隣人に何を分け与えるか

「隣人に何を分け与えるか」 二月第二主日礼拝  宣教要旨  2015年2月8日

ルカによる福音書10章25〜37節      牧師 河野信一郎

 「分かち合う」ことの大前提は「与える」ということで、自分の持ち物を相手に与えなければ、相手に分かつこと、互いに分かち合うことはできません。与えることも真心が大切ですね。

 今回は、主イエスが語られた「良きサマリヤ人の譬え」から隣人に何を分け与えることが神さまの御心なのかを聞きたいと思います。この譬え話が語られたことの発端は、律法学者がイエスに「わたしは何をしたら永遠の生命が受けられますか」と一つの質問をしたことです。まずここで心に留めたいことは、律法学者は永遠の生命を「受ける」ものであることを知っており、永遠の生命は神から与えられると信じていたことです。彼は、永遠の生命は「得る」ものでなく、「神から与えられ、受けるもの」と神からの賜物と信じていました。

 永遠の生命は、この地上での命が終わった後に、神に招き入れられる天国で与えられる命です。天国で永遠の命が受けられるかどうかは、この地上でわたしたちがどのように生き、神から与えられた命、身体、時間、持ち物等をどのように用いたかにかかっています。

 律法の専門家は主イエスに「わたしは何をすべきでしょう」と質問しますが、主は「律法には何と書いてあるか。あなたはその律法をどのように理解し、生きようとしていますか」と尋ねます。彼は613ある律法の中から2つを選び出し、「神を心と精神と力と思いを尽くして愛し」と「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛す」と答えますが、主イエスは「あなたの答えは正しい。完璧だ」と誉めます。そして「あなたが答えた通りに隣人に行いなさい。そうすれば永遠の命が与えられます」とイエスは彼を励ますのです。しかし、主から肩透かしを受けた彼のプライドが許しません。「では、わたしの隣人とは誰ですか」と尋ね返します。彼は、自分の「隣人」が誰であるかを本当に知らなかったのです。主イエスは、わたしたちの隣人は誰なのか、そしてその隣人をどのように愛してゆくことが神さまの御心なのか、そして永遠の命を受ける唯一の道が何であるかを譬えで語られ、教えてくださいました。

 あるユダヤ人が強盗に襲われ、すべてを奪われ、命を落としそうな状態になりました。祭司とレビ人が彼のそばを通りかかりますが、彼を見ると向こう側を通り過ぎます。同胞であっても、傷ついた人の血を触れたり、介抱している間にその人が命を落とすと宗教上の問題が生じ、神殿で仕えることができなくなる恐れがあったかもしれません。あるいは、ただ単に面倒なことに関わりたくないと思ったかもしれません。どちらにせよ、彼等は見て見ぬ振りをしました。

 ところがサマリヤ人がそこを通りかかり、死にそうになっていた人を見て気の毒に思って近寄って傷の手当てをしてやり、自分のろばに乗せて宿まで連れてゆき、彼を介抱してあげます。サマリヤ人はユダヤ人から蔑まれた人々で、ユダヤ人は彼等と交わることを極力避けていました。けれども、このサマリヤ人は傷ついたユダヤ人に近寄って介抱してゆきました。彼には人種は関係なく、目の前で苦しんで倒れている人を見て、彼に近寄ってゆきました。

 わたしたちの隣人とは、神が出会わせてくださる人々で、民族性、性別、年齢、肌の色、身分など関係ありません。隣人になってゆくためには、こちらから歩み寄って行く精神が必要だとここから示されます。隣人を愛して行く中で大切にしなければならないことは、「出逢いは偶然でなく、神から与えられたもの、神のご計画にあることだ」と喜ぶことです。

 主イエスは、わたしたちが隣人をどのように愛してゆくべきかを譬えの後半で教えてくださいます。主は、人を愛する道は、自分の持ち物を与えること、分けることだと教えられます。

 深く傷ついたユダヤ人を見たサマリヤ人は、どのようにそのユダヤ人を愛し、仕えたでしょうか。33節に「彼を見て気の毒に思った」とありますが、つまりサマリヤ人はまず自分の心の一部をユダヤ人に分け与えたのです。彼に寄り添って、自分の心の一部を分け与えるのは、アンパンマンが自分の顔を切り取って弱った人、空腹な人に分け与えるのと同じです。

 そして次に何をしたでしょうか。彼は傷ついた人に近寄って、その傷にオリブ油とぶどう酒を注いで包帯をしてやり、ろばに乗せて宿まで連れてゆき、彼を介抱してあげます。傷ついた人を助けるために自分の持ち物を分け与えたのです。包帯などは自分の衣服を切り裂いて用いたのではないでしょうか。しかし、サマリヤ人は持ち物だけでなく、自分の時間、返ってくることのない時間を分け与えたのです。また予定も多少変更しなければならなかったでしょう。彼は、自分の時間と持ち物を隣人に分け与えました。それが隣人を愛する愛し方だと主イエスはわたしたちに教えられます。

 サマリヤ人は翌日、デナリ二つを宿屋の主人に手渡し、「この人を診て欲しい。費用が余計にかかったら帰りがけにわたしが支払います」と35節で云っています。自分の仕事・用事を済ませた後に傷ついたユダヤ人を見舞うことを彼はすでに心に決めていたことが判りますし、隣人のためにもっとお金と時間と持ち物と心を分かち合う心づもりがあったことが判ります。これは本当に凄いことです。ユダヤ人が元気になるまでその人に仕え、大切なものを分け与えようとしているサマリヤ人のことを譬えとして主イエスは話される。

 そして「この3人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」と主は律法学者に尋ねます。この問いはわたしたちに問いかけられているものです。律法学者は「その人に慈悲深い行いをした人です」と答えます。そこで主イエスは彼にお命じになられます。「あなたも行って同じようにしなさい」と。しかし、わたしたちにはそのようにできない弱さがあります。しかし、その弱さの中にいるわたしたちと主イエスは共にいてくださいます。その主を信じて、助けを主からいつも受けて、神から与えられているたくさんの恵み・持ち物を、隣人のために用いよと主から委ねられているものを必要としている人々に分けてゆきましょう。

 主イエス・キリストが分け与える良き模範・モデルです。主はわたしたち罪人を救うために神の御許を離れ、わたしたちに近寄ってきてくださり、言葉をかけてくださり、わたしたちの弱さの上に御手を置いて癒してくださいました。わたしたちを救うためにその命を十字架上でわたしたちに与えてくださいました。このイエス・キリストを救い主と信じましょう。

 そして、神から与えられているものを人々に与えてゆきましょう。そのようにしてゆく時、わたしたちの心は喜びに満たされ、互いに分け合って、愛し合って、仕え合ってゆくことを人生の喜びとして楽しむことができるでしょう。

 神に深く愛され、主イエスによって罪赦され、愛のうちに生かされている恵みを感謝し、まず神と主イエスを愛し、礼拝することから始めましょう。そうしたら、隣人を愛し仕えてゆく愛と力が聖霊を通して神から豊かに注がれます。弱さのあるわたしたちが隣人を愛するには、愛の源である主なる神に寄り頼むしかありません。まず、神から与えられているすべてを主におささげし、主のために生き、主の恵みに生きることを選びとってゆきましょう。