愛は隣人に悪を行わない

「愛は隣人に悪を行わない」 六月第一主日礼拝 宣教  2019年6月2日

 ローマの信徒への手紙13章8〜10節           牧師 河野信一郎

ローマの信徒への手紙を1章から読み進めてきて早14ヶ月が経ちました。今朝の聖書箇所は13章8節から10節ですので、いつもよりだいぶ小幅な進み具合になりますが、8月の末には終わると思います。今朝は、ここから共に聴いてゆきたいと思います。

しかしながら、先週の火曜日に起こった悲しい事件に触れないわけにはいきません。28日の朝、川崎市の路上でスクールバスを待っていた小学生ら19人が包丁を持った男に襲われ、11歳の小学生の女の子と38歳の外務省職員の男性が亡くなり、3名が重傷を負うという、本当に痛ましい、あってはならない事件が起こりました。他にも殺傷事件が連日のように起こり、いたたまれない気持ちになりますが、そういう中で、今朝は「愛は隣人に悪を行わない」というテーマで、与えられている箇所に記されている神様の御心は何であるのか、今日に生きるわたしたちに対して神様が求めておられることは何であるかをご一緒に聴いてゆきたいと思います。

今朝は、宣教の導入として、私のアメリカの友人の家族内で起こったある出来事をまずお話ししたいと思います。ハワイのヒロ島の教会で牧師として仕える友人夫妻がいますが、彼らには9歳、7歳、3歳の息子たちがいます。3人とも養子なのですが、ハワイの原住民の血を引く、とってもハンサムな子どもたちです。この夫妻は実の息子のように3人を可愛がり、彼らもとっても素直に育っています。しかし、1ヶ月ほど前にこの家族に大事件が起こりました、9歳の息子の貯金箱からお金が盗まれていることがわかったのです。テネシー州のおじいちゃんやおばあちゃん、おじさんやおばさんたちから貰ったお金やお小遣いが入っていました。しかし、お金を盗んでいた犯人はすぐに見つかりました。一番小さい3歳の息子、屈託のない笑顔が愛らしい男の子です。お母さんは怒らずにお金をどうしたのと尋ねると、「マミー、神様に献金したよ」と笑顔で答えたそうです。この3歳の男の子は、毎日曜日の朝にお兄ちゃんの貯金箱から小銭をとって、子どもの礼拝の時に献金をしていたということが分りました。3歳ですから、お小遣いはもらえません。自由に使える自分のお金はありません。お兄ちゃんからお金を借りて献金しているつもりであったのでしょうか。わかりません。けれども、ただ単純に神様に献金をしたかったのだそうです。

皆さんがこの男の子の親であれば、どのようにこの子と向き合って、お金を盗むということ、また献金についてお話をされるでしょうか。「神様に献金を献げたいというあなたのその気持ちは大切だよ。でも、お兄ちゃんが頑張って貯めていたお金を盗んで献金をすることを神様は喜ぶかな。どうだろう。」と優しく問いかける親もいれば、「あなたにもお小遣いをあげるから、そこから感謝の気持ちを神様にささげなさい」という少し甘い親もおられるかもしれません。「お金を盗むことはダメだからお巡りさんのところへ行こう」という厳しい親はいるでしょうか。こういう時に親に最も必要なのは何でしょうか。間違いを犯した子どもをすぐに許すということではなくて、その子を抱きしめ、兄弟の中を取持ち、その子たちのために祈ること、子どもへの忍耐と愛なのではないかと思います。無邪気な3歳の弟がしたことをお兄ちゃんは許してくれました。

パウロ先生は13章8節で、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」とローマの信徒たちへ書き送っています。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」 愛以外、借り貸しがあってはならないというのです。パウロ先生は、わたしたちにローンを組んだりしてはいけませんと言っているのではありません。現代社会では、ローンを組まないと買えないもの、得られないものがたくさんあります。奨学金を得ないと勉強もできません。パウロ先生がここで言っているのは、借りたものはちゃんと責任を持って返しなさい。手に負えない負債を負わないように注意し、いつも誠実に、正直に生きなさい。誰かに迷惑をかけてはいけないということです。

少し次元の違うお話をしたいと思いますが、今から皆さんにお尋ねする質問がある意味失礼にあたるかもしれませんので、もしそうであれば、どうぞお許し下さい。悪意があるわけではありません。さて、皆さんの中に、借金をして神様に献金を献げておられる方はおられるでしょうか。多分そういう方はおられないと思いますが、今からお話しすることはわたしがアメリカで経験したことで、昔わたしの近くにそういう人がいました。彼は、ちゃんとした仕事を持ち、高額な給料をとる人でしたが、お金の使い方が実に下手でした。お給料が入ると、まず家と車のローンの支払い、各種保険料の支払い、クレジットカード会社への支払いをし、それが終わると家族と買い物や外食に出かけてしまう。手持ちのお金が徐々に少なくなる中、日曜日の礼拝で神様に献金をしようとしてもお金が少ないので、クレジットカードでお金を引き出して献金をする。つまり、借金をして献金を献げていたのです。

神様は、わたしたちが働いて得たものの中から、まず神様への献げ物を最初に聖別しなさいとおっしゃいます。それが神様に喜ばれる献げものであるからという理由だけではなく、残ったものの中から献金することが神様に対して失礼というよりも、残ったものの中から献げようとする時、わたしたちが迷ったり、苦しんだり、惜しむ気持ちから献げなくて良いためです。わたしたちが誰かから借りた物、借金をして献げることを神様は喜ばれるでしょうか。神様は、お金とか物ではなく、私たちの心を喜ばれます。まったく献げないということはどうかと思いますが、義務感から仕方なく献げるものや心の伴わないものを神様は喜ばれません。

さて、旧約聖書には、613の掟・律法が記されています。365の掟は、「〜してはならない」という禁止令です。それ以外の248の掟は、「〜しなさい」という命令です。しかし、この613ある律法の中で最も大切な戒めは二つです。主イエス様の言葉としてマタイによる福音書の22章37節以降に記されていますが、一つは、「心と精神と思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」という命令です。もう一つは、「隣人を自分のように愛しなさい」という命令です。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」とおっしゃいました。

しかしパウロ先生は、今朝の箇所で、「人を愛する者は、律法を全うしているのです。他にどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は律法を全うするものです」と言っています。イエス様と使徒パウロの言っていることに食い違いがあるように聞こえるかもしれませんが、決してそうではありません。パウロ先生がここで云う「隣人を自分のように愛しなさい。愛は律法を全うするものです」という言葉の土台は、神様の愛です。ここで用いられている「愛」と云う言葉はすべては「アガペー」と云う神様からいただく愛が用いられています。あなたを愛しておられる神様をあなたが心から愛する時、神様はあなたをより豊かに愛され、神様の霊・ご聖霊であなたを満たし、このご聖霊に力づけられ、励まされて、神様をさらに愛し、隣人を愛することができるようにしてくださいます。

主イエス様は、十字架にかけられる前夜に弟子たちと最後の食事をしている時、愛するということについてもう一つ掟を弟子たちに与えました。それは「わたしがあなたがたを愛したように、(あなたがたも)互いに愛し合いなさい」というものです(ヨハネ福音書15:12)。わたしたちが互いに愛し合い、お互いの存在、尊厳を心から尊重するとき、9節に記されているような、姦淫すること、殺すこと、盗むこと、むさぼることはわたしたちの中にはなくなるはずです。互いに愛し合うとき、神様と主イエス様の掟を全うしていることになります。

12章9節に、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」とあります。また12章18節にはすべての人と平和に暮らしなさい」と励まされています。平和に生きるためには、お互いに相手と向き合い、相手をよく知る必要があります。相手をよく知るようになると、相手を愛するようになり、その人のために祈ることができるようになります。そのようにご聖霊がいつも共にいて助けてくださいます。

確かに、わたしたちの周りには悪意を持った人がゴロゴロいて、ストレスや怒りを覚えますが、12章19節の「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」という言葉と、21節の「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」という言葉、そして今朝の13章10節の「愛は隣人に悪を行いません」という言葉に励まされて、まず神様を愛してゆきましょう。わたしたちに必要な愛の源は神様です。この神様から愛を日々受けつつ、わたしたちに与えられている隣人を愛し、互いに愛し合う者とされてゆきましょう。

わたしたちには自分の力では支払うことのできない罪の負債がありましたが、そのようなわたしたちを神様とイエス様は愛してくださり、イエス様はその命をささげて十字架上で負債をすべて支払ってくださいました。それほどまでにわたしたちは神様とイエス様に愛されています。わたしたちには、互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借り、負債があってはならない、いつも神様には忠実に、人々には誠実に、自分に対しても信実に、つまり正直に、まじめに、真剣に生きなさいと励まされています。神様と主イエス様とご聖霊にいつも助けていただいて、神様の愛に満たされて、そのように生かせていただきましょう。