忍耐と慰めと希望の源

「忍耐と慰めと希望の源」 一月第四主日礼拝 宣教 2022年1月23日

 ローマの信徒への手紙 15章4b〜6節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。神様の憐れみとお守りの中、今朝も神様の愛のうちに生かされ、礼拝者としてこの礼拝に招かれていることを主に感謝いたします。

昨夜7時半頃、当教会員で、感染症の専門医であられる兄弟からメールをいただき、今朝のこの礼拝からオンラインのみにすることが望ましいというアドバイスをいただき、執事会はその貴重なアドバイスを重く受け止め、早速オンラインに切り替えることとしました。

皆さんの中には、礼拝堂に集えないことを残念に感じておられると思いますが、感染症の専門医であられる有能な兄弟が日々の病院勤の疲れがある中、それを押して時間を割いてでも長文の状況説明のメールをくださるのですから、感染リスクの高い非常に深刻な状態であることは察しがつきます。昨日の東京の新規感染数が1万1千人を優に超えてしまい、専門家の方々の予測をはるかに超える感染力の強さと急拡大のスピード、猛威に驚きを隠せません。

3度目のまん延防止等重点措置が実施されることは、誰もが予測し、ある程度の心づもりはしていたと思います。しかし、実際に実施されますと、「あぁ、またかぁ。また我慢の暮らしが始まったのかぁ」という気持ちにさせられ、気持ちが落ち込みます。落ち込むというよりも、心が疲弊しているので、立ち上がる力がなかなか沸き起こってこないというのが現状です。

飲食店を営む方が「とりあえず一ヶ月はなんとか頑張りますが、さらなる延長だけは勘弁してください」とテレビのインタビューで答えておられましたが、「これ以上はもうたまらない」というのがわたしたちの正直な気持ちであると思います。この2年間、苦しい状況に置かれて来た方々の心労はいかばかりでしょうか。飲食業、観光業など、大変な方は大勢おられる訳で、わたしたちの思いもつかないところで苦闘されている方々がいらっしゃると思います。

しかし、これまでずっと「たまらない」と嘆いておられるのは、この間ずっと医療の最前線に立ち続けてくださった方々、今は院内感染やスタッフにも濃厚接触者が出て、人的にも逼迫している現場で働いておられる医療従事者の方々であると思います。わたしたちの命と生活を守ってきてくださっている方々とその家族のために祈る者とされてゆきたいと願います。

デルタ株よりも重症化するリスク、死亡するリスクがはるかに低いオミクロン株を甘く見て、大勢の人々が街を歩いていますが、ワクチン接種していても感染する人もおられますし、幼い子どもたちの感染拡大や高齢者への感染拡大も報道されています。基礎疾患をお持ちの方々の感染リスクの高さになんら変わりはありません。ですので、お互いに気をつけて、他者を思いやる気持ちを持って、もうしばらく忍耐と祈りの生活を送ってゆきたいと思います。

さて、今朝は3度目のまん延防止等重点措置の実施期間に入り、気持ちが落ち込んでいるわたしたちに神様がなんと語りかけてくださっているかをローマの信徒への手紙の15章から聴いてゆきたいと願っていますが、今朝の宣教の中心的テーマは「励まし」です。もっと正確に言いますならば、コロナの苦しみの中で、互いに「励まし合う」ということになります。

しかし、今朝の宣教のタイトル、「忍耐と慰めと希望の源」の中には「励まし」という文字はどこにもありません。しかし、神様の愛と励ましがなければ、わたしたちはどんなに頑張っても忍耐することも、慰められることも、希望を持つこともできないのです。イエス・キリストを通して、主イエス様の励ましの言葉を通してでなければ、わたしたちに今この時に最も必要な励ましを神様から受けることはできないのです。励ましの源も神様なのです。

さて、このローマの信徒への手紙は、キリスト者としてローマの地に生きるユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンたちに対して使徒パウロから書き送られたものですが、パウロにはローマのクリスチャンたちとの面識はほぼありませんでした。しかし、当時の世界の首都・世界の中心と言われていたローマにキリスト教会、イエス・キリストを救い主と信じて従う群れ、信仰共同体があることは聞いて知っていましたので、ずっとローマを訪れたいと願っていました。けれども、そのチャンスはなかなか訪れませんでした。

ローマを一度も訪れたことのない人が、その地で教会を開始したということは考えられません。おそらく、ローマからエルサレムを訪れていた人々の中に使徒ペテロたちが語るキリストの福音をペンテコステの時に聞いて回心した人々がいて、そういう人々がローマに帰って家の教会から始めたのかも知れません。また、2回にわたるパウロの伝道旅行の中で信仰へと導かれた人々、ローマ帝国の支配下にあった小アジアやマケドニア地方に生きていたクリスチャンたちその後にローマに移住して、現地のクリスチャンたちと一緒になって教会を建て上げつつあったのかも知れません。この手紙の最後の16章を読みますと、ローマにはすでに使徒パウロの知人が大勢いたということが分かりますので、そういう神様の不思議だけれども、力強いお導きがあったと考えるとすべてに納得がゆくと思います。

そういうこともあって、使徒パウロは、ずっと以前からローマを訪問することを切望していましたようです。しかし、様々なトラブルや事情がこれまでにあって、ローマにゆくことができなかったようです。何故そこまでローマを訪れたかったのか。最大の理由は、ローマを拠点にしてイスパニア、つまり現在のスペインまで福音宣教を進めてゆきたいと願っていたからだと思いますが、もう一つの目的がローマ書の1章11節と12節に記されています。

「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」とパウロは述べています。パウロは、ローマの地に生きるクリスチャンたち、ユダヤ系クリスチャンと異邦人のクリスチャンの間に、様々な課題や問題があり、教会内で分裂が起き始めていることを聞いていましたので、なんとか分裂することなく、キリスト・イエスにつながり続け、神様の求めておられる御霊の実を結んで欲しいと願っていたのです。ですから、パウロはここでローマのクリスチャンたちの「力になりたい。信仰によって励まし合いたい」とローマを訪問する目的を書き記しています。

わたしたちにもそれぞれ親しい家族や友人や知人がいると思います。しかし、今、このコロナパンデミックの中で、そのような大切な方々に直に会うことができない、あるいは制限されている中で、互いに顔と顔を合わせることがどんなに大切なこと、貴重なことであるか、わたしたちを励ますことであるのかを痛いほど経験しています。そうではないでしょうか。

子どもや孫の成長を自由に見ることができない。学校の授業もすべてオンライン。仕事も全てリモート。家族や友達と旅行に出かけたり、楽しい時間を過ごすことがほとんどできない、そういう不自由さの中にわたしたちはずっと置かれています。我慢の連続で、苦しいです。

またこの期間、わたしたちは人と会う時はずっとマスクをしていますので、この2年間で出会った人たちのお顔はマスクから上の半分しか分からない状態にいます。本当のお顔を見たことがない。実際の顔と顔を合わせてコミュニケーションができない。そういう奇妙な生活をわたしたちは送っているわけです。しかし、コロナが収束してマスクが必要でなくなった時、お顔の全容を初めて見ることができるという楽しみを今から与えられていると思います。

しかし、最も辛くて心が締め付けられるのは、大切な人が入院しても病院にお見舞いに行けない、お世話になった方がお亡くなりになられても葬儀は近親者のみになり、葬儀に列席して最後のお別れができないということです。特にご遺族の方々は、故人が生前から親しかった多くの友人や知人の方々に見送られた葬儀ができたらよかった感じ、本当に悲しく寂しい思いをされていると思います。これは本当に辛いと思います。大きな悲しみを感じます。顔と顔を合わせて行くことがどんなに大切なことであるのかを痛みながら体験しています。

しかし、不要と思えるコミュニケーションも確かにあります。例えば、仕事がリモートになって出社しなくなったので、上司や同僚との飲みニュケーションを取らなくて良くなってストレスを感じなくなった、心が軽くなったという人たち、人間関係に苦悩していた人たちが苦しみから解放されたということも聞いています。しかし、オンライン会議ほどの苦痛はありません。今日も午後に地区宣教主事の働きでオンラインのミーティングがあるのですが、教会を訪問できないのは本当に残念です。来週の日曜日の午後には、ある教会の牧師就任式・按手礼式があるのですが、それもオンラインのみとなってしまい、とても残念に思います。

使徒パウロは、ローマにいるクリスチャンたちと出会って、互いに喜びに満たされ、励まし合い、慰め合い、共に祈る時をずっと心待ちにしていました。その気持ち、わたしたちにはよく理解できるのではないでしょうか。教会に帰って、教会の家族と一緒に礼拝をささげ、共に時間を過ごすこと、それは神様からの祝福・恵みのほか、何ものでもありません。

しかし、ある人たちにとっては「またしばらく」、ある人たちにとっては「まだもうしばらく」、教会に帰ることができなくなりました。とても辛いことです。しかし、この苦しみをもうしばらくの間、耐える力を神様が与えてくださいます。この期間、寂しさや辛さを感じることもありますが、神様から慰めが与えられ、希望が与えられ続けます。

では、どのように神様から忍耐と慰めと希望が与えられるのでしょうか。答えは、聖書です。4節後半に、「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」と使徒パウロは断言しています。「聖書から」、これが重要です。次に重要なのは、自ら求めるということです。新共同訳聖書ではわたしたちは忍耐と慰めを「学んで」と訳されていますが、他の聖書訳では「与える・与えられる」と訳されていて、ギリシャ語の原典を読みますと「得られるであろう」という意味の言葉が使用されています。

つまり、わたしたち一人一人が聖書を実際に自分で読み、聞き従わなければ、神様から忍耐する力も、慰めも、希望も何も与えられない、得られないということです。人任せには決してできないということです。聖書は神様の言葉です。その言葉に聞き続ける必要があります。聖書を読まない人は、帆のない舟に乗って嵐の大海原を漂っているだけで希望がない時間を過ごし、いつも不安と恐れしかない、喜びも感動も何もない日々を過ごすことになります。

しかし、わたしたちがそのように生きるために、神様はわたしたちを造り、命を与え、生かしてくださっているのではありません。神様の御心はまったく違う方向、逆の方向にあります。ですので、その苦しみから、心の嵐から救い出し、神様の方へ向かってわたしたちが歩むために、神様はイエス様をこの地上に救い主としてお遣わしくださったのです。このイエス様が神様から与えられている命、人生、時間をどのように過ごすことがベストなのか、神様の思いと一致したものであるのかを主の言葉と生き様を通して教えてくださいました。

もしわたしたちが忍耐する力、慰め、平安、希望、愛し合う愛、励まし合う力を心から求めているならば、すべての恵みの源である神様に求め、与えられるしか方法はありません。人や富に求めても必ず裏切られ、苦しみがさらに増すだけです。何故ならば、そこには人間の弱さと罪しかない、諦めや絶望を与えるサタンの力しかないからです。ですから、5節にあるように、キリスト・イエスに倣って生きるしか、祝福の道、喜びと平安と希望に満ちた道はありません。ですから、苦しみの中にある今、イエス様を常に見上げ、フォーカスして、主の言葉に聞き、それぞれ置かれた場所で、心を一つに合わせて主に信頼し、主の御名によって絶えず祈り、心からの賛美と感謝の礼拝を主におささげし、主の招きの時を待ちましょう。