神の愛に生かされている証し

「神の愛に生かされている証し」 十月第五主日礼拝 宣教要旨 2016年10月30日

ヨハネの手紙一 5章1〜12節       牧師 河野信一郎

ヨハネの第一の手紙の学びも終盤を迎えました。今回は、5章1節にある「神から生まれた者」という言葉にまず注目します。新改訳聖書では、「神によって生まれた者」と訳されていますが、ヨハネが言う「神から生まれた人」とは果たしてどのような人なのでしょうか。

第一に心にとめるべき真実は、「神から生まれた人」とは、神に愛されていることを信じ、感謝し、喜びのうちに神の愛に生かされている人です。

また、4章7節には、神から生まれた人とは、「神を愛し、互いに愛し合う人」だということが判ります。また、3章9節からは、「その人のうちに神の種=性質がとどまり、日々造り変えられているので、罪を犯す事ができない人」ということが判ります。また、2章29節からは、「神の言葉に服従する人、イエス・キリストを通して与えられた掟を忠実に守る人」が神から生まれた人ということが判ります。そして今回の5章1節でヨハネは、「イエスがメシア、キリストであると信じる人」がその人だと言っています。

これらの事から、神から生まれた人とは、愛と服従と信仰に生きる人、つまりキリスト・イエスを通して神に愛され、罪赦されている者として、この神と人を愛し、忠実に主に従い、神と主イエスを信じて歩む人、キリストに従う「クリスチャン」だということが示されます。

ヨハネは、この手紙を締めくくるにあたり、5章1節から3節で、上記の3つを大切に生きなさいと励ましています。すなわち、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして生んでくださった神を愛する人は皆、神から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守る時はいつも神の子どもたちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです」とあります。

ただ、3節の最後には、「神の掟は難しいものではありません」と付け加えられています。しかしながら、私たちは「神の掟を守ることは非常に難しい」と感じていますが、私たちがここで考えなければならないことは、「神の掟を難しいもの」にしている原因は何かということです。神の掟を困難にしているのは、他でもない私たちの心、思い込み、不信仰です。確かに、私たちの力や努力だけでは神の掟を守ることは非常に難しいのです。しかし、自分の力や知恵に頼ることを止め、神の愛を信じて心を、全てを主に明け渡す時、心に主が宿ってくださり、愛と恵みで豊かに満たしてくださるので、主の掟を守り、御心に従って生きることは主の助けによって難しくなくなるのです。信仰をもって主に従う者に、主なる神は伴いとお守りと励ましを与えて、掟を守って生きる者へとしてくださるのです。

4節に「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つ」とあります。4節と5節にわたって「世に打ち勝つ」という言葉が3回も用いられていますが、ヨハネがここでいう「世」とはいったい何を指し示しているのでしょうか。少なくとも3つのものを指し示していると言えます。

第一に、私たち主を信じる者は、救い主イエス・キリストによってこの世の罪と誘惑に打ち勝つ者です。神に愛され、キリストによって罪赦されていると信じる者は、罪の誘惑を退け、罪に勝利する力が与えられています。

第二に、キリストを信じる者は、この世の試練に打ち勝つ者です。日々の生活の中で様々な形で誘惑は訪れますが、有りとあらゆる試練を経験され、十字架の苦しみを負われ、勝利された主イエスが伴ってくださり、主の霊である聖霊が信仰者の内に宿ってくださるので、試練を乗り越える力が与えられ、勝利への道が示されるのです。

第三に、キリスト・イエスを救い主と信じる者は、この世の中で、死とその恐れに打ち勝ち、永遠の命に生きる希望が与えられています。主イエスの十字架と復活を信じ、永遠の命が与えられるという約束に生きる時、死に対する恐怖に打ち勝つ力が主から与えられます。

私たちの力だけではこの世に勝利することは不可能ですが、主イエスと聖霊がいつも共にいてくださるので、私たちの心は絶えず喜びと平安、希望に満たされて生きることができるのです。神の愛に生かされている恵みを証して生きてゆくことができるのです。

今回の聖書箇所には、全ての愛、恵み、赦し、力、励まし、慰め、平安、希望は、神から救い主イエス・キリストを通して与えられていることが示されています。ヨハネは、このイエス・キリストは水と血とを通って来られた方であると6節で告白しています。また、7節と8節には、イエスを救い主と証しするのは、霊と水と血であると言っています。

まず、「霊」についてですが、イエスは神の霊によって母マリアの胎に宿り、誕生しました。「水」というのは、主イエスのバプテスマを示すものですが、バプテスマをお受けになられた主は水から上がった時に、ヨハネは「わたしは“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(1章32節)と証ししています。また、「血」というのは、主イエスの十字架の血潮、また死を示すものです。主イエスが私たちの罪を贖うために十字架上で死んでくださったことを示しています。

つまり、水と血は、主イエスの救い主としての公生涯の始まりと終わりを指し示し、その公生涯を助け支えたのは神の霊・聖霊であったとヨハネは伝えようとしています。この霊と水と血が一致して私たちに示すことは、私たちはみなイエス・キリストを通して神に愛されているという真理、福音です。この救い主こそ、私たちに対する神の愛の現れであることを霊と水と血が証し、この救い主を信じる者に、その信仰によって永遠の命が与えられるという確信が与えられてゆくのです。

「神は愛です」とヨハネは告白します。そしてキリスト・イエスの内に神の愛が豊かにあります。この主イエスの内に自己犠牲的、他者(私たち)中心の神の愛(アガペー)があり、この世に打ち勝つ愛の力があります。この救い主がいつも共にいてくださるので、私たちはどのような試練の時にも大丈夫なのです。「主よ、あなたを信じます。あなたを愛します。あなたに従います」と日ごとに祈りつつ、神の愛に生かされていることを証してまいりましょう。神と主イエスが私たち信仰者に求めておられることは、神の愛にとどまり、主イエスにつながり、主の御旨に服従し、主に信頼して生きることです。主イエスと聖霊が絶え間なく共にいて私たちを守り、支え、励まし、導いてくださるので、私たちは大丈夫なのです。神の愛に信頼し、平安のうちに希望をもち、確信をもって歩んでゆきましょう。