主の言葉を信じる者は生きる

「主の言葉を信じる者は生きる」 一月第四主日礼拝      宣教要旨 2017年1月22日

ヨハネによる福音書 4章46〜54節       牧師 河野信一郎

今回は、主イエスがガリラヤ地方のカナという町でなされた2回目のしるし・奇蹟(54節)から神の御心を知りたいと思います。1回目のしるしについて、ヨハネは46節で「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である」と記しています。そして、1回目の奇蹟の時と同じですが、2回目の奇蹟がおこされた目的が53節後半に「彼もその家族もこぞって信じた」とあるように、この奇蹟を通してイエスを救い主と信じさせるため、信仰を与えることであったことが分かります。

今回の箇所は、今の時代に生きる人たちをイエス・キリストを救い主と信じる信仰へと招く箇所であると同時に、信仰が与えられ、クリスチャンとされてから数十年、十数年と年月が過ぎている私たちクリスチャンたちの信仰に更なる成長、成熟を促す、あるいは信仰のリバイバルを与え、信仰が喜びと感謝と平安、そして希望によって満たされて元気になるための招きの箇所ではないかと感じさせられます。そういうスタンスで聴きたいと思います。

さて、46節の後半に「カファルナウムという町に王の役員がいて、その息子が病気であった」と記され、47節後半には「(その)息子が死にかかっていた」と記されています。この王の役人は、父親として大きな苦しみを負っていたということが分かります。私たちも、彼の気持ちに共感できるのではないでしょうか。愛してやまない家族や親友が病気を患うと本当に苦しくて辛い思いになり、心が窒息しそうになります。ましてや愛する人が死に直面しているのです。生きた心地ではありません。希望を持てずに暗闇をさまよう感じです。

カファルナウムからカナまで片道25キロ程の道のりをどのように歩んだのでしょうか。石のように重たい心を引きずって歩んだのでしょうか。王の役人ですから馬に乗って急いで来たのでしょうか。顔はうつむいていたでしょうか。表情は険しかったでしょうか。私たちも、愛する者のためならば、どのような苦労もいといません。どんなに遠いところでも、そこに息子を救ってくれる人がいると耳にすれば何のためらいなく、どんな犠牲を払ってでも急いで駆けつけます。目的地に着くまでの一歩一歩、祈って、祈って、祈って。愛する者のことを思って、思って、思って。救いを願って、願って、願って行くでしょう。

「この人はイエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て、息子を癒してくださるように頼んだ」と47節にあります。人生の真っ暗闇の中で、イエス・キリストに希望を抱いてゆくのです。最後の望みをかけてゆくのです。イエスに望みをかけてゆくということは、「賭け」でしょうか。それとも「信仰」でしょうか。私はどちらとも言えると思います。そして、そのような人を神は憐れみ、主イエスの恵みによって救いと勝利を与えられるのです。つまり、「賭け」に勝つのです。何故でしょうか。それは、それが神の御心だからです。イエス・キリストを信じる者は救いが与えられ、永遠の命が与えられるのです。

さて、カナまで25キロ上って来て、息子を癒して欲しいと切望した父親に対し、主イエスは何とお答えになられたでしょうか。父親の期待通りに、すぐさま立ち上がってカファルナウムに急いだでしょうか。48節で主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」とおっしゃったのです。この言葉を父親はどのように受け取ったでしょうか。心傷つき、希望が打ち砕かれなかったでしょうか。私たちは、この主イエスの言葉をどのように受け止めるでしょうか。

ここで注目すべきは、「あなたがた」という名詞です。この父親だけでなく、私たちの多くは実際のところ、「しるしや不思議な業を自分の目で実際に見なければ信じない」という信仰をもっているのではないでしょうか。そのように私たちは今回問われているのです。

もう一つ注目すべきは49節の「役人は『主よ、子どもが死なないうちにお出でください』と言った」とあります。つまり、彼の信仰、そして私たちの多くの信仰は、死ぬ前に、生きている間に助けてくださる救い主を信じる信仰で、息子が死んでしまえば、もう手遅れとしか考えていない信仰であるということです。主イエスは、死人を生き返らせる力を持たれるお方であるとは信じていなかったということです。私たちはどうでしょうか。私たちは、私たちの罪を贖うために十字架上で贖いの死と遂げてくださった主イエスが三日後に甦られた、復活されたと信じています。ですから、私たちは生と死を支配され続ける主を信じるのです。

私たちに持ち続けてほしいと神が願っておられる信仰とは何なのかを考え、祈り、そして求めるように私たちは招かれていると思います。

その信仰とは、第一に、イエスの言葉を信じる信仰です。主イエスが息子のところへ来てくだされば救われるという信仰ではなく、また主イエスに触っていただければ、あるいは触れれば癒されるという信仰ではありません。ただ、イエスの口から出る言葉を信じて従ってゆく信仰です。第二に、死を恐れず、同時に永遠の命を望み見る信仰です。そのような信仰へと成長させ、強めるために主イエスは50節で父親と私たちに「帰りなさい」と命じ、「あなたの息子は生きる」との救いの約束を与えられます。

「あなたの息子は生きているし、これからも生き続ける。わたしの言葉を信じ、平安のうちに息子のもとに帰りなさい。死を恐れる必要はない」と主イエスが言っておられるようです。この主イエスの言葉に対し、父親と私たちに2つのオプションがあります。

一つは、自分の従来の考えに固執して「イエスが一緒に来てくださるのでなければ帰らない」と言い張ること。もう一つは、自分の考えや望みを捨てて、主イエスの言葉に素直に従うこと。後者は、ある意味、信仰の冒険であり、「賭け」です。私たちの多くは前者のように、自分の思いを優先させ、それに固執します。それゆえに苦しみが増し加わります。

しかし、50節後半が重要であり、それが神の御心なのです。「その人(父親)はイエスの言われた言葉を信じて帰って行った」とあります。この信仰に生きる人を神は祝福されます。今あなたが苦しみ、痛み、悲しみの中を歩み、暗闇の中にあっても、主イエスを信じる時、あなたの心に光が灯り、あなたを慰め、励まし、癒し、恵みが豊かに注がれます。

主イエスと父親のお話はここで終わりません。51節から53節を読みましょう。イエスを信じ、主の言葉に聞き従ってゆく時に奇蹟が起るのです。神の愛とその愛の力が表れ、その愛を実体験するのです。ですから、救い主イエス・キリストを信じましょう。主の言葉を信じましょう。主の言葉を聞いて信じる者にどのような恵みがあるか、主イエスがヨハネによる福音書5章24節から25節で言っています。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。・・・、神の子の声を聞いた者は生きる。」と。