牧師ヤコブのことば

宣教「牧師ヤコブのことば」  大久保バプテスト教会副牧師石垣茂夫      2021/07/18

聖書(1):ヤコブの手紙1章1~4節(新共同訳・新約p421)、聖書(2):ヤコブの手紙5章13~15a節(p426)

招詞:エレミヤ書29章11~14a節(新共同訳・旧約p1230)

 

「はじめに」

今朝は、この7月祈祷会でテキストにしています「ヤコブの手紙」から宣教をさせていただきます。

パウロのガラテヤ書(1:19)に「主の兄弟ヤコブ」という名前の人物が登場します。「ヤコブの手紙」は、このヤコブが晩年になって書いた文書とされています。

ただ、わたしにとりまして「ヤコブの手紙」はとても堅苦しく、馴染めない文書でした。皆さまはこの手紙について、どのような印象をもっておられるでしょうか。

手紙の2章14節(p423)このような言葉があります。

「2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」と言っています。この段落がヤコブの手紙全体のテーマ「信仰と行い」について語っています。

ヤコブは「生きた信仰は行いを伴う。信仰が生活として実践されるなら、はじめて命を持つ」と言っています。

 

さて、新約聖書には21もの「手紙」があり、これらの手紙はすべて、キリスト教会が生まれて間もない時代に書かれたものです。早い時期の手紙はキリストの十字架と復活の出来事から20年後に書かれ、遅い手紙でも30年後までに書かれたものです。従ってこれらの手紙には、生まれて間もない教会に起きていた様々な問題が扱われていることは、見逃せないことです。そのように導かれ、気持ちを入れ替えて、私は読んでみました。

結果として、与えられました今朝の御言葉は、「ヤコブの手紙」の本題である「信仰と行い」ということからは外れるものとなってしまいました。

それでも、不安定な時代に生きる私たちに向けて、わたしたちを励ます言葉であると思えますのです。少しゆったりとした気持ちで、皆様と共に、この朝のみ言葉にお聞きしたいと願っています。

 

「主の兄弟ヤコブ」

新約聖書には何人かの“ヤコブさん”が登場します。

主イエスの十二使徒の中には、ゼベダイの子ヤコブとアルファイの子ヤコブがいます(マタイ10:1~4)。そしてもう一人、パウロの手紙・ガラテヤ書(1:19、2:9,12))には、「主の兄弟ヤコブ」という名が記されています。

「主の兄弟ヤコブ」とは、主イエスの実の弟であり、兄イエスの死と復活の出来事を経験してからは、エルサレムの教会に仕え、使徒ペトロと並ぶ重責を担っていきました。この人を、当時の信徒たちは「主の兄弟ヤコブ」と、親しみを込めて呼んでいました。

このヤコブに関連して、マタイによる福音書には、次のような記述があります(参照:マルコ6章)。

◆ナザレで受け入れられない(マタイ13章53~58節・新約p27)

 13:53 イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、

 13:54 故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。

 13:55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。

 13:56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」

 13:57 このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、

 13:58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

 

主イエスは、かなり早い段階で家業である大工の仕事を離れ、ガリラヤの各地の会堂や家々を訪ね、「神の国は近づいた。福音を信じなさい」と告げ、巡っておられました。この、生前の主イエスの行動について、ヤコブと、ほかの兄弟姉妹たちは、村の人々と同じように、兄イエス受け入れることが出来ないでいたのです。

弟ヤコブが、自分の兄イエスを「神の子」と信じることが出来たのは、兄イエスが十字架に死に、復活の事実に出会ってからのことでした。

やがて「主の兄弟ヤコブ」は、始まったばかりのエルサレム教会のリーダーとなり、ユダヤの各地に始まったキリストの集会と、そこに集う人々を励まし、指導する立場になっていました。

パウロの、ガラテヤの信徒への手紙によりますと、パウロが、ダマスコで回心し、洗礼を受けた後、最初に訪ねたのがエルサレムの「使徒ペトロ」です。そこに十五日滞在した後、「主の兄弟ヤコブ」だけに会ったと書かれています。そのことから、エルサレム教会でのヤコブの働きの重さを、十分に推測することが出来ます(ガラテヤ1:18,19)。

 

「牧師ヤコブ」

ある方は、この「ヤコブ」のことを、「牧師ヤコブ」と呼んでいます。それは、各地の教会に集う人々が持つであろう悩みの一つ一つに、牧師のように、丁寧に答えているからだと思われます。

この手紙を書いた頃のヤコブは、もう晩年になっていました。キリストの出来事から30年後のことですが、そのころすでに教会には、信徒を惑わす「異なった福音」を持つ者が入り込んでいました。そのため、信仰を持って教会を支えて来た仲間が悩み、次々と去っていくという、辛い経験をしていたのです。

心を痛めたヤコブは、イスラエル全土に散っている教会と信徒に向けて、そうした人々の救いが確かなものになるようにと、この手紙を書き送りました。

まだ教会には「聖書」がありません。恐らく専任の牧師もいなかったことでしょう。この手紙は、それぞれの教会で、礼拝の度に、代表者によって説教として読まれたに違いありません。

 

「牧師ヤコブのことば」・「挨拶します。」

お読みいただいた「ヤコブの手紙1章1節」は、このような言葉で始まっています。

「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。」(1:1)

この第一節で注目したいのは、「挨拶」という言葉です。

ここに「挨拶いたします。」と、サラっとした言葉で書かれていますが、ヤコブの手紙の、この「挨拶」という言葉は、他の手紙とは違って大変めずらしい言葉が使われています。 

原語(ギリシャ語)のχαιρεινカイレインという言葉ですが、その意味は「がんばれ!」、あるいは「喜べ!」という励ましの言葉なのです。ただの挨拶ではないのです。

プロスポーツなどの応援には、盛り上げる役目のチア・リーダー(cheer leader)がいますが、この「cheer」、のもとになった言葉「カイレイン」が「挨拶します」として使われています。ただの挨拶ではないという事をわたしは知りました。

英語では選手たちを励ますときに、「Cheer up!」(がんばれ!)と言うそうですが、これが「ヤコブの手紙」の最初のことばなのです。「がんばれ!」と書いて手紙を書き始めたのです。

興味を持ちまして、古い日本語の聖書ではどのような言葉になっているのかと、いくつかの聖書を調べてみたのですが、「挨拶します」との言葉の前に、「元気であるようにと挨拶を送る」、或いは「平安であるようにと挨拶する」と、もう一言が加えられていました。単に「挨拶します」ではなく、正しくは、こうした励ましの意味が込められた挨拶なのでしょう。

「主の兄弟ヤコブ」は、各地で苦闘する教会に、「がんばれ」「Cheer up!」と、最初の一行目に書いて手紙を書き始めたのです。わたしは、初めにこのことを知って、ヤコブの手紙を読む力が与えられました。

以下「牧師ヤコブのことば」の三節だけですが、ご紹介します。

 

「牧師ヤコブのことば」・「祈りなさい。賛美しなさい。」

この手紙の最後の章、5章13節以下のみ言葉は、皆さんの印象に残るみ言葉ではないかと思い、お読みいただきました。

5:13あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。

ヤコブは、まるで教会に集っている一人一人の顔を見るようにして語り、最後に「祈ること」を奨めています。

5:13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。

ところで、「苦しんでいる人」とは、特別な重い苦しみを持っている人のような印象を与えますが、どちらかと言えば、私たちが日常的に陥ることがある「落ち込んでいる」様子を言っているのです。

「落ち込んでいる」ときは、どうでしょう、私たちは祈れるでしょうか。ヤコブはそういう時にこそ祈りなさいと言っています。

同じように「喜んでいる人」とは、少し軽い意味で「楽しい気分の人」という意味であるようです。「気分の良いとき」には神を忘れます。そうした時にこそ、神を見上げなさいと言っています。

ヤコブは、日常的に繰り返して襲ってくる辛い思いの時も、そして楽しい時にはなおさら、「祈りなさい」、「賛美の歌をうたいなさい」と言っています。これは「どんなときにも、心を神に向けなさい」と言いたいのでしょう。

「祈りと賛美」、これはどこでしているのでしょうか。それは教会の礼拝にほかなりません。「落ち込んでいる人」は、一人で閉じこもらないで、教会の祈りを求めて集まって来なさいと言っているようです。

礼拝に集いましょう。喜んで賛美する人の声に合わせて歌いましょう。そこから元気をもらいましょうと言っています。

 

「牧師ヤコブのことば」・「教会の長老を招き、主の名によって祈ってもらいなさい。」

5:14 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

「長老派」と呼ぶ伝統的な教派があります。その教派では牧師を「宣教長老」と呼び、執事も、教会を治めると言う意味の「治会長老」(ちかいちょうろう)と呼びます。

「教会の長老を招き、祈ってもらいなさい」という言葉があります。

「ヤコブ」は、牧師や執事を家に迎えなさいと言っています。

わたしたちは、現在の生活の中で、牧師や執事の方を家に招いたり、あるいは招かれるという事があるでしょうか。様々な事情があると思いますが、今日では、そうしたことは大変少なくなってしまいました。

これは我が家の恥ずかしい一面ですが、訪問者があると我が家はいつも慌てます。それはいつも散らかっているからです。その原因はすべてわたしにあるものですから、わたしはあっという間に片づけ、そして何事もなかったように、すまして客人を迎えます。連れ合いはそれを見ていつも笑っています。

しかし、散らかっていても、例え忙しくても、もっと気軽に招く、気軽に訪ねるということが出来ないものかと感じています。「教会の長老を招き、祈ってもらいなさい」との言葉を皆様はどのように受け止められるでしょうか。

主イエスはその生涯の中で、多くの町を訪ね、病んでいる人の家に入り、癒しをなし、祈り、その一人一人を立ち上がらせたことを思い起こします。

同じように、長老たちが訪問するならば、その時には、主イエスが一緒に訪ねてくださる。ヤコブはそうしたことを経験してきたのでしょう。

「オリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」とあります。これは、プロテスタント教会では行いませんが、カトリック教会や聖公会で行われている「塗油」(とゆ)という儀式です。「特別なその日の礼拝の終わりに、痛みを持つ人はどうぞ前にお進みください」という声掛けがあります。痛みのある人は前に出ていきますと、司祭が良い香りのする油をその人が示す場所に塗り、お祈りをする、それが「塗油」(とゆ)という儀式だそうです。これは礼拝に参加しないとできないことですが、これを見ている人は、何よりもこの時の祈りに慰められると言っていました。

自分の病を、自分だけのことにしないで、教会の事としなさい。そして互いに信仰の祈りをささげ、神を信じ、神に期待しなさい。ヤコブは、それが主イエス・キリストに出会えることだと言っています。

 

「牧師ヤコブのことば」・「信仰の祈りは、その人を起き上がらせる。」

5:15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。

ヤコブは、「元気でいるように」「がんばれ」と書いてこの手紙を書き始めましたが、ヤコブは最後に、「主がその人を起き上がらせてくださいます」と言いました。

主イエスこそが、私たちの持つ様々な課題から、私たちを起き上がらせてくださるお方です。このヤコブの確信を、今朝、私たちも、持たせていただきましょう。

主イエスは、今も、「がんばれ!」「Cheer up!」と、私たちを励まし続けてくださっています。

コロナ危機の中で、皆様は様々な不安にが襲われて過ごされておられることでしょう。

牧師ヤコブの、人間味に溢れた励ましの言葉をお互いの心にいただき、この一週を歩ませていただきましょう。

終わりにもう一度、招詞の言葉を読み、お祈りします。

招詞:エレミヤ書29章12~14a節

 29:12 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。

 29:13 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、

 29:14 わたしに出会うであろう、と主は言われる。

 

【祈り】