塵の上に立たれる贖い主

「塵の上に立たれる贖い主」   十月第二主日礼拝 宣教要旨 2017年10月8日

  ヨブ記 19章25〜26節        牧師 河野信一郎

 アメリカの現地時間、10月1日、ネバダ州ラスベガスでアメリカ史上最悪の無差別銃乱射事件が起こり、58人の方々が亡くなられました。このことを受けて、13歳から32歳までの19年間を過ごしたアメリカの暗い闇の部分について分かち合いたいと思いました。2016年のフロリダ銃乱射事件からまだ一年も経っていません。

 今回の銃乱射事件の最大の謎は、犯人の動機がはっきりしないことです。あるメディアは、犯人はアメリカの歴史に名を残したかったからだと言いましたが、それが本当の動機であれば、愛する家族を失った遺族や友を失った人たちはいたたまれないでしょう。怒りを一体どこへ持っていったら良いか分からない状態に置かれます。FBIや警察も血眼になって動機を探していますが、最近の報道では犯人の精神状態が悪化していたとのことです。

 1966年にテキサス大学オースティン校で46人が無差別に撃たれ、16名が死亡するという事件を皮切りに、アメリカ全土の学校や大学内での発砲事件数は、半世紀で120倍となっています。そしてこの学校での発砲事件の多くに共通することが3つあります。1)犯人は男性であること。2)犯人は親が所有する銃を使用していること。あるケースでは、親が買い与えた銃で犯行にいたったものがあります。3)犯人は学校でいじめを受け、友達がいない、つまり孤独であったということが挙げられます。

 アメリカでは、男性・男子に対するエモーショナルヘルス、つまり感情の部分をケアすることが軽視されているところがあります。つまり、情緒の部分で、ある一部分だけが強調され、他の部分に細やかな配慮とケアが払われないということです。アメリカでは、幼い頃から、「Be a Man」、「男の中でも強い男になれ」となれと言われます。ですから、ヒーロー映画がアメリカでは多いのです。強くなって家族を守る、国を守るということが男の仕事、使命であると教え込まれますから、身体の小さい人や虚弱な人はいじめの対象になります。勉強が優秀であっても、弱々しければ、からかわれたり、いじめられ、孤立してしまいます。学校での発砲事件の犯人の多くの傾向は、そういう中で情緒不安定になり、取り返しのつかない事件を起こし、そして最後に自分の命を絶ってしまうのです。

 ラスベガス事件の犯人は、会計士で経済的にも豊かな人でしたが、コミュニケーション能力に乏しい孤独な人、親友というか、腹を割ってなんでも話せる友人がいなかった人、とても寂しい人であったようです。日本は、アメリカのような銃社会ではありませんから発砲事件が起こることはまず有り得ませんが、もし日本が銃社会になれば、子どもや青年たち、大人たちの手の届くところに拳銃があれば、アメリカと同じような惨劇が起こることでしょう。何故ならば、この日本にも、友人や家族がいない孤独な人たち、暗闇の中に生きる人は多く存在するからです。私たちはそのことをいつも心に覚えなければならないと思います。

 さて、東の国一番の大富豪で、ヨブという人がいました。彼は、無垢な正しい人で、神を畏れ敬い、一斎の悪を避けて生きる人で、神からたくさんの祝福を受けていましたが、そのようなヨブのことが気に入らないサタンがいました。サタンは、神に「ヨブが利益もないのに、あなたを敬うでしょうか。この辺で一つ御手を伸ばして、彼の財産に触れてご覧なさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」と言って、ヨブに試練を与えて彼の神に対する信仰を試してみてはと神に提案します。ヨブに対して絶対的な信頼を持っていた神は、それを許可し、サタンはヨブから7人の息子と3人娘、多くの使用人、数えきれないほどの家畜の命を奪い去りました。しかし、それでもヨブは神を非難することなく、罪を犯しませんでした。

 サタンは再度ヨブを試みることを神に提案し、頭から足まで酷い皮膚病で覆い、言葉では言い尽くせないほどの苦痛をヨブの心体に与えます。ヨブが灰の中に座り込み、素焼きのかけらで身体中をかきむしる姿を観かねた妻が、「どこまであなたは無垢でいるのですか、神を呪って、死ぬほうがましでしょう」とまで言うのですが、ヨブは「妻よ、お前まで愚かなことを言うのか。私たちはこれまで神から幸福をいただいて来たのだから、不幸をいただこうではないか」と言い、唇をもって神を呪い、罪を犯すことをしませんでした。

 ヨブを心配した友たちも周辺国から見舞いに来てくれましたが、ヨブがあまりにも悲惨で過酷な状態のなかにいるのを見ると、彼に話しかけることさえできませんでした。自分の命と信仰と妻以外、全てを失ったヨブがいます。そのような彼に寄り添おうとした友たちの心は素晴らしいと思いますが、その後にヨブの心の内にある嘆き苦しみ、彼の本心を聞いた時、彼らはヨブを批判し、非難し始めます。ある友は、「あなたの子たちが死んだのは、彼らが神に対して過ちを犯したからこそ、彼らをその罪の手に委ねられたのだ」(8:4)と言います。

 彼らの言葉に耐えきれなくなったヨブは、「どこまであなたたちは私の魂を苦しめ。言葉を持って私を打ち砕くのか。侮辱はもう十分だ。私を虐げて恥ずかしくないのか。私が過ちを犯したならば、その過ちは私個人に止まるのみだ。ところが、あなたたちは私の受けている辱め誇張して、論難しようとする」と言います。実際よりも大げさに表現し、ヨブがいかに正しくないかを論じて非難ばかりすると言います。「愛しい息子や娘たちをすべて失い、使用人や家畜などの全財産を失い、与えられたのは大きな悲しみとこの重い皮膚病と「自分は生まれるべきでなかった」という後悔の念だけ。こんなにも苦痛を味わっているのに、何故それ以上の苦痛をあなた方は私に味わせるのか」と訴えます。日本のマスメディアが、犯罪者や社会的に間違いを犯した人に対して非常に非寛容であり、非難だけし、とことん追い詰める構造と同じです。被害者に対しても、配慮と慈しむ心を欠いた行動を平気でします。

 ヨブ記19章には、ヨブの痛みと苦しみが記されています。6節では、「私が何か間違ったことをしたのではなく、主なる神が私に非道と思えるような振る舞いをし、私の周囲に苦しみの砦を巡らしていることを知りなさい」と3人の友人たちに言っています。「主なる神がサタンを通して私にこのようなことをするので、私が『これは不当だ』と叫んでも答えはなく、救いを求めても正しい裁きがない」と言います。

 6節から20節には、自分の苦しみの背後には神がおられ、すべて神が許可して行われているとヨブは言っています。しかし、そういう中で友たちに対して、「どうか私を憐れんでくれ、私はあなたたちの友ではないか。もう神と一緒になって私を追い詰めることはやめてくれ」と叫びます。孤独なヨブは、自分を非難する友ではなく、自分を憐れに思って心を寄せてくれる友を心から求めていました。真の親友を求めていたのだと思います。しかしながら、人間の弱さを知っているヨブは、本当に自分を憐れみ、苦しみに寄り添い、苦悩から救い出してくださる方がおられるかを知っていて、その方に叫ぶのです。

 「私は知っている(信じている)。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう」と信仰を表します。たとえ体がボロボロになっても、私は自分の目で私の神を仰ぎ見ることができるとヨブは信じています。信仰の目とか、天国でとかでなく、この地上で、生きてゆく中で、自分の肉眼で主を仰ぎ見ることができる、神がそのようにしてくださると確信しています。主なる神が塵の上にいる自分に寄り添うために共に立ってくださり、自分の苦しみと痛みと恥と孤独感から贖い出して救ってくださると信じています。これが主の主権を信じるヨブの信仰なのです。この信仰を抱きつつ歩むヨブに神は大いなる祝福を再度お与えになられます。

 私たちにも神に対する心の叫びがあると思います。他言できない苦しみ、痛み、傷、負い目、恥と思っていることなどがあります。しかし、そのような塵の上にしゃがみ込み、苦しみ悶え、心の中で絶叫する私たちに目を注いでくださり、主なる神はイエス・キリストという救い主、罪から救い出す贖い主をお遣わしくださいました。この救い主を信じ、日々見上げつつ歩んでゆくように招かれています。この救い主がいつも共にいてくださいますから、私たちは大丈夫になるのであり、大丈夫なのです。

 しかし、ある人は「あのラスベガスの事件で亡くなられた犠牲者たちは、残された家族たちはどうなるのか」と思うでしょう。確かにその通りです。しかし、不思議というか、驚くべきことに、この「塵」と訳されているヘブル語は、「墓」という意味のある言葉です。つまり、主イエス・キリストは、墓の中に収められた人たち、そして墓の前で泣き崩れる遺族たちと共に立ってくださり、その一人一人に寄り添い、慰めを与え、慰めを与え、救いを与えてくださるということです。主の憐れみがすべての人に与えられているのです。この主なる神とイエス・キリストの憐れみを信じて、生きてゆきましょう。主イエスの手をしっかり握りしめて、塵の中から起き上がり、祝福の中を主の伴いとお守りとお導きの中で歩んでゆきましょう。