・キリストが必ずおられ、この主の言葉にわたしたちは生かされるのです。

 

さて、少し戻りますが、17節に「おびただしい民衆がユダヤ全土とエルサレムから、ティルスやシドンの海岸地方から」来たとあります。そして19節前半では「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」とあります。

 

17節と19節で違うのは、「民衆」と「群衆」という言葉です。新改訳聖書は同じですが、口語訳聖書では「大群衆」と「群衆」と訳されています。「民衆」は「ラオス」というギリシャ語、「群衆」は「ホロス」という言葉が用いられています。それでは「民衆」と「群衆」、概念で何が違うのでしょうか。

 

「民衆」は、イエス様に好意的で、イエス様に聞く耳をもつ人の群れと捉えられています。「群衆」は、そういう「好意」とか「聞く耳」など持ち合わせていなくて、ただ癒されたい、救われたいと自分のニーズを優先させる人の群れと捉えられています。イエス様を神様から遣わされた御子・救い主と信じて求めてゆく人たちと、そういうことはどうでも良くて、誰でも良くて、ただ自分が癒されること、救われることを求める人たちとの違いです。

 

ですから、自分のニーズがある程度満たされたならイエス様の許を去る人たちが「群衆」で、イエス様の許に留まる人たちが「民衆」となり、その人たちがイエス様の許で弟子となってゆき、イエス様に従う者に変えられてゆきます。主イエス様によって、その言葉、教えによって、イエス様の愛と祈りによって日々変えられてゆきます。そこが実におもしろいところです。

 

さて、19節前半に「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」とあります。先ほど申しました、イエス様に対して好意的でなく、教えに聞く耳をあまり持ち合わせなくても、「癒されたい、救われたい」という気持ちは切実です。ただ、自分のことが優先されてしまうので、周りのことが目に入らず、つい強引になってしまう、生きるか死ぬかの瀬戸際、切羽詰まっている人たちもそこにいたと思いますので、そういうこともあり得るわけです。

 

イエス様は、そういうこともすべて分かっておられたと理解するのが妥当だと思います。なぜならば、19節の後半に「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」とあるからです。イエス様の憐れみがなければ、イエス様から「すべての人の病気を癒す」力が出てゆくことはないからです。

 

「イエスから力が出た」とあります。この「力」は「ドゥナミス」というギリシャ語が用いられています。このイエス様から出た「力」は、ただ単に「癒しを与える力」ではありません。「悪霊を追い出すだけの力」ではありません。罪人であるわたしたちの身代わりとして十字架に死なれ、神の裁きを受けてくださり、死に打ち勝って甦られ、わたしたちに永遠の命を与えてくださる力なのです。神様の愛の力なのです。

 

平地に立たれるイエス様は、憐れみに満ちた救い主であること、その憐れみはわたしたちに今日も惜しみなく注がれていて、この愛を受けなさいと招かれていること、そのために神様の許からわたしたちの所へ来て下さったことを信じ、すべてを委ねつつ、感謝しつつ、歩ませていただきましょう。

 

このイエス様の愛と憐れみを受け取る時、不安や恐れによって痛んで弱った心は神様の愛によって癒され、満たされ、平安と希望が与えられ、恐れや不安なく前進する力が神様から日々与えられます。わたしたちの救いのためにこの世に来られ、平地に立ってくださるイエス様を心から喜び、感謝をささげつつ、従って生きましょう。