神は、わたしたちと共に

『神は、わたしたちと共に』 十二月第三主日礼拝 宣教要旨 2013年12月15日

イザヤ書7:14,マタイ福音書1:18-25  副牧師 石垣茂夫

マタイは、イエス・キリストの誕生を、700年前のイザヤの預言の成就(じょうじゅ)として(とら)え、希望の預言として、その言葉を伝えた。(マタ1:23、イザヤ7:14)

マタイ福音書・18節から25節にわたり、主イエスはヨセフの子として誕生することが記されている。そして、この短い箇所に書かれていることは、神が御使いによって、ヨセフがマリヤを妻としてむかえること生まれてくる男の子に名前を付けることのみである。ヨセフは夢の最後で、生まれてくる男の子に「イエスと()づけなさい」と()げら、その言葉に従った。

なぜ、「イエス」という()なのか。

「イエス」の名は「主なる神はわたしたちの救い」という意味があるが、特別な名前ではなく、ごく普通に、長男に付けられる名前であった。長男の誕生は、古代の人々にとって特別な喜びであり、家系の将来を左右する出来事であった。そこで、長男が与えられるなら、家族は「主なる神はわたしたちを救って下さった」と、神に感謝し「イエス」と名づけた。

神はご自分の子に、ごく平凡な「イエス」という名前を付けることを望み、神がわたしたちと同じ人となり、わたしたちと共にいることのできる人として、わたしたちに出会って下さるためであったと言えるのではないか。

若いヨセフとマリヤは、結婚を前にして婚約の期間を過ごしていたが、聖霊によって身重になったとある。聖霊によってということは、神によってと同じことである。

しかしヨセフは、自分以外の、予期せぬ出来事によって、婚約者のマリヤが“子を宿す”ことになったと気付き、ひそかに離縁しようと決心した。(1:19)。

ヨセフはどれほど苦しんだことだろうか。ヨセフは絶望しながらも、マリヤの悲しみを思い、マリヤに(つら)い出来事が起きるのを避けようとさえした。ヨセフは、その後、間もなくして、神は予期せぬ出来事をもって、自分たちに関わって来られたことを、夢の中で告げられた。

この苦悩のなかで、ヨセフとマリヤは、どんな言葉を交わしていったのだろうか。二人は互いに、神によって告げられたことを語り合ったに違いない。苦しみ、悩みつつ語り合いながら、次第に、自分たちに起こされたこの出来事を、神によって与えられたこととして受け入れて行ったのではないだろうか。

ヨセフは苦しみの中で決断し、マリヤを妻として迎え、やがて「イエスの名の、名付(なづ)(おや)」となった。このヨセフの決断をもって「神は、イエスという名で、わたしたちと共に」いてくださることになった。そのヨセフはマタイ3章までで姿を消していく。

そのようにして与えられた主イエスを、わたしたち人間は、素直に受け入れたのではない。わたしたちはイエスを軽蔑し、裏切り、ついには十字架の死へと追いやってしまった。

イエスという名で与えられる神の子を知って悩む、ヨセフとマリヤの姿を、神はずっと見ておられた。わたしたちの(かたわ)らにお生まれになり、わたしたちを罪の子のまま、悩みの中にあるまま、そのままで救い、用いて行かれる神の働きを、このクリスマスの時にこそ、注目しよう。