十字架を降りない主イエス

「十字架を降りない主イエス」 棕梠の日 四月第一主日礼拝 宣教 2023年4月2日

 マタイによる福音書 27章27〜56節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。2023年度が昨日から始まりましたが、新年度の最初の日曜日に、皆さんとこのように賛美と礼拝をおささげすることができて感謝です。昨日はとても暖かく、心地よい一日で感謝でした。花壇の水やりや掃き掃除をしている時、モンシロチョウが庭をゆらゆらと飛んでいるのを眺めながら、大久保教会と日本と世界の平和を短く祈りました。

 日本では、光熱費の高騰や食品の大幅な値上げで国民の生活が苦しいと連日報道されていて、わたしもそのように感じます。年金で生活をされている方々も、テレビのインタビューで「微々たる年金なのに全てが値上がりして生活が大変だ」とこぼしておられます。現実は大変厳しいと感じています。ニュースで世界情勢を見ますと、厳しい状況下や苦しみの極限に置かれている方々が大勢おられて、蝶が優雅に舞っているのを見ながら平和を祈るのはおこがましいことなのかとも思います。しかし、誰かが平和のために神様に祈らないと真の平和は来ないと思います。イエス様は、祈りを通してわたしたちを愛してくださいました。わたしたちも、救い主イエス・キリストの御名によって憐れみの神様に祈り求める時、隣人を愛する強い思い、寛容さを行動に移す瞬発力、行動力、持続力が与えられると思います。

 さて、祈りに関して、皆さんに嬉しい報告があります。先週のメッセージの中でもお祈りの要請をしましたが、26日にT教会でバプテスマを受けられた姉妹から27日の昼にメールが届き、神様のご臨在と人々の祝福の中でクリスチャンとしての歩みをスタートすることできましたとの感謝なご報告がありました。皆さんにもぜひ読んでいただきたいので、掲示板に掲示しました。どうぞお読みくださり、共に喜んでください。「大久保教会の礼拝に最初に迎えて頂いたので、大久保教会の皆さんに感謝しています」と綴られていました。月報の4月号にも掲載しますので、教会にまだ戻れない方々はそちらを後日お読みください。

 さて、今朝は、主イエス様がエルサレムへ迎えられた棕梠の日曜日です。イエス様のエルサレム入城の様子が記されたマタイによる福音書21章の御言葉を礼拝への招きの言葉として読みました。ユダヤの人々は、「ダビデの子、ホサナ、どうぞ我々を救ってください」と歓喜の声をあげてイエス様を迎えます。イエス様を大喜びで迎えた人々は、イエス様がユダヤの民全体をローマ帝国の支配から解放し、神の民としての自由を与えてくれる救い主・メシアであると信じて、イエス様に大きな期待を寄せていました。

 しかし、イエス様がエルサレムに来られた目的は他にありました。それはユダヤ人と異邦人、男性と女性、老人と若者、健康な者とそうでない者、富む者と貧しい者、すべての人々の罪を十字架上で贖い、救い、神様につなげるために、イエス様はご自分の命を捨てるためにエルサレムに来られました。人から仕えられる王ではなく、人に心から仕える僕として生きるために、わたしたちの罪を裁くためではなく、わたしたちの罪を赦すために、神様とわたしたちとの関係性を完全に断ち切るためではなく、再びつなげるために、罪によって滅びゆく者とされていたわたしたちを罪と死から救い出し、神の子として永遠に生かするために、わたしたちの罪を贖うためにイエス様はエルサレムに来られました。

 イエス・キリストが歩まれた人生は、自分の幸福のための人生ではなく、罪に生きるわたしたちを救うために死に、罪にあるわたしたちを清めるための人生であったと言えます。誰もが歩みたいと願うバラ色の道ではなく、誰もが避けたがる茨の道、苦痛に満ちた道を歩まれました。イエス様を迎えた人々は、イエス様にイスラエルの王として生き、ローマの支配から解放し、イスラエルに自由と平和と繁栄をもたらすことを望みました。

 しかし、神様はイエス様にすべての罪人のために死に、この地上に神の愛と完全なる救いをもたらすことを求めました。救い主イエス・キリストは、父なる神様の御心に従って忠実に生き、わたしたちのためにその命を十字架上で完全に捨ててくださいました。その神の子の誠実な死と愛による犠牲によって、わたしたちの罪は贖われ、この愛と恵みを信じる信仰によって救われ、永遠の命という祝福が約束されています。それがキリストの福音です。

 さて今週7日の19時から受苦日祈祷会をもちます。一週間の疲れがあると思いますが、一緒に聖書を読んで、賛美して、イエス様の死と向き合い、祈りましょう。出席が困難な方々のために、昨年同様、「祈りの暦」を準備しました。受難週を歩む手引きとして用いていただき、イエス様に集中して過ごしていただきたいと思います。この受難週の歩みが来たる日曜日のイースター礼拝につながってゆき、大きな喜びが与えられてゆくと信じています。

 今朝は、非常に長い聖書箇所を読みました。マタイによる福音書27章27節から56節です。いつもと違うので驚かれた方もおられるでしょうし、朗読が長すぎて睡魔が襲ったかもしれません。しかし、今回は不当な裁判によって死刑の判決を受けられた直後、イエス様がローマ兵たちによって侮辱され、暴行を受ける場面から、十字架上で贖いの死を遂げてくださる場面までの部分を敢えて読ませていただきました。「敢えて」、意図的にそうしました。

 そうでもしないと、イエス様のみ苦しみ、十字架の痛み、神の子の死の意味、その目的、その真意を十分に理解できないからと思ったからです。イエス様のみ苦しみ、激しい痛み、長時間にわたる忍耐、その惨い死は、罪に支配されているわたしたちを救い出すための犠牲であり、神様の愛を最大限に示す愛の行いであったのです。今回読みました箇所には、イエス様の最後の9時間が記録されています。その一つたりとも目をそらしてはならない、わたしのための、あなたのための、わたしたちのための愛による犠牲であったのです。

 今朝のメッセージの中心は、そのタイトルにもありますように、人々から嘲られても、挑発されても、誘惑されても、決して十字架を降りなかった、十字架の苦しみから逃げなかったイエス・キリストにわたしたちの目を注ぎ、イエス様に集中することです。

 イエス様は、全知全能の神のひとり子であり、その言葉と業には絶大な権威と力があり、その気になれば十字架を降りることもできたでしょう。御使いたちもイエス様の傍にいつもいましたから、イエス様が命じればイエス様を十字架からすぐに下ろすサポートもできたでしょう。しかし、イエス様は十字架を降りられなかった。敢えて降りなかった。なぜでしょうか。それは、イエス様が神様によって備えられたわたしたちの身代わりであったからです。わたしたち罪人の贖罪のために苦しみ、死ぬことが父なる神の御心であったからです。イエス様がわたしたちの代わりとなって太い釘で十字架に張り付けられ、尊い血潮を流し、わたしたちの罪と共に死んでくださらなければ、わたしたちの罪は赦されなかったからです。

 十字架に張り付けられたイエス様がどのような扱いを人々から受けたかを知りましょう。39節から44節までを読みますが、わたしたちも、その場にいたら、当時の人々と同じようなことをイエス様にしていたかも知れません。この箇所を読む中で、心の奥底にいつも隠れている自分とも向き合ってみましょう。そうしたら、自分の傲慢さ、心の硬くなさ、弱さ、罪深さを悔い改めるように導かれるかも知れません。大切なのは、イエス様が神様の御心から逃げなかったように、わたしたちも神様の愛から逃げないということです。

 「39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。「わたしは神の子だ」と言っていたのだから。』44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」とあります。

 人々はイエス様を罵り、侮辱し、挑発し、誘惑し、イエス様の心を挫(くじ)こうとします。マタイ4章に記されているイエス様が荒野で悪魔から誘惑を受けた時の事と重なります。わたしたちも、人々から罵られたり、侮辱されたり、挑発されたり、誘惑されないように最大限の努力をし、自分の心を守ろうとします。そのためか、イエス様を信じていることを隠して、息を潜めて、静かに生きようとしてしまうところがあるのではないでしょうか。つまり、この世に妥協して、この世に倣って生きてしまっている、そうも言えるかも知れません。そのために社会の考えや価値観に合わせて生きようとしたり、その中にどっぷり浸かって生きてしまって、イエス様を信じている事を言い表す事が今度は恥ずかしくなってしまう。そのような坩堝(るつぼ)の中に生きてしまっているのではないでしょうか。

 今朝の神様からの問いかけは、わたしたちがそのように生きるために、イエス様は十字架に架かって苦しまれ、その命を犠牲にしてくださったのかという事です。イエス様はわたしたちを罪と死から解放するために、わたしたちの身代わりとなって十字架上でその命を捨ててくださったのに、そのイエス様の愛によって罪贖われた者が自分の命を守るために、自分だけの幸せのためにクリスチャンであることを隠し、社会の中で身を潜めて生きていても本当に良いのだろうか、そのような生き方を神様はどのように受け止められるのだろうかと自問することが大切であると思います。イエス様が十字架を降りられなかったのはわたしのため、わたしたちの救いのためなのです。それ以外に理由も、動機も、目的もないのです。

 45節から46節を読みます。「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」とあります。ここにわたしたちが注目すべき点が二つあります。一つは、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」ということ。もう一つは「三時ごろ、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』とイエスが大声で叫ばれた」ということです。

 普通、昼の12時から15時までは日中でもっとも明るい時間帯です。その時間帯に「全地は暗くなった」というのはどういう意味でしょうか。ここで大切なのは、どのようにして暗くなったかではなく、なぜ暗くなったのかということです。全地を暗くしたのは自然界の演出ではなく、天にいます神様です。では、なぜ神様は全地を暗くしたのでしょうか。

 当時の文献によりますと、地が暗くなること、暗闇は王や偉大な者の死を表したそうです。つまり、イエス様が十字架に架けられて死を迎えるときに全地が闇で覆われたのは、イエス様こそが真の王、すべての民の救い主であったことを表していたと考えられます。また、旧約聖書の出エジプト記10:21-23、イザヤ書13:9-10、ヨエル書2:2,10節、アモス書5:20を読みますと、暗闇は「神の裁きの時」を表していることが分かります。つまり、わたしたちに対する罪の裁きは、イエス様の死によって、贖われ、帳消しにされたことを意味します。

 しかし、わたしはもう一つ、こう考えます。神様が全地を暗闇で覆われたのは、ご自分の愛する子が十字架に架けられて苦しみの極みを味わっているのを見るのに耐えられなかったからだと思うのです。罪にある者たちのために苦しみ、傷んでいる姿を見るのがとても辛かったから。全地が闇で包まれたのは、神様の悲しみを表すためであったと思います。教会の屋根と正面壁が改修されるために、足場が組まれて、わたしが大切にしていた花壇はめちゃくちゃにされて、目も当てられない悲惨な状態になり、わたしは大いに悲しみました。花壇は犠牲になりましたが、教会はきれいになりました。わたしたち罪人の罪が帳消しにされて救われるために、神の御子が十字架に架けられて犠牲にならなければなりませんでした。

 「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」とあります。イエス様が十字架上で発せられた7つの言葉の中で最も衝撃的な言葉です。イエス様はご自分のお父様を「わが神」と呼ばわりました。何故でしょうか。後半の「なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉に答えがあります。「見捨てる」というギリシャ語には「受け付けない」、「拒絶する」という意味があります。つまり、イエス様はわたしたちの罪を負われたので、神様との親子関係が断ち切られた状態に置かれたということです。

 今までずっと親密な関係の中にあったのに、わたしたちの罪を負うことによって神様から切り離されたので、イエス様は大声で「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。しかし、イエス様は理由を知っておられました。しかし、それでもそう叫ばれたのは耐え難い苦しみを味わっておられたからです。その耐え難い苦しみは誰のためであったでしょうか。わたしたちの救いのためであったのです。イエス様の死は、わたしたちを罪から救うための死であり、神様の御心を行い、わたしたちを愛し抜かれるイエス様の愛の表れでありました。その愛を感じながら、この週を過ごしてまいりましょう。