神が共にいる理由

「神が共にいる理由」 六月第四主日礼拝 神学校週間  宣教 2022年6月26日

 出エジプト記3章9〜12節、マタイによる福音書28章18〜20節  牧師 河野信一郎

おはようございます。今朝もこの礼拝堂で、またオンラインで皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげできることを恵みの主に感謝いたします。今日は、アメリカから来日されたばかりの宣教師家族もお迎えしています。日本に生きるわたしたちも困っていますので、日本の蒸し暑さにまいっておられるのではないかと思います。しかし、まだ7月にも入っていません。これから8月と9月の猛暑が待ち受けていると思いますと天を仰ぎたくなりますが、皆さんも水分補給をしっかりして、熱中症にならないようにくれぐれもお気をつけください。

金曜日と昨日、暴風すごかったですね。写真のように、教会の植木鉢、特に背丈の高い植物の植木鉢がなんども倒れてしまい、起こしたり、避難させたり、元の位置に戻したりの作業で大変な二日間でした。そういう作業をしている中で気づいたことは、もし植木をちゃんと元気に育てたいならば、最初から重量のあるしっかりした陶器鉢に植えることが重要であるということです。倒れた植木鉢は、すべて軽く安価なプラスチック製の鉢ばかりでした。

片付けをしながら、わたしたちの信仰も植木鉢と同じだと感じました。つまり、この聖書は神のみ言葉であると信じ、イエス・キリストという救い主だけに聞き従う教会に自分の身を置かないと、凄まじい突風、大きな試練がきた時に、安くて軽いプラスチック製の教会では、いとも簡単になぎ倒されてしまい、自力では起き上がれなくなります。確かに、聖書の神様は、他のクリスチャンを用いて、倒れた信仰者を起き上がらせてくれるほど憐れみ深い神様ですが、もし自分と一緒に他のクリスチャンたちもみんな暴風で倒れていれば、起き上がることは非常に難しくなり、最悪の場合、信仰を失ってしまうことになるかも知れません。イエス・キリストを救い主と信じ、主イエスのみ言葉に聞き従う教会は、聖霊にいつも守られていますから、身を寄せ合って、祈り合って、共に暴風に耐えることができます。わたしはケチなので、プラスチック製の鉢ばかり購入してきましたが、これからは重い陶器の植木鉢に変えていこうと思いました。この教会が強くて丈夫な器になるように祈ってください。

さて、今日から7月3日まで神学校週間を過ごします。礼拝の第二部でアピールがありますが、日本では牧師が絶滅危惧種になろうとしています。神学校で学んでいる神学生の数は年々減少しています。将来的に牧師不在の教会が40%以上になり、地方の教会から牧師のいない教会が増え、そのような教会から解散・消滅すると考えられています。非常に危機的な状態で、今必要なのは、献身者がさらに起こされるために祈ることとサポートです。

さて、今日は神学校週間の初日ですので、わたしが神学生の時に与えられた素晴らしい出会いと恵みを分かち合わせていただきたいと願っています。わたしは25年前の5月にアメリカの神学校を卒業しました。その神学校時代の前後のことを分かち合いたいと思います。

しかし、どのようにわたしが献身し、神学校へ導かれて行ったのかについて話すのは長くなりますので、礼拝後にお渡しします文章をお読みいただきたいと思います。月報1月号に掲載したものですので、教会の皆さんはすでに読んでくださっているものですが、ご入用な方はお持ちいただき、お読みいただければ幸いに思います。

さて、わたしは1993年の5月にアメリカの大学をようやく卒業しましたが、神学校入学は一年待たなければなりませんでしたので、日系スーパーマーケット等で働き、学費などを貯蓄しようとしました。しかし、アメリカへ移住してから13年間、日本へ帰国していなかったので、わたしたち家族のためにずっと祈ってくださり、支援してくださった方々に大学を卒業したことと神学校へ進学することの報告をするため、10月にひとり旅に出かけました。

その旅の中で、わたしが「信仰の祖父」と呼んでいます保田井善吉先生をお訪ねしました。名古屋にお住まいでしたが、わたしが神学校へ進むことを大変喜んでくださり、わたしの聖書にこのように書いてくださいました。口語訳聖書の言葉ですが、「神は言われた、『わたしは必ずあなたと共にいる。これがわたしのあなたを遣わしたしるしである』」という出エジプト記3章12節にある神様の約束の言葉です。

「信一郎兄の前途を祈りつつ」という最後の言葉に、わたしは今までずっと祈られてきた存在であり、これからもずっと祈られ、支えられてゆく幸せな存在であることを強く感じました。自分ひとりで頑張ってきたのではなく、神様の憐れみと数え切れない人々の祈りと支えによって今まで生かされてきて、これからも生かされていくのだと思い、涙が溢れました。

「神は言われた、『わたしは必ずあなたと共にいる。これがわたしのあなたを遣わしたしるしである』」という言葉は、神様からモーセに与えられた約束の言葉です。エジプトの地で奴隷とされて苦しんでいるイスラエルの人々を救い出すため、神様がモーセを召し出し、派遣しようとしているコンテキストの中で約束された言葉です。再度読んでみたいと思います。

「9『見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。 10今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。』 11モーセは神に言った。『わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。』 12神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。』」

わたしは、ずっとこのように思っていました。神様は、アメリカに生きる日本人たちの魂の叫び声を聞かれ、その人たちの救いと信仰生活のためにわたしを牧師になるように招き、神学校へ導かれるのだと。自分にそのような働きができるのか、まったく自信がありませんでした。しかし、日本で、保田井先生を通して、神様から確かな約束をいただきました。

アメリカの神学校は9月開始ですが、わたしは1994年5月27日にロスアンゼルスを車で出発し、2200マイル、約3500キロを三日半かけて運転し、ケンタッキー州のルイビル市にある南部バプテスト神学校に到着し、6月と7月の夏季特別講義から神学校に入学しました。28歳でした。若い時の写真をお見せしたいと思います。面白いことに、ぴったり3年後の1997年の5月に神学校を卒業し、5月27日にルイビルを離れました。31歳でした。

神学校ではたくさんの素晴らしい出会いがあり、たくさんの祝福を得ましたが、わたしを送り出してくださったガーデナ・トーランス南部バプテスト教会の兄弟姉妹の愛と祈りと献金によって、フルサポートで学びをさせていただきました。いつも感謝しています。

さて、今朝はわたしが神学校で出会い、多くのことを教えてくださった教授たちを短くご紹介したいと思い、写真を準備しました。最初に受けた授業は、夏の特別講義で、3週間の集中講義でした。ジェームス・ブレビン教授からヨハネの黙示録を学びました。ヨハネの黙示録は非常に難しい書物ですが、緊張していたわたしに聖書を集中して読み、探求してゆくことの面白さを教えてくださったのがブレビン教授で、マルコによる福音書も彼から学びました。

次の教授は、わたしが最も尊敬したデイビッド・ガーランド教授です。彼からマタイによる福音書を学びましたが、神様の言葉と向き合う時の謙遜さを学びました。彼の口癖は、「間違っているかもしれないが、わたしはこう読み取ります」という言葉でした。彼はのちにテキサス州にあるベイラー大学の神学校へ移り、学部長や学長にもなられた方で大好きでした。ジェラルド・ボーチャート教授から新約学概論とヨハネによる福音書を学びましたが、最も情熱的な人で、全身全霊で教えてくださっているという感動を毎回の授業で感じました。彼にも口癖があって、「この箇所で最も興味深いのは」という言葉で今も彼の声が残ります。

デイビッド・ガシー教授からキリスト教倫理を学び、彼からキリスト教倫理の博士号コースへ進んではどうかと勧められましたが、彼の助言に従っていたら、自分は今ここにいないと思います。ティモシー・ウエバー教授からキリスト教史を学びましたが、キリスト教史を学ぶことがどんなに楽しいことなのかを教わりました。今はコロラド州におられるようです。

最後に説教学のジェイムス・コックス教授です。2016年に93歳で天に召されましたが、彼から説教はなんであるのか、どのように説教すべきか、どのような心で説教すべきかを学びました。彼はいつもわたしたちに、「説教する時は、その説教があなたの人生最後の説教だと思って神様の言葉を分かち合いなさい」と教えました。「あなたが人生最後の説教として準備に取りかかると、聖書を読み込む時から手を抜けなくなり、集中するようになり、その中で自分の弱さを知るようになり、さらに謙遜にさせられ、もっと祈るようになり、もっと神様に依り頼むようになり、説教が自分の言葉から神様から託された言葉・説教に変えられてゆく、だから説教をする時は、あなたの人生最後の説教だと思って説教しなさい」と言われました。

わたしたちは、「次のチャンスがある、また次の日曜日が来る」と思っていると、気持ちが緩んで神様にささげる礼拝を休んだり、献げものをしなかったり、果たすべき責任を全うしない弱さが出てしまいます。しかし、今日の礼拝が人生最後の礼拝かもしれないと思うと、わたしたちは真剣にならざるを得ませんし、今日という日に賛美と礼拝をおささげできることがいかに幸いなことで、神様からの恵みであるかを実感できると思います。

わたしは、神様に備えられた素晴らしい教授たちによって整えられ、1997年の5月に神学校を卒業することができました。卒業式後の記念写真に大久保教会の創設に関わってくださったハロウェー先生ご夫妻が写っておられますが、ナシュビルのご自宅に何度も招いてくださり、励ましてくださいました。そして不思議なお導きで、1999年の春から大久保教会の牧師とされています。神様の御心はアメリカにあったのではなくて、日本にあったのです。しかし、今はこの大久保教会で仕え、日本バプテスト連盟でも仕え、さらにインターネットを通してアメリカの教会でもみ言葉の分かち合いをさせていただいています。本当に不思議な神様のお導きの中で、今朝、皆さんと一緒に礼拝をおささげする者とされています。感謝です。

この日本でも様々なものに支配され、奴隷とされて苦しんでいる人たちがおられ、心の奥底で叫んでおられます。その魂の叫び声を神様は聞いておられ、その人のために救い主イエス・キリストが派遣され、わたしたちの罪を贖うために十字架に架かって贖いの死を遂げてくださり、その主イエス様を神様が死より甦らせ、救いと永遠の命、希望の道を開き、復活の力によって、神様の愛によってわたしたちを救いへと招いてくださいました。

弟子たちの中には復活されたイエス様を疑う人もいましたが、主イエス様は天に上げられる前に弟子たちに次のようにお命じになられます。マタイによる福音書28章18節から20節、「18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とあります。

この主の言葉は、すべての弟子たちに、つまりイエス様を救い主と信じ、イエス様に従う決心をした人々に平等に与えられている命令であり、そして約束の言葉であって、牧師や宣教師たちだけに語られた限定的な言葉ではありません。それぞれの教会に与えられている言葉であり、わたしたち一人ひとりが宣教の働きを担いなさいというのです。しかし、わたしたちの多くは、そんなこと到底できないと決めつけてしまう弱さがあります。

神学校を卒業する直前のチャペルでの礼拝でアフリカ系アメリカ人の牧師が語った言葉をわたしは今でも鮮明に覚えています。「あなたがたはこの神学校で十分に聖書と神学を学んで整えられてきた。だから、次はここから出て行って神学を実践しなさい。み言葉を行いなさい。神学校を卒業しても、み言葉を実践しないのならば意味がない。主イエスがいつも共にいて助けてくださるから恐れることなく、それぞれここから派遣されてゆき、その場所で学んだ神学を実践しなさい。み言葉を行う人になりなさい」と叱咤激励してくれました。

確かに自分の力だけでは、わたしたちは何もできません。自分の知恵と力とだけでは御心を行い、御心に生きることはできません。ですから、インマヌエルの主イエス様が「いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださり、その約束を守るためにご聖霊がわたしたちといつも共にいて励ましてくださるのです。大切なのは、神様に忠実に、人々には誠実に、自分には信実・正直に生きることです。そのように生きられるように助けてくださいと祈り求め、信仰をもって一歩前進することです。主なる神様、イエス様、ご聖霊が共におられるのは、わたしたちが神様の御心に沿って生き、神様を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合うためです。わたしたちが心から神様に仕え、隣人に仕え、キリストを証し、教会を建て上げるためです。