霊の実・善意

「霊の実・善意 神の気前の良さ」 11月第四主日礼拝宣教 2020年11月22日

 ガラテヤの信徒への手紙 5章22節〜23節 

 マタイによる福音書 20章1〜16節      牧師 河野信一郎

おはようございます。今朝も皆さんとご一緒にこの礼拝堂で、またインターネットを通してこのように礼拝をおささげできる幸い、恵みを神様に感謝いたします。

3連休の最中ですが、東京だけでなく、全国的にコロナウイルス新規感染の拡大が収まらず、感染者数は過去最高記録を連日塗り替え、昨日は全国で2542人となりました。国民の健康と生活、そして医療機関に携わる専門家たちは悲鳴にも似た提言を繰り返していますが、首相は昨日まで無言を貫きました。ヨーロッパや北米、中南米の状況をニュースで見ても、目を疑うような感染者数と死亡者数です。そのような深刻な事態の中、一方では予防対策を一生懸命にしている人たちや生活のために仕事を続けなければならない人たちがいて、もう片方では感染のリスクを承知の上で、経済維持のために外出や外食を呼びかける人たちや、これまでのストレスを発散させるかのように平気で旅行や会食に出かけて行ってしまう人たちもいます。そういう状況を目の当たりにしながら、とても困難な日々、葛藤の多い日々をわたしたちは送っています。

そのような中で、教会とイエス・キリストに従う者たちはこのコロナの混乱の中でどのように生活すべきかと考えさせられますが、様々な考えや感情が入り混じる中でも、神様の望んでおられるようにわたしたちは前進すべきと考えます。つまり、このような時だからこそ、神様と主イエス様に信頼し続け、たゆまずに霊の実である愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を結んで行くことが求められていると、わたしはそのように信じます。

絶えず祈りつつ心がけるべきでありますが、今は、人の配慮の無さに対して怒ったり、気ままに生活する人を妬んだり、互いに裁き合う時ではありません。今こそ、主にあって愛と親切、寛容と節制の実を結ぶ時です。確かにわたしたちは先のことが見通せない不安と混乱の中に置かれていますが、今はわたしたちの信仰が試される時、ずっと我慢の時、祈る時です。

さて、宣教に入る前に二つご案内があります。来週29日から12月6日を世界バプテスト祈祷週間として過ごします。日本バプテスト連盟からインドネシアとカンボジアへ派遣されている二組の宣教師家族、ルワンダで働いておられるミッションボランティア、シンガポールに派遣されているミッションコーディネーターをはじめ、世界中に派遣されている宣教師たちを覚えて祈る8日間を過ごしますが、来たる29日の礼拝では、アメリカからこの日本へ派遣されているスコット・ブラッドフォード宣教師が宣教をしてくださいます。今年の途中から日本バプテスト宣教団の東京チームのリーダーとしてジュリーさんと共に働いてくださり、大久保教会のためにもいつも祈り、協力してくださる先生です。どうぞ祈りに覚えてご出席いただきたいと思い、ご案内いたします。

もう一つのご案内は、インターネット環境が必要なのですが、もしユーチューブをご覧になることができますならば、ぜひ「CGNTVジャパン」というチャンネルを検索し、その中にあるドキュメンタリー「私たちが愛した最後の時間(愛するがゆえ続編)という番組をぜひご覧いただきたいと思います。韓国から医療宣教師として30年前にフィリピンへ派遣されたパク医師がマニラのスラム街と周辺の過疎地、山奥に生きる人たちに仕えた記録です。この番組は、末期のガンを患ってもなお治療を続けながらも最後の最後までフィリピンの人たちを愛し、仕えたパク医師・宣教師の証です。

とても私には真似のできない献身的な働き、頑固なほどまでの意志の強さ、フィリピンで小さくされている人たちを愛し続け、神様の愛を分かち合い、宣教を続けた一人のクリスチャン医師の記録です。このパク先生の生き様を見ている中で、霊の実を結ぶとはどういうことなのかがよく分かると思います。本編と続編がありますが、続編は日本語ですので、見やすいと思います。しかし、日本語字幕だけの本編の方を最初に見ると良いと思えます。他にもギリシャでジプシー民族を対象に伝道する宣教師夫妻や南太平洋にある小さな諸島バヌアツで伝道する宣教師夫妻の記録もありますので、今日か明日のお休みの時にどうぞご覧になってみてください。迫ってくるものがあります。

さて、今朝もご一緒にガラテヤの信徒への手紙の5章22節と23節に記されています9つの霊の実を1つ取り上げて聖書に聴いてゆきたいと思いますが、すでに「愛」、「喜び」、「平和」、「寛容」、「親切」いう実について主イエス様のみ言葉と使徒たちを通して神様が語られるみ言葉に聴いてまいりました。

前回は「親切」という実についてイエス様の言葉に聞きましたが、この「親切」という実を結ぶことイコール隣人に対する愛の実践であることを学びました。わたしたちは親しい人たちには何の問題もなく親切になれますが、ギクシャクした関係性、あるいは敵対した関係性の中にいる人に対しては親切にしたいと考えも思いもせず、できるだけ一定の距離を保って関わりを持たないようにします。しかし主イエスの言葉から前回学んだのは、関係性がよろしくない人たちとの交わり、関係性が愛と喜びと平和と寛容で満ちたものとなるためには、まずわたしたちから「親切」になることが必要不可欠であるということでした。

「親切になる」とは単純に「優しくなる」ということを学びました。その中で、救い主イエス・キリストが罪人であるわたしたちに対する神様の愛、優しさの表れであることを聴き、この優しさという神様の恵みにより、イエス様を救い主と信じる信仰によってわたしたちは救われている。その信仰を与えられている者に対しての神様の御心は、イエス様のように隣人に優しく、親切に生きることであり、ご聖霊の助けと励ましを日々受けつつ、わたしたちが結ぶべき霊の実であることを学びました。

今朝は「善意」という霊の実を結ぶことについて聴きますが、この霊の実はどのような実なのでしょうか。ギリシャ語では、「アガソシネ」という言葉が用いられていますが、わたしが所有している日本語の聖書訳、詳訳、口語訳、新共同訳、新改訳、新改訳2017年訳、現代訳、リビングバイブル、岩波訳、聖書協会訳はすべて「善意」という言葉で訳されています。この「善意」という言葉を辞書で調べますと、「善良な心、他人のためを思う心」という意味だとありました。英語の聖書を13訳ほど調べましたが、ほとんどの訳、11の聖書訳がこのアガソシネというギリシャ語を「Goodness」という言葉で訳していまして、その意味を調べますと、「善良さ、優しさ、親切心、寛大」と人柄について定義されていました。つまり、他の複数の霊の実と共通する部分がこの「善意」という実にはあるということだと思います。

さて、誠に残念ながら、ペテロやヨハネたち使徒は「善意」という霊の実について彼らの手紙の中では一切触れていません。この言葉が出てきません。ただ使徒パウロの書簡を見ますと、ローマ書12章8節と第二コリント8章6−7節、9節、19−20節では「善意」が「慈善」(あわれみ慈しむこと、不幸や災害にあって苦しんでいる人を援助すること)と訳されています。また、少し前の第二コリント8章2節を見ますと、「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に『惜しまず施す』豊かさとなった」と記されており、「物惜しみしないこと、寛大、気前の良さ」を意味する言葉としてパウロ先生はこの言葉を用い、同じ第二コリント9章11節と13節でも同じように用いています。テモテへの第一の手紙6章18節では、「善を行い、良い行いに富み、物惜みせず、喜んで分け与えるように」と善意のオンパレードのように使徒パウロからテモテへ書き送られています。

さて、ローマ書の10章12節を見ますと、そこにはもっと興味深いことが記されています。「ユダヤ人とギリシャ人の区別なく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を『豊かにお恵みになる』からです」と記されています。ここには、主なる神様は、人を分け隔てなどされない、すべての人を平等に愛し、恵みを与えてくださるお方であるということが記されています。今回この「善意」という言葉を調べる中で気づかされたのは、この「善意」という実は、前回学びました「親切・優しさ」という実に神様の愛をさらに上乗せしたような、アイスクリームで例えるならばダブル、トリプルスクープのような恵み豊かな実であることだと示されます。

わたしがこの言葉について思い巡らしていた時に心に最初に迫ってきたのは、マタイによる福音書の5章38節から42節に記録されている主イエス様の言葉でした。このようにあります。「『あなたがたも聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、わたしは言っておく、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。』」

なぜこの箇所が迫ってきたのかというと、ガラテヤの教会がキリストの福音、救いに対する理解の違いから二つ、あるいは三つに分断され、クリスチャン同士が互いを理解しない、愛さない、相手のために祈らない、許さないで、互いを裁き合い、傷つけ合い、それによってみんなが傷や痛みを負って苦しんでいたという事情をわたしが知っていたからだと思います。ただ、この箇所も霊の実を結ぶということを考えてゆく中で聞くべきとても重要な箇所であると思います。しかしながら、唯一の問題は、この箇所を何度繰り返し読んでも、「アガソシネ・善意」という言葉がどこにも見つからないのです。

この「善意」という言葉が唯一福音書に出てくるのが、マタイによる福音書20章でイエス様がぶどう園の労働者のたとえをもって天国について教えられた箇所です。このたとえは他の3つの福音書には記されていないマタイ特有のイエス様の言葉です。

忘れる前にお伝えしますが、大久保教会の教会学校と水曜日の祈祷会では、聖書教育に従って、来週の29日から4月末まで、マタイによる福音書に聞いて行きます。ぜひ教会学校、水曜日の朝と夕方の祈祷会に参加してください。しかし、面白いことに今回のマタイ20章はスケジュールに入っていませんので、今朝ご一緒に聞きましょう。

このぶどう園で働いた労働者たちのたとえ話は多分何度もお読みになったり、お聞きになっていると思いますが、ぶどう園の主人が労働者を雇うために夜明け前に街角へ出て行って、1日につき1デナリオンの約束で労働者を雇います。当時は日雇い派遣の労働者ばかりであったことがうかがえます。毎日仕事があるのが当たり前ではなく、仕事がない日々、不安の日々を過ごす労働者とその家族が多かったということです。ぶどう園の主人は9時頃、12時頃、3時頃にも街角で立っている人たちを雇い、ふさわしい賃金を与えると約束します。そしてもう太陽が夕日に変わる5時頃にも街角で立っている人たち、だれも雇ってくれる人がいない人たちを見つけて、彼らを雇ってぶどう園へ送ります。

8節から読みましょう。「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、5時頃に雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

この15節にある「気前のよさ」という言葉がアガソシネという「善意」と同じルーツがあるアガソスという言葉が用いられています。イエス様がこの言葉を用いられたのはこの箇所だけです。つまり、ご聖霊に助けられて「善意」という実をわたしたちが結ぶというのは、神様のように気前よくなりなさいということです。けちな人、みみっちい人、出し惜しみをするような人にはならずに、気前よく神様から受ける愛、恵みを分かち合いなさいということです。わたしたちが手にしているものは、すべて神様から与えられたもの、すべて恵みです。神様から与えられていないものは何一つありません。神様はわたしたちを愛し、わたしたちに恵みを与えたいのです。神様は全宇宙でもっとも気前の良いお方です。限りない愛と慈しみを持たれた神です。すべての人を同じように愛しておられて、そこには「えこひいき」はありません。神様はわたしたちをご自身のもとへ、天国へと招いておられます。

ぶどう園の主人に最初に雇われた人たちは、朝早くから希望がありました。夕方5時まで街角に立っていた人たちはずっと不安の中に置かれていました。皆さんは、どちらが良いですか。50年前にイエス様と出会い、信仰が与えられた人も、40、30、20、10、5、1年前、昨日イエス様と出会って救い主と信じた人も、神様の愛と憐れみによって、神様の気前の良さによって天国への希望がもれなく与えられています。わたしたちが地上で労働に費やす時間と労力はみんな違います。しかし、みんな神様の気前の良さによって天の国へ招かれ、そこで永遠に神様と過ごすことができるようになります。わたしたちは自分の行いによって救われるのではなく、神様の愛と憐れみ、気前の良さによって救われ、信仰が与えられ、喜びと平安と希望が恵みのうちに与えられているのです。わたしたちは幸いです。主に感謝いたします。

この恵みを一人でも多くの人々と分かち合って行きましょう。それが「善意」という実を結ぶことだと教えられます。