主に目を留められている人

「主に目を留められている人」 アドベント第二主日礼拝  宣教 2019年12月8日

 ルカによる福音書1章46節〜55節        牧師 河野信一郎

 今朝は、ルカによる福音書1章46節から55節に記されている「マリアの賛歌」を通して、わたしたちはマリアのように、主なる神様の目に留められている存在であるということを聴き、感謝し、その恵みに応答してゆく者とされてゆきたいと願っていますが、まず最初に皆さんと覚えたいことは、このルカ福音書の1章と2章にはバプテスマのヨハネの誕生の出来事とイエス・キリストの誕生の出来事が記されていますが、この最初の2つの章の大きなテーマは、主なる神様はおっしゃったこと、約束されたことを必ずなされるということです。また、神様がわたしたちの心と生活に介入される時、神様を喜ぶこと、そして主なる神は約束されたことを必ず果たされるお方であると信頼することが大切であるということです。それはどういうことかと言いますと、つまりおっしゃったこと、約束されたことは必ず果たされる神様を信じる者には、まことの喜びと祝福が神様から来る、与えられるということです。そういう意味において、1章45節の言葉はとても重要な言葉になります。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」マリアは、そのように信じたのです。そしてわたしたちも今朝、そのように信じるように招かれています。

さて、このマリアの賛歌は大きく二つの部分に分けることができます。まず46節から49節前半は、特別な立場に置かれたマリアの個人的な賛美であり、49節後半から55節までは、この世の中で御業をなさる主なる神様を賛美する内容になっています。

まずマリアの個人的な賛美を読んでまいりましょう。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」とあります。

マリアがなぜ主なる神様をあがめ、賛美するのかと言う最大の理由は、主なる神様が身分の低い、人の目にも留まらないような彼女の小さな存在に気づき、目を留めてくださったからです。わたしたちもたくさんの人たち、知っている人たちの中で気付かれないとさみしい思いにさせられ、自分の存在を小さなものと感じてしまいますが、他でもない神様がわたしのような者に気づいてくださった、目を留めてくださった。それが彼女にとって大きな喜びであったのです。

この社会の中で、学校や職場や様々なところで目も留められない、気付かれない、小さくされている人たちがたくさんおられます。わたしたちもかつてはそのような人で悩みや苦しみの中にあったかもしれません。無視されたり、いじめられたり、存在自体を忘れ去られている方々がおられます。そのような人たちを探し出すために主イエス様はこの世に来られました。わたしたちは、主に目を留められた者、留められている者として、主の目となり、主の僕としてこの社会の中に遣わされています。まず、マリアと同じように、神様がわたしにも目を留めてくださったこと、そして暗闇から光へと移してくださったこと喜び、感謝し、主をあがめ、喜びたたえてゆくこと、賛美と礼拝を大切にしてゆきましょう。それは神様がわたしたちに求めておられる応答だと信じます。

さて、この46節から49節のマリアの賛歌を読みますと、46節と47節の「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」は現在形、48節前半と49節前半の「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」が過去形、48節後半の「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」が未来形になっていることに気付かされます。神様の憐れみと愛と恵みは、信じる者たちに時を超えて豊かに注がれ、信じる者たちは大いなる喜びで満たされると云うことです。

そしてこの48節後半のマリアの「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」という言葉は、マリアが特別な存在であるから「幸いな者」と呼ばれるのではなく、マリアと同じように神様を信じ、喜び、あがめてゆく者は誰であれ、過去と現在と未来のどの時代にある者でも、すべて神様の祝福を受けて幸いを得て、「幸いな者」とされると云う励ましの言葉です。ですので、わたしたちに大切なことは、「わたしは主から幸いを得ています。わたしは神様に祝された者です」と告白し、いつも感謝をささげ、主を賛美し、その恵みを周りの人たちと分かち合ってゆくことです。そのようにしてゆくと、人々から妬まれるのではなく、人々が神様の祝福に与ってゆき、人々から喜ばれるのです。

それでは、「妬む人」と「喜ぶ人」の最大の違いはいったい何でしょうか。何がわたしたちの心に違いをもたらせるのでしょうか。その答えが49節後半から50節にあります。「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とあります。「主なる神を畏れる」ことが「妬む人」と「喜ぶ人」に決定的な違いをもたらすと教えてくれています。神様の祝福を受ける人と受けない人の違いは主なる神様を「畏れる」か「畏れない」かです。

畏れるか、畏れないかは、わたしたちの自由な意思に任せられています。自由に選びとって良いのです。しかし、なぜマリアは主なる神様を畏れ、今朝わたしたちは主を畏れなさいと招かれているのでしょうか。なぜ畏れる必要があるのでしょうか。その理由が50節から55節に記されています。

なぜ主なる神様を畏れる必要があるのか。5つほど理由があります。それは第一に、50節にありますように、神様の愛、憐れみがイエス・キリストを通してわたしたちに与えられ続けているからです。第二に、51節にあるように、主なる神様はその力強い御腕を振るって、イエス・キリストを通して驚くべき救いの御業を成してくださったから、これからも成し続けてくださるからです。第三に、52節にあるように、身分の低い者、小さくされている者を高く上げてくださるからです。第四に、53節にあるように、主イエス・キリストによってわたしたちの必要をすべて良いもので満たしてくださるからです。第五に、54節にあるように、わたしたちを受け入れて、その憐れみを決してお忘れにならない、いつも覚えておられるからです。第六に、55節にあるように、主なる神様はそのお言葉を、約束をとこしえに守られるからです。神様の愛はイスラエルだけにとどまりません。アブラハムとその子孫にだけ祝福がある訳ではありません。主の憐れみ、愛は主を畏れる者すべてに及びます。つまり、私たちにも神様の愛は注がれ、主を畏れ、主に従う者は恵みのうちに「幸いな人」とされ、人々からも呼ばれるのです。

主イエス・キリストの十字架と復活の恵みに与り、「幸いな人」とされているわたしたちの神様への応答はどのようなものでしょうか。

それは第一に、イエス・キリストを通して神様の愛、憐れみを受けた者として、まだこの愛を受け取っていない人たちに分け与えてゆくことです。第二に、その力強い御腕を振るって、イエス・キリストを通して驚くべき救いの御業を成してくださり、これからも成し続けてくださる神を人々に伝えてゆくことです。第三に、わたしたちを高く上げてくださったように、小さくされている人たちを探し出し、主の御前に連れてきて、神様に彼ら彼女らを高く上げていただくことです。第四に、主イエス・キリストを通してわたしたちの必要を良いもので満たしてくださったように、主の憐れみを人々に分け与えて、その人たちの最も必要なものを満たすために働くと云うことです。第五に、わたしたちが主に受け入れられたように、神様の愛を必要としている人々を受け入れてゆくと云うことです。第六に、主なる神様の言葉であるイエス・キリストを伝え、この方こそ救い主、この方を通して永遠の祝福を受けることが約束されていること、その良き知らせを伝えてゆくことがわたしたちのこの地上での役目、使命です。

ですから、まず主を喜び、崇めることから始めましょう。そして神様の伴いと助けと導きを祈り求めましょう。主に目を留められた者としていつも喜び、絶えず祈り、全てに感謝できるように、憐れみを受けた者として人々に優しくなれるように、思いやりのある人になれるように、そのように造り変えてくださいと祈りましょう。

この新しい週も、アドベントを過ごす中も、主を畏れて、感謝して歩ませていただきましょう。マリアのように、主なる神様を畏れる人たちを神様は祝福し、主のご用のために豊かに用いてくださいます。主を畏れ、主の言葉に聞き従ってまいりましょう。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」