ルカ(38) 罪の赦しを宣言するイエス

ルカによる福音書7章36〜50節

今回は、7章の最後の部分をご一緒に聴いてゆきますが、とても長い箇所なので、皆さんの中には、内容も豊富で話しやすいであろうと思われる方もおられるかもしれませんが、これまでのルカ福音書の学びの中で、最も難解な箇所かもしれません。今回の学びを準備している時に、そのように感じましたので、皆さんにうまく伝わったら嬉しいですが、しっかり伝わらなかったら申し訳なく思います。最初から言い訳のようなことを言って大変申し訳なく思いますが、頑張ってすべてを理解しようとはせずに、理解できる部分だけを今回は受け取っていただき、理解不能な箇所は「いつか理解できる時が来るでしょう」という気持ちで神様が備えてくださるその「時」をお待ちいただきたいと願います。

しかし、いったい何がそんなに難しいのかということを最初にお伝えします。そうすれば、少しは理解しやすくなると思います。今回のテーマはとても重要なのですが、いわゆる「卵が先か、鶏が先か」という、堂々巡り、平行線をたどるような、イタチごっこのようなテーマが複数記されているので、そのために思考能力が低下するからと言えます。ですので、細かい事に捉われずに、大きな部分を理解できたら幸いと思えば良いでしょう。

さて、今回の箇所に、わたしは「罪の赦しを宣言するイエス」という主題をつけましたが、新共同訳聖書には「罪深い女を赦す」という小見出しがついています。この箇所は、7章34節と35節のイエス様の言葉の具体例であろうと考えられていますので、そこをまず読んでおきたいと思います。「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」とあります。

36節から読んでゆきますと、「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。」とあります。このファリサイ派の人を、イエス様は40節で「シモン」と呼んでいます。イエス様がファリサイ派の人と食事することに驚かれるかもしれませんが、イエス様がファリサイ派の家に招かれて食事をする箇所は、他にも11:37、14:1にありますので、ここだけが例外ではありません。シモンは、イエス様と食事がしたかったので、イエス様を自宅へ招いて、イエス様もその招きに応えて食事の席に着かれたということは平和の象徴でもあります。

余談ですが、キリスト教会の会堂の中心には、主の晩餐式用テーブル(聖餐卓)が置かれています。これは、教会の中心には「主の食卓」があるという事です。食卓を囲むということは、「平和」を意味します。そしてその「平和」にも二つ意味があり、一つは食卓を囲む「人々との平和」、二つ目はイエス様と共に囲む「神様との平和」です。その食卓の中心には、神様の愛があります。ですから、バプテスト派の教会は共に食事をすることを喜びとします。それがコロナパンデミックのために出来ないので、ストレスを感じます。

さて、34節に「人の子(つまりイエス・キリスト)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」とありますが、イエス様は徴税人や罪人と食事をすることを喜びとしました。その人々の救いのために来られたのですから、食事はイエス様の大きな喜びの一つであったと思います。同時に、ファリサイ派のたちと食事をすることも楽しみにしていたでしょう。しかし37節と38節にこう記されています。

「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」とあります。平和の食事の場に、「招かざる人」が入ってきたということです。しかも、「罪深い女」と呼ばれるような女性です。しかし、中近東では客のいる家に他人が勝手に入ってくることはごく普通であったそうですので、この女性が俗にいう「不法侵入者」ではなかったと考える方が良いと注解書にありました。

この「罪深い女」は、その町の娼婦であったと考えられています。39節を読みますと、ファリサイ派のシモンたちは彼女がどのような素性の人か知っていたことが分かります。シモンは心の中で、「この人(イエス)がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と言っています。ここに最初の「卵が先か鶏が先か」の問題が出てきます。つまり罪は娼婦という存在がいるから生じるのか、それとも娼婦を買う男性がいるから生じるのかという問題です。現代でもこの「売春・買春」の問題は深刻で、社会の認識もバラバラです。しかし、わたしは男性にこの問題の原因・責任があると思います。ここでも、シモンたちはこの女性を「罪深い女」と心の中で呼び、男性側に罪の原因・問題があることを認めようとしていません。人の罪の根は深いです。

さて、この女性がイエス様にしたことを見てゆきましょう。「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」とあります。「足」という言葉が3回出てきます。ユダヤ社会では、人の足に接吻し、香油を塗るのは、その人に対する深い尊敬のしるし、また感謝のしるしと理解されていて、その足を「涙でぬらした」とあるのは、悔い改めた心と愛の溢れる心を表していると考えられます。彼女は、自分の犯した罪を十分過ぎるほど認識しており、その罪深さに心を痛めていて、救いを求めてイエス様のところへ来て、そのような行為を行ったと理解することができると思います。

シモンは心の中で、「この人(イエス)がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに。」とつぶやきます。シモンの心には、1)預言者はそのような女に自分を触れさせないはず、2)預言者は人を見通す力があるはずと考え、その両方の性質をイエス様は欠いていると思ったようです。しかし、40節には、イエス様がシモンの心の内を見通していたことが記されています。「そこで、イエスがその人に向かって、『シモン、あなたに言いたいことがある』と言われ」たとあります。

イエス様がシモンに話されたことが41節から42節にあります。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」と。日本円で5億円、5000万円と考えてみましょう。借金した者たちは返済不能になって、二進も三進も行かない人たちです。借金地獄で自分の命を奪って死んでしまおうと考える人がいてもおかしくない状況です。その借金を帳消しにされたら命が長らえます。借金をなかったことにしてくれた二人のうち、どちらが金貸しを愛するだろうかと問われます。シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と43節で答えます。そしてイエス様も「そのとおりだ」と言われます。シモンの答えは正しいと主は言われますが、この答えは一般社会の中の人間関係では正しいということです。

しかし、続く44節から46節でイエス様はこう言われて、シモンと女性の態度を比較します。「女の方を振り向いて、シモンに言われた。『この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。』」とあります。

ここでイエス様が挙げているのは、行為そのものが正しいか、否かではなく、その行為に「愛があるか」ということです。イエス様は、シモンに対して、あなたも間違ったことはしていないし、彼女も間違ったことはしていない。しかし、彼女には大きな愛があって、あなたには同じだけの愛がないと言っています。

第一コリント13章1節から3節に「山を動かすほどの信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」とあります。美味しい食事を出してくれる店が街に二店あったとしましょう。細やかな配慮をしてくれるウエイトレスがいるお店とホスピタリティの「ホ」の字もない無愛想なウエイトレスがいるお店、皆さんはどちらに通い続けるでしょうか。細やかな配慮をしてくれる店でしょう。

さて、47節にあるイエス様の難解な言葉です。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」とあります。罪を赦されたから、主を愛するのか。それとも主を愛するから、罪が赦されるのか。たくさん愛せば、たくさん赦されるのか。たくさん赦されたから、たくさん愛するのか。神様の愛が先か、罪の赦しが先か。

ユダヤ人の立場から言うと、律法を守れば救いがあり、守らなければ救いがないのか。救われてから守ることはできないのか。律法が先か、救いが先か。新約聖書の中では、行いによる救いか、信仰による救いかと言う議論があり、果たしてどちらだろうと言う論争が人間社会の中で、はたまた教会の中で起こってしまうわけです。

この箇所で大切なのは、主なる神様が、預言者よりも大きな力、大きな権威と権限を持った神の御子イエス・キリストを通して、第一に愛と憐れみを示され、そして第二に「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と宣言してくださるということです。神様の憐れみとイエス様の権威によってどのような過去、どのような罪をもった女性であっても、女性、男性、また年齢や人種などいっさい問わず、自分の罪、自分の弱さを認め、悔い改める人の罪を赦すと宣言してくださるということです。

イエス・キリストは、預言者以上の愛と力に満ちた救い主であり、神様との平和を与えてくださる唯一の救い主であり、わたしたちに必要なのは、このイエス様を救い主と信じ、このお方の言葉に聞き従うことなのです。

35節の神様の「知恵」とは、神様の「御心」であり、神様の救いの計画を指します。つまり、イエス・キリストは、神様の御心・ご計画を行うために地上を歩まれ、罪に生きるわたしたちすべての人を救うために来てくださり、救いを宣言してくださるお方であるということです。つまり、いつも神様の愛が先です。わたしたちが神様の愛と救いを感謝し、救われた事に応答して生きてゆく中で、神様の御心が正しいということが証明されるのです。神様の愛と憐れみ、イエス様の十字架と復活の上に、わたしたちは生かされていることを信じ、喜び、感謝して、神様と人々に仕える日々を送らせていただきましょう。