神の恵みをよりどころとして生きる

「神の恵みをよりどころとして生きる」 三月第一主日礼拝 宣教 2022年3月6日

 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章1〜11節     牧師 河野信一郎

おはようございます。今朝も神様のご愛の中に生かされ、礼拝者とされていることを主に感謝いたします。まん延防止等重点措置が21日まで延長されましたこと、残念に思いますが、ウクライナの地で戦火の中に生かされている人々、息子や夫や父親と別れて国外へ避難されている家族、ロシアで反戦デモに参加されて拘束されている人々、また場所は変わって、一年以上も軍の制圧に苦しんでおられるミャンマーの人々のことを考えるだけでも、自分が置かれている状態に対して不服を唱えることはできませんし、ウクライナとミャンマーのために日々ひたすら平和の主に憐れみを心から祈る者です。皆さんもそうであると思います。

そのような中、先週の2日から今年の受難節・レントが始まり、4月16日まで続きます。戦争が1日も早く停戦になるように祈る中、わたしたちの罪を贖うために十字架の道を歩んでくださり、十字架で死んでくださったイエス様に心を寄せましょう。イエス様の十字架の死がなければ、三日後の死からの勝利の復活もなく、わたしたちに救いはなかったのです。さて、3月に入り、2021年度もあと26日となりました。教会の定期総会が月末に開かれますが、昨年に続き、今年度の総会は書面による総会となります。教会員の皆さんには総会資料と関係文書を明日郵送させていただきますが、そこに2021年度の活動報告が記されていて、わたしも主任牧師としての振り返りを記されていただきましたので、ぜひお読み下さい。

2021年度は、「主の業に常に励もう〜危機で得た恵みに立つ教会〜」という年間標語、そして第一コリント15章58節のみ言葉を年間聖句として教会の歩みを続けさせていただきました。「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」という使徒パウロのコリント教会の兄弟姉妹たちに対する励ましの言葉です。これを2年目のコロナ危機の中に置かれたわたしたちへの励ましとして受けました。

先月と今月は「無駄と恵み」というテーマで、「無駄、無益、虚しさ」という言葉が出てくる聖書箇所からみ言葉の分かち合いをさせていただくとお伝えし、2月はそのようにさせていただきましたが、3月は年間聖句であるコリントの信徒への手紙Ⅰ15章から3つのメッセージをさせていただきます。そして、遅まきながら、年間聖句の58節の最初の部分「こういうわけですから」という「こういうわけ」とはどういうことなのかを15章全体から聴きたいと願っています。今朝は1節から11節までの箇所に聴き、来週は12節から34節の中の主要な部分から、最後は27日に35節から58節の中の主要な部分から宣教をさせていただきますが、いま区分しましたそれぞれの箇所に「無駄」、あるいは「虚しい」という言葉があります。

しかし、そういう中で、今朝の宣教に「神の恵みをよりどころとして生きる」という主題を付けました。どうでしょうか、皆さんは今、何を生活のよりどころ、頼りとされているでしょうか。何に寄りすがって人生を歩んでおられるでしょうか。ご家族でしょうか。仕事でしょうか。富や不動産などの財産、社会的地位や伝統、何かしらの保障でしょうか。若さや健康が唯一の頼みの綱でしょうか。この1週間から10日の間、皆さんはご自分の目で、テレビや新聞を通してウクライナの人々がそれらすべてを無残にも奪い去られていることをご覧になっていると思います。圧倒的な軍事力・ミサイル等で美しい家族や街や自然が破壊されている光景や大破した重戦車が乗り捨てられている悲惨な現実をご覧になられていると思います。今ウクライナの人々は、命の危険にさらされています。ミャンマーの人々も同じです。

この日本に生きるわたしたちは、もしかしたら目の前から、手元から誰かに一瞬で奪い去られてしまう、切ないけれども儚いものを心のよりどころとし、それにこだわり続け、全力でしがみついているのかもしれません。わたしたちの目には美しく、麗しく、高価で尊いものと写り、魅了されても、本当はとても儚い、煙のように消え去ってしまうもの、虚しいものをよりどころとして生きているのかもしれません。それでは、本当のもの、本物とはなんでしょうか。わたしたちがよりどころとすべきものは一体何でありましょうか。それは神様です。神様の愛、神様から与えられた救い主イエス・キリスト、神様の恵みです。

それでは、その神様の愛とは一体どこにあるのでしょうか。どうやったらそれを受けとることができ、いつ受けられることが可能でしょうか。神様の愛を受けるために、わたしたちはどのようなものを代価として神様に差し出すというか、支払えば良いのでしょうか。

さて、ここ10数年、日本の社会問題となっているのが高齢者の万引きです。超高齢社会となり、蓄えもはるか昔に底をつき、微々たる年金だけではもう生活してゆけない、食べることもままならない、そういう方々がおられ、厳しい時代を迎えています。一昔前は、子どもがお菓子や文房具を万引きしたり、若者が漫画やゲームを万引きすることを聞きましたが、ここ10数年は、高齢者が食品などを万引きするのだそうです。しかし万引きが見つかってよく調べると、その人のお財布の中には盗んだものを買えるだけのお金が入っているそうです。

では、なぜ万引きをするのか。心理的な理由の一つとして、持っているお金や貯蓄が減るのが怖いのだそうです。将来を不安に思い、お金を失うのが怖いのです。今の社会は、お金がなければ安定した日々を生きてゆけない、そういう社会になってしまっています。日本には、お金を手放したくないがゆえに万引きをする人もいれば、貧しくて仕方なく万引きする人もいれば、スリルを味わうために万引きをする人もいるのです。お金を持っているのに万引きするのは持っているものを減らさないため。お金が多数の心のよりどころとなっています。

しかし、憐れみ深い神様は、わたしたちが神様をよりどころとして生きることができるためにイエス・キリストをこの地上に派遣してくださり、数多くの時代を超えて、聖書と福音とクリスチャンたちを用いてイエス様がわたしたちを探し出し、出会ってくださったのです。このイエス様が、神様が愛の神であることを証明してくださいました。では、どのように証明してくださったか。それはわたしたち罪にある者たちの身代わりとなって十字架刑に処せられ、贖いの死を遂げてくださった。そしてその命の最後まで神様の御心に忠実であられたイエス様を神様が滅びの死の淵から甦らせ、永遠の命へのドアを開けてくださいました。

神様の愛はイエス様にあり、主の十字架と復活にあります。福音を信じるだけで受けとることができ、信じるその時に受けられます。神様の愛を受けるために、わたしたちは代価を払う必要はなく、ただ心をイエス様に開き、イエス様を救い主と信じることによって、イエス様を、神様の愛と恵みをよりどころとして生きてゆく力を聖霊の神が与えてくださいます。儚く、いつか消え去ってしまうもの、人の手で破壊されてしまうようなものに懸命にしがみつく必要はなくなるのです。神様の愛がそのように与えてくださるのです。

さて、3回にわたってご一緒に聴いてゆく第一コリント15章の中心となる聖句は12節です。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」という言葉です。すなわち、この15章全体のテーマは「復活」です。復活されたイエス様のように、イエス様が再びこの地上の来られる時、生きている者たちはそのまま天に招かれ、先に死んだ者たちは甦り、肉体を持って生き返るということです。これまでの時代においても、また現代においても、多くの人々は復活などない、人生は一回きりで死んだら終わり、復活など非現実的な幻想、まやかしの類と受け入れることに困難さを覚えておられます。灰になった者がどう復活するのか、頭で理解できないので、復活を信じるなど無駄だと感じるでしょう。

しかし神様にできないことは何一つないのです。神様ができないのではなく、わたしたちが神様にはできると信じない、求めないので、神様は御心をなされないのです。しかし、わたしたちが神様の愛を信じたら、神様は計り知れない御力をもって、わたしたちを救い、肉体の命が終わる時、永遠の命と肉体を与えてくださる。そのために大切なのがイエス様の十字架の死と復活を信じることです。そして信じることは、福音を聞くことから始まります。

コリント教会の中で復活を信じない人が存在し、その人だけでなく、動揺している兄弟姉妹に対して、使徒パウロは1節で「わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」と言います。あなたがたが最初に聞いた福音をリマインドさせると言います。そして2節前半で、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」と神様の約束を再認識、再確認させます。イエス・キリストの福音を忘れてしまうと、イエス様から心が離れるようになり、「さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」と使徒パウロは言います。

このパウロがコリントの人々に最初に語り伝え、人々が信じたキリストの福音は、「わたしも受けたものです」と3節にありますが、パウロはダマスカスへ行く途上でイエス様と出会い、イエス様から直接福音を受けましたが、その大きな恵みを出会ってゆく人々と分かち合い、分かち合うことを喜び、生きがいとしました。わたしたちもそうありたいと願います。

さて3節後半から7節までに書き記されていることは、キリストの福音の土台、骨格になる重要な部分で、キリスト教会の基礎・基盤です。イエス様の十字架の贖いの死と永遠の命を与える復活の出来事は、切っても切れない表裏一体の神様の愛の御業であることを語ります。

まず3節と4節を見ますと、「聖書に書いてあるとおり」とあえて記されています。つまり、キリストの福音は昔の人が作り出したファンタジー、幻想、まやかしではなく、神様の約束の成就、救済の出来事が記されている聖書に基づくよき知らせ、福音であるということです。

「わたしたちの罪のために死んだこと」、それはイザヤ書52章と53章に記されていることが成就したことを指していると思われます。4節の「葬られたこと、また、三日目に復活したこと」とは、詩編16編7〜11節がベースになっていると思われます。使徒行伝2章に使徒ペトロの説教がありますが、その中で25節から28節は同じ詩編16編の箇所が引用されています。「三日目」ということに関しては、創世記42:18、出エジプト19:16、ヨシュア記2:22、エズラ8:32、エステル記5:1、ヨナ書2:1、特にホセア書6:2が加味されていると思われます。

続く5節から7節には復活のイエス・キリストに出会った鍵となる再会が記されています。「5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ」たとあります。イースターの朝にケファ・ペテロに、その夜ユダとトマス以外の弟子たちにご自身を現されました。「五百人以上のもの」についての記述はありませんが、「大部分は今なお生き残っています」と言って、生きた証言を受けることができると言っています。

続く7節の「ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ」たとありますが、ヤコブに現れたことも聖書には記されていませんが、使徒行伝やヤコブの手紙を読めば、彼がイエス様を救い主と信じない者から信じ、命をかけて福音を伝える者に変えられたのは復活のイエス様との出会いがあったからと信じているゆえんであると思います。「その後すべての使徒に現れ」たというのは、イースターの1週間後、ガリラヤの山で大宣教命令を下された時、そして復活後40日間弟子たちと過ごされ、昇天される時までに現されたということでしょう。

そして最後に、復活の主は「月足らずで生まれたようなわたしにも現れ」てくださったとパウロは言います。「月足らずで生まれたようなわたし」とは、未熟児で生まれるとは2000年前の当時は死に最も近い状態で、神様の憐れみが最も必要な者であったということです。ましてや、9節にあるように彼は「神の教会を迫害したのです」。自分は「使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者」だと彼の砕かれた心が表されています。

しかし10節でパウロは「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そしてわたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と告白しています。

すべては神様の愛と憐れみ、恵みの賜物、イエス様の十字架と復活があって今の自分があると告白します。この神様の恵みをあなたのよりどころ、心のよりどころとしなさい。イエス様を救い主と信じて生きなさいとパウロはわたしたちを励ますのです。つまり、神様とイエス様が今朝わたしたちを招かれるのです。主を信じて、計り知れない大きな恵みを受け取りましょう。イエス様の十字架の死と復活は、無駄話ではなく、真実であり、神様の愛、福音なのです。