支援することは、喜びの義務

「支援することは、喜びの義務」 七月第一主日礼拝 宣教要旨 2017年7月2日

  教会組織52周年感謝礼拝・2017年神学校週間最終日にて

  ローマの信徒への手紙 15章22〜29節       牧師 河野信一郎

 使徒パウロの強い願いは、ローマに赴き、ローマの信徒たちと交わり、彼らの信仰を励まして整えた後、イスパニア(スペイン)に行って、その地に生きる人々にキリストの福音を宣べ伝えることでした。皆さんにも旅行でなくても、何かしたいことが一つや二つあると思います。あるいは、何か手にしたいもの、お金で買い求めることができるならば欲しいというものがあるのではないでしょうか。15章を読み進めてゆきますと、パウロはローマとイスパニアへ1日も早く行って、主イエスのことを伝えたいと切に願っていましたが、25節を見ますと、「しかし今は聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへゆきます」と言っています。

 使徒パウロは当時、ギリシャのコリントという町に滞在していましたが、ローマやイスパニアとは全く逆方向のエルサレムへ行くと言うのです。その理由は26節に記されていますが、マケドニアとアカイアの異邦人クリスチャンたちがエルサレムのユダヤ人クリスチャンたちの貧しさを援助するために募金を集めてくれたので、その募金を持ってエルサレムに行くと言うのです。確かに大切な募金ですが、何も使徒パウロ自身がエルサレムに行かなくても良いのではないかと私は考えてしまいます。誰か他の人に、例えば弟子の誰かに頼めば良いのではないかと考えてしまいます。しかし、28節を見ますと、「募金の成果を確実に手渡したい」と言うパウロの強い意志があったことが分かります。

 向かいたい方角の真逆の方向へ行くことであっても、どうしても成し遂げたいことが使徒パウロにはありました。それは、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンを一つの教会、一つのキリストの体にすることでした。何故ならば、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンたちは、まだまだ信頼関係が築けていなかったからです。それぞれのことに関心がなかったのです。愛の反意語は無関心であると言われます。つまり、キリストを主と信じ、告白する教会の中で、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンたちはこれまでしっかりと向き合い、愛し合い、祈り合い、支え合い、互いに仕え合うことがなかったのです。

 しかし、エルサレム教会の中に生活に困窮している人たちがいると言うことがマケドニアとアカイア地方の異邦人クリスチャンたちに知らされました。それを聞いた彼ら、彼女らは、ユダヤ人クリスチャンの兄弟姉妹たちを援助することに喜んで同意し、貧しい中から彼らにできる最善のサポートを募金としてくれたのです。使徒パウロは感動したことでしょう。

 「喜んで」と言うのは、自分たちから進んで募金をしたと言うことであって、パウロの手前、そのようにしたと言うわけではありません。この「喜んで」と言うギリシャ語は、「コイノニア」と言う言葉が用いられています。コイノニアとはフェローシップ、交わりを意味し、真の教会を意味します。喜んで愛し合い、助け合って、祈ってゆく時に教会は祝福のうちに形成されて行くのです。そのことを覚えて共に教会形成をしてゆきたいと願います。

 さて、今回の中心的な御言葉である27節に「彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務があるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」と使徒パウロは言っています。これはどう言う意味でしょうか。ご一緒に考えたいと思います。

 私たちが神学校週間を過ごす時、祈りに覚え、また献金を持って支援しようとする時にあまり力が入らないのは、神学生たちの顔や彼らの様子があまり分からないから、あるいはあまり関心がないからではないでしょうか。しかし、それでも私たちは神学生たちのために祈り続け、献金をもって支援してゆく義務があるのです。

 異邦人クリスチャンたちがユダヤ人クリスチャンたちの中の貧しい人々を援助する義務があるのは、彼らが使徒パウロをはじめ、ユダヤ人クリスチャンたちからイエス・キリストの福音を聞き、イエスを救い主と信じる信仰へと導かれ、信仰に与ったからです。

 私たちが神学生たちと神学校を支えるのは、私たちの大半が神学校で整えられ、そこから主によって遣わされた伝道者、牧師を通してイエス・キリストの福音を聞き、礼拝をささげ、教会に加えられ、恵みのうちに日々生かされているからです。宣教師や牧師を通して、宣教・説教を聞き、神の愛と赦し、主イエスの十字架と復活による愛の犠牲を知り、悔い改めへと導かれ、救いと恵み、平安と希望のうちに招き入れられ、その中に生かされています。

 ですから、私たちには神学生たちを支える義務があるのです。

 私たちの祈りと献金が身を結ぶ時、それは神学校を卒業した牧師や宣教師たちの働きを通して、失われていた魂が神の愛の言葉を聞き、悔い改めて救われ、信仰が与えられ、主イエスにつなげられ、教会につなげられる時です。一人でも多くの人々が主イエスにつなげられ、神の家族の一員とされ、永遠の祝福に与ることができるように、これからも祈り、支えてゆきましょう。そうしてゆくことが、私たちクリスチャンの喜びの義務です。