何事も祈りから始めよう

「何事も祈りから始めよう」 八月第一主日礼拝宣教 2021年8月1日

 ネヘミヤ記 1章1〜11節      牧師 河野信一郎

おはようございます。8月の初日の朝を皆さんとご一緒に礼拝をおささげできますことを神様に感謝いたします。暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。いつもオンラインでの礼拝へのご出席、お祈り、献金をありがとうございます。先週もオンライン礼拝の配信に対する感謝のお葉書やお電話やメールが届き、わたしたちはとても励まされています。

緊急事態宣言が8月31日まで延長されますので、残念ながら、8月のすべての礼拝はオンラインのみとなります。首都圏の新規感染陽性者数がこの三日間「過去最多」を更新しています。東京、神奈川、千葉、埼玉だけで7251人の陽性者数で、群馬県も過去最多とのことです。現時点では宣言解除がいつになるのか、まったく予測・検討もつかない状況ですので、今年の夏も不透明で長く暑い夏を過ごすことになります。19ヶ月間も長引くコロナパンデミックですが、この苦しみを通してわたしたちに気づいて欲しいことが神様にあると信じています。

イスラエルの民は、バビロンへ捕囚の民、奴隷として引いてゆかれ、そこに70年間置かれたのは、その民の心が新たにされ、イスラエルの神に立ち返り、真の神を礼拝し、その神に忠実に仕える民として変えられるために長い月日が必要でした。では、コロナパンデミックの時代を生かされている中で、神様はわたしたちに何を気づいて欲しいのでしょうか。どうしたらわたしたちは知ることができるのでしょうか。必要なことが少なくとも3つあります。

一つは、どんなことがあっても神様を信じること。二つ目は、イエス様を通して神様に祈ること。三つ目は、聖書を読みながら神様の時を待つということです。そのようなことを聞いて、皆さんの中にそれは非現実的、非合理的、非効率的、馬鹿馬鹿しいと思われる方もおられるかもしれません。では、どのように生きることが現実的で、合理的で、効率良く、賢明なのでしょうか。神様を信じて、救い主イエス・キリストの御名によって祈り、神様の救い・解放の時を待つことが、わたしたちに忍耐力を生み出し、平安と希望を与えてくれるのです。

わたしは三つ目に「聖書を読みながら待つ」と申しました。「聖書を読む」ということと「待つ」ということを無理やり抱き合わせたなとお感じになるかもしれませんが、日本人は待合室でよく雑誌や単行本を読みます。今はスマホに取って代わってしまいましたが、スマホは不必要な情報が多いですが、聖書は生きてゆくために必要な知恵で溢れています。その知恵の始まりは「神を畏れる」ということ、つまり、神様の存在を信じるということから始まります。もし信じて聞いてみようという心がなければ、神様の愛を理解することはできません。ですから、ほんの少しでも心を開いて、今朝神様の語りかけをお聞きになってみてください。今朝もご一緒に聖書に記されています神様の言葉に信仰の耳を傾けて行きたいと思います。

先日テレビを見ていましたら、ワクチン接種を受けられた80代後半の女性が若いレポーターから「ワクチン接種、怖くなかったですか、痛くなかったですか?」と質問され、「こんなことよりもっと大きな苦しみや痛みを経験してきたから、注射の一本など大したことはない」ときっぱり言い放っている場面を見て、こういう人が本当に強い人なのだと感じました。

わたしたちは皆、これから世界が、日本が、そしてわたしたちの暮らしがどうなってゆくのか予想もつかない、そういう不透明な時代に置かれています。人災だけでなく、自然災害も増えている中で、予測不可能なことがあまりにも多すぎる時代の中に置かれています。そういう不安や心配事の中でわたしたちの心にもう一つ引っかかるのは、わたしたちの信仰生活、教会生活のことです。いつ教会に戻れるのだろうか。パンデミックで離ればなれになってしまった方々、教会員の皆さんは教会に戻って来られるだろうか。教会に戻れない方々や離れた方々へどのように接し、仕えてゆくことができるだろうか。コロナ以前の教会生活は果たして取り戻せるのだろうか。教会の財政は大丈夫だろうか。コロナが収束したら、どのような教会生活が待っているのだろうかと将来のことを案じたりします。

この大久保教会ではありませんが、新型コロナウイルスに感染して亡くなられた教会員が複数おられる教会もあり、大きな痛みと悲しみの中にあられます。そのような苦しみの中でどのように前進することができるでしょうか。そのような教会が実際にあるとお聞きなって、皆さんの心はどのようなリアクションを取られるでしょうか。心が動かされることはないでしょうか。心が動かされない人は鈍感なのでしょうか。人のことを思いやる寛容さがない、心に余裕がないのでしょう。神様を信じ、絶えず祈り、聖書を読み、忍耐する人は、神様によって心が動かされ、「主よ、神様、小さなわたしに何ができますか、教えてください」と求めることができ、神様から示されたことを行う力が神様から与えられます。

いつも前置きが長いですが、今朝からご一緒にネヘミヤ記をシリーズで聴いてゆきます。先週の宣教ではそのプロローグをエズラ記1章から聞きましたので長くは語りませんが、主なる神様を捨てて偶像礼拝という罪に走ったイスラエルの民の心をリセットし、神様に立ち返らすために、バビロニア捕囚があったことを聞きました。捕囚から50年経過した頃から神様は異邦人であるペルシャ王キュロスの心を動かされ、イスラエルの民が捕囚から解放され、エルサレムに帰還することができるように導いてくださいました。そして神様によって心動かされたイスラエルの民が徐々にエルサレムに戻り、まず神様を礼拝する祭壇を築き、神殿を再建してゆくことがエズラ記に記されています。すべてを導かれたのは神様でありました。

わたしたちがこれから聴いてゆくネヘミヤ記は、第二次帰還民の指導者、行政長官として帰還したエズラが民たちと一緒に神殿を再建してから70年ほど経過し、第三次帰還民の指導者、総督としてエルサレムに帰って城壁を再建したネヘミヤとその民の歩みが記されています。つまり、神様が最初にペルシャのキュロス王の心を動かし、そして次にエズラとイスラエルの民たちの心を動かして神殿を再建させ、その後にネヘミヤとその民の心を動かしてエルサレムの城壁を再建するまでに140年ほどの年月が必要であったということです。140年です。

コロナパンデミック後の大久保教会の再建・再興が念頭にあるわたしたちは、そんなにも時間を費やすことはできません。しかし、驚くべきことに、ヘネミヤたちはエルサレムの城壁をたった52日間で完成させたのです。2ヶ月未満です。短期間でどうやってその大きなプロジェクトを完成することができたのか、皆さんも興味が湧くと思います。興味が湧かないでしょうか。52日間というのは本当に凄いことです。ネヘミヤたちが短期間でどうやって城壁を完成させたのかということを共に聴いてゆく中で、わたしたちもアフタコロナの教会の再興の業に励みたいと心から願う者、神様に心動かされる者とされて行きたいと願っています。それが今回シリーズでネヘミヤ記を共に聴いてゆく目的であり、目指したいゴールです。

さて、どういう結果になるでしょうか。とても楽しみです。不安がる必要はまったくありません。何故か、それはわたしたちの罪の代償を十字架に架かって死んですべて支払ってくださったイエス様をたった三日の後に甦らせられて永遠の命への道を開いてくださった主なる神様と復活された救い主イエス・キリストと聖霊がわたしたちといつも共にいてくださり、わたしたちの信仰を守り導いてくださるからです。わたしたちの肉体の死、つまりその未知の先には「永遠の命」という確かな祝福があるからです。わたしたちに必要なのは、わたしたちを救うために驚くべきことをしてくださる神様を信じ、イエス様の名によってこの良きお方に祈り、そのみ声、み言葉に聞き従ってゆくだけです。今は忍耐しつつ、従うのです。

さて、ネヘミヤという人ですが、その名前の意味は「神が慰めてくださった、(あるいは)慰めてくださる」という意味です。彼は捕囚の民の一人でしたが、バビロニアで懸命に学び、努力を重ね、誠実に生きてきたのでありましょう。1章11節を見ますと、ヘネミヤは王に仕える「献酌官」であったと記されています。つまり、王様の食事やお酒を準備する重要な役目を担っていたということで、王様の食事前に毒味をする者であり、王様から絶大な信頼を得ていた者であったということです。王の信頼を得ていたことについては来週聴きます。

さて、今日のキリスト教会においてネヘミヤ記を学ぶ時の第一義的目的として上げられるのは、ネヘミヤという人物からリーダーシップを学ぶということです。たった52日間でエルサレムの城壁を完成させたのですから、ネヘミヤのリーダーシップ、手腕は現代の教会においても通用するものがあり、彼のリーダーシップはトップクラスと言って良いと思います。

ネヘミヤのリーダーシップで長けていることが5つありますので、これからその5つを短くご紹介し、シリーズの中で注目してゆきたいと思っています。お手元にペンと紙があればメモをしていただければと思います。ネヘミヤのリーダーシップで長けている1つ目は、プロジェクトを完成するという強い「使命感」です。2つ目は、すべてのことには神様が関わってくださっているという「確信を持っている」ことです。3つ目は、「優先順位を明確に」し、人々にはっきり伝える能力です。4つ目は、プロジェクトを完成させるために「達成可能なゴールを段階的に設定」し、人々を励ます能力です。5つ目は、常に主なる神様に「祈った」、祈る人であったということです。ネヘミヤは何事にも祈る人でありました。

アメリカから来ている宣教師で仲の良い方に、アメリカの歴代大統領の中で「祈りの人」と言えば誰でしょうかと質問してみましたら、独立戦争を指揮し、アメリカ建国の父と呼ばれる初代大統領のジョージ・ワシントンか、南北戦争下で奴隷解放宣言をした第16代大統領のアブラハム・リンカーンであろうと答えました。とりわけリンカーンの聖書はとても汚れていたと言われています。この二人の大統領は国として最も苦しい時代に神様に信頼し、祈り、聖書に聴こうとした人であったと言われています。日本の大名・武将でクリスチャンであった高山右近、有馬晴信、大村純忠、黒田官兵衛で知られる黒田孝高などに興味が湧きます。

このネヘミヤ記は、ネヘミヤの祈りから始まり、彼がいかに祈りの人であったかが分かります。1節から読みましょう。「第二十年のキスレウの月、わたしが首都スサにいたときのことである。兄弟の一人ハナニが幾人かの人と連れ立ってユダから来たので、わたしは捕囚を免れて残っているユダの人々について、またエルサレムについて彼らに尋ねた。彼らはこう答えた。『捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。』これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた」とあります。希望をもって帰還した第一次と第二次の帰還者たちが今もなおエルサレムで苦しんでいる事実を知り、ネヘミヤは悲しみますが、神様に心を向け、主の憐れみを祈るのです。

続く5節から11節前半には、ネヘミヤの祈りが記されています。5節の「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ、主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ」は、神様への呼びかけの言葉です。次の6節前半の「耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください」は嘆願で、6節後半から7節の「あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟と法を守りませんでした」は、自分と民の罪の告白です。

8節から10節をご覧ください。「どうか、あなたの僕モーセにこう戒められたことを思い起こしてください。『もしも背くならば、お前たちを諸国の民の中に散らす。もしもわたしに立ち帰り、わたしの戒めを守り、それを行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、わたしは彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ場所に連れて来る。』彼らはあなたの僕、あなたの民です。あなたが大いなる力と強い御手をもって贖われた者です」は神様が約束してくださった再確認であり、その約束を思い出してほしいとの訴えです。

そして11節、「おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください」というのは、ネヘミヤの渾身のとりなしの祈りです。

コロナパンデミックの只中にあるわたしたちは、今朝この祈りへと招かれています。祈る人になりなさい、神様に常に祈りながら、何事も祈りから始める人になりなさいと励ましを受けています。イエス様を与えてくださるほどまでにわたしたちを愛してくださる神様はいつもわたしたちの祈りに耳を傾けてくださっています。わたしたちに必要なのは、憐れみの神様を信じること、祈ること、祈りの中で自分の罪を認め、主の憐れみと赦しを求めること、つまり心を開いてゆき、神様の力強い導きに従ってゆくと決心することです。そうすることで何が変わってゆくのでしょうか。まずわたしたちの心が神様の愛の力によって新しくされてゆきます。その新しい心に前進する力と勇気と知恵が、平安と希望が与えられてゆきます。