心を尽くし、あなたの神、主を尋ね求めよ

宣教「心を尽くし、あなたの神、主を尋たずね求めよ」大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫  2022/11/20

 

「はじめに」

皆様にとりまして、最近の大久保教会の礼拝では、旧約聖書を読むことが多いなとお感じになるのではないでしょうか。河野牧師はこの10月、11月はヨナ書からの宣教ですし、わたしも、教会学校のテキストが旧約聖書エズラ記とネヘミヤ記ですので、毎月、教会学校に合わせているため、旧約聖書からということになっています。

 

キリスト教は新約聖書だけでよいのではないか? そうした考えが主流の時代もありました。そうであってもキリスト教は、いつも、新約聖書と旧約聖書、二つの書を「聖書」としてを読むことに戻ってきました。

その一番の理由は何でしょうか。

何よりも主イエスご自身が、ユダヤ教徒として、正典である旧約聖書によって養われ、成長された方だからです。しかも、主イエスの全ての宣教活動は、旧約聖書の言葉を拠り所としてなされました。

そして最も重要なことは、主イエスが旧約聖書の言葉を口にしながら、十字架に向かわれたことを忘れるわけにはいきません(詩編22:2)。

わたしたちは主に、礼拝の宣教を通して、旧約聖書の御言葉の中にキリストのお姿が現れるのを経験します。ある時ははっきりとしていますが、そうでないこともあります。

それでも旧約聖書は、ユダヤ人として生まれ、神の子と呼ばれ、十字架の死と、その死からの復活を通して、この世の救い主となったイエス・キリストの、心と想いを、わたしたちに教えてくれる書物なのです。

わたしたちは、この朝与えられています旧約聖書のみ言葉によって、わたしたちの生活に関わる、生きた力を与えていただきたいと願っています。

 

「エズラ記とネヘミヤ記」

エズラ記とネヘミヤ記、この二つの書には、大国バビロニアによって徹底的に破壊され、長い期間放置されていた首都エルサレムの状況と、その復興を委ねられた人たちの姿が描かれています。復興のために彼らは何を置いても、真っ先に取り組んだのが、信仰の中心である神殿を立て直し、人々の信仰を呼び覚ましていくことでした。ユダヤの人たちは、この二つの書と、書かれた時代の取り組みによって、ユダヤ教の基礎が固まったとして、愛読しているという事です。

 

エズラ記とネヘミヤ記は、そのように、ユダヤ人には重んじられていますが、一般的には、聖書全巻の中で、読まれることの少ない文書の一つです。

しかし、つぎのようなエピソードもあります。

激しい第二次世界大戦の最中、中立国として無傷であったスイスでのことですが、1944年秋、キリスト教改革派教会の牧師たちが一堂に集まり、「戦後の復興のために、教会は何ができるだろうか」と話し合う会議が持たれました。第二次世界大戦が、世界規模で終わったのは1945年夏のことですが、その前年に、すでにそのような会議が開かれていたのです。

その議場で提案され、共有した一つのことですが、すべての教会で、日を決めて一斉にネヘミヤ記からの説教をしようという事でした。なぜネヘミヤ記なのか。それは、何度も失敗や挫折を繰り返す、そのような時代や場面でこそ読まれるべきだという事でした。その説教の日は、1944年12月31日でした。

会議で決められた説教の回数は、その日1回だけでしたが、スイス・バーゼルの牧師、ヴァルター・リュティーは自分の判断で、ネヘミヤ記全章(13章)を、13回で説教するようにと導かれ、これを実行しました。

リュティーは説教で次のように強調していきました。

 “神はおられる”、“このような時にこそ神を仰ごう”、“挫くじけることなく、わたしたちは神に用いていただこう”と、人々の信仰を励ましていきました。

バーゼルの礼拝堂で行ったリュティーの、月に二回の説教は、世界大戦の終盤、1944年12月31日に始まりました。半年後、翌年6月に説教を終えますとすぐ、1945年7月に『預言者ネヘミヤ・神の建設者たち』と題し、一冊の書物として出版されました。やがて、原著のドイツ語からフランス語に、そして英語にと翻訳されました。

そして、実に40年後、1987年になってようやく日本語版の出版となり、現在も出版が続いています。

 

「ネヘミヤの人物像と働き」

今朝はネヘミヤ記1章を読んで頂きましたが、第一章を中心に、第十三章までの出来事を短くお話します。

 

ある時、ネヘミヤの親族ハナニの一行が、ユダヤからペルシアの首都スサにある王宮に、ネヘミヤを訪ねてやってきました。

彼らの話では、『エルサレムは今、とてもみじめな状況にある。城壁は崩れ、町の門は焼かれたままである。

繰り返し破壊され、相変わらず無防備であり、盗賊が出入りするなど、物騒な状況にあり、とても恥ずかしい。

 

その話を聞いた時、ネヘミヤの心は大きく動揺しました。

「座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた」(1:4)のでした。

ネヘミヤにとって、140年前のバビロン捕囚の祖国も、首都エルサレムも、すでに関りはなくなっていました。何世代も前の出来事なのです。

今の王宮での生活は恵まれており、エルサレムに残された人々とは、比べようもなく、幸いな日々を送っているのです。今、敢えて自分はユダヤ人だと周囲に知らせるより、隠してこのままにしておく方が良いはずでした。

 

しかしネヘミヤは、ハナニ一行の話を聞いた時、“自分はユダヤ人なのだ”との思いに立ち帰りました。今のような立場で、安らかにおだやかに暮らしていていいのだろうか。「これでいいのだろうか」と苦しみました。

やがて、先祖の墓があるエルサレムに遣つかわしてほしいとの想いが迫ってきましたが、それを、ペルシア王に願うことが出来ず、四か月の苦しい祈りの時を過ごしていきました。そうした心の苦しみは顔に現れて、仕えている王に伝わりました。ネヘミヤの願いは、王に伝わり、エルサレム派遣の許しと、特別な援助を得ることが出来ました。

ネヘミヤは、強い決心を持ってエルサレムに向かい、しつこい敵対者の妨害に悩まされながらも、14年かけて神殿を再建し、城壁の修復を終えました。

ところが、一定の目的を終えたネヘミヤが、一時期エルサレムを離れ、ペルシヤに戻っていますと、これを待っていたかのように、すぐに敵対者が戻ってきて、ネヘミヤが改革してきたことを元に戻そうと画策を始めました。エルサレムの人々もそれに同調し、再建されて整ってきた生活を緩ゆるめてしまいます。

再びエルサレムに戻ったネヘミヤは、この事態に落胆しますが、厳しい戒めを人々に課し、これまでのように、忍耐強く指導し、改革を続けました。

人間とは、基本的に弱い存在であり、自分の安全を優先して信仰を離れ、楽な道を選んでしまうのです。ネヘミヤ記は、ハッピイエンド(happy ending)ではなく、失敗や挫折を繰り返して展開し、わたしたちの悔い改めを待ち、悔い改めを促してくださる神の働きを伝えています。

主人公のネヘミヤは、捕囚の民ユダヤ人の子孫ですが、エズラのような祭司や学者ではなく、一人の信徒に過ぎません。しかし、努力してペルシア王の献酌官にまで上り詰めていった人物です。

「献酌官」この役目は、王家の食事を守る「毒見役」であり、厚い信頼を得た政府高官であったこという事です。

ネヘミヤは、神によって示された働き、エルサレム復興のため、政府高官の地位を捨てました(1:11)。復興の総指揮官・総督としての報酬を受けることを断りました(5:18)。そのうえで、熱情を持って「エルサレム復興」という、神の働きを実行した人物であっということが分かります。

ネヘミヤが聞いた、主なる神の言葉は、「今、生かされているその場所で、あなたの神、主を尋たずね求めよ」との御声でした。それは申命記の言葉として聞いて来た言葉だったのです。その言葉はネヘミヤの祈りとなり、1章7節以下に祈られています。

 

「ネヘミヤの祈り」

ネヘミヤ記は、その第1章の大半がネヘミヤの祈りです。そのなかでネヘミヤは、親族ハナニの言葉を聞いた後、『イスラエルの人々の罪を告白します。…わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。』(1:6)と祈っています。これは、どのような意味を持つのでしょうか。

 

1:5 わたしはこう祈った。「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ、主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ。

1:6 耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。

1:7 あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟と法を守りませんでした。

ネヘミヤが、エルサレムを忘れていたということは、主なる神を忘れていたことに他なりません。

王宮で、優雅に暮らして来たネヘミヤは、ユダヤからの親族の訪問を受け、このとき初めて、わたしも「主なる神を思わなかった」という、自らの罪に気づいて悔い改め、「わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました」と告白したのです。1章8節と9節のネヘミヤの告白と祈りは、実は、招詞として読んで頂いた申命記4章27~29節(p287)のみ言葉そのものなのです。

 

「今、生かされている、その場所で、あなたの神、主を尋たずね求めよ」

今朝のみ言葉は、「今、生かされている、その所で、あなたの神、主を尋ね求めよ」という信仰の姿勢を伝えています。

招詞でお読みいただいた言葉は、申命記4章の言葉です。(招詞:申命記4章27~29節)

 

4:27 主はあなたたちを諸国の民の間に散らされ、主に追いやられて、国々で生き残る者はわずかにすぎないであろう。

4:28 あなたたちはそこで、人間の手の業である、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅かぐこともできない木や石の神々に仕えるであろう。

4:29 しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。

 

ユダヤ人は現代に至るまで、世界に散らされた民です。

申命記4章29節に「今、生かされている、その所から主を尋ひろ求めよ」とありました。

この申命記の言葉は、ネヘミヤの時代から遡さかのぼること900年前に、主なる神がモーセに告げた戒めであり、約束でもあります。ネヘミヤも、「散らされたその所から、主を尋ね求めなければならない。」と、これまでも聞かされてきたことでしょう。しかしこの言葉が自分のことになったのは、エルサレムから来たユダヤ人の訪問を受けたときのことでした。

わたしたちは、毎週のように、み言葉の訪問を受けているのではないでしょうか。その私たちは今、どのような場所に立っているのでしょうか。

 

ご紹介したリュティーの説教の中に次のようなエピソードがありました。

スイスは御存知のように中立国です。そのため第二次世界大戦の戦禍を免れ、周囲の国々とは格段に違う平穏な生活を送ることが出来ていました。しかしその中で、一つの大きな過ちを犯していたことに、心ある人たちは気付いていました。それは、中立国だと言いながら、他国が戦争をしている最中に、武器を製造し、外国に売るということをしていたのです。

「これでよいのか」。「わたしたちは中立国であると、胸を張っていながらこれでよいのか。」と、いう反省が起きてきて、大きな議論となり、やがて武器輸出を止めたということです。

日本にも、「これでよいのか」という議論が起きています。憲法で戦争をしない、戦わないと宣言しました。そうでありながら、武力を次第に強め、しかも、最近になって解釈を大きく変えて、防衛のため相手を先に攻撃力できる、その力を強めようとさえ計画されています。日本は世界の中で、今、どのような場所に立っているのでしょうか。「これでよいのか」と問うことが、今まさに必要ではないでしょうか。

 

今、世界がどのような方向に向かっていくのか、分からなくなってきています。この事態がどれほど続くのかも分かりません。しかし、わたしたちには次のことが分かっています。キリストは再び来られ、キリストを信じる者とともにこの世界を目的地へ導いてくださいます。

「心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」(申命記4:29)。この約束を信じましょう。

主イエスは今、わたしたちと共に歩んでくださっています。主イエスと共に、この新しい一週を歩ませて頂きましょう。

【祈り】