「あなたの救い主に出逢う備えをせよ」 十二月第一主日礼拝 宣教 2024年12月1日
アモス書 4章4〜13節 牧師 河野信一郎
おはようございます。早いもので、2024年も今日から12月です。今日からアドベントが始まりましたが、礼拝堂もクリスマスの飾り付けが先週なされ、今朝はクリスマスクランツのろうそくに火が一つ灯りました。とても美しいですね。今朝もこのように、皆さんとご一緒に、神様に礼拝をおささげできる幸いを主に感謝いたします。先日のニュースで、寒暖の差が10℃を超える日は体調を崩しやすく、今週はそのような寒暖差のある日が三・四日あるとのことです。最近は、風邪だけではなく、インフルエンザ、マイコプラズマ肺炎、新型コロナの感染が流行っているそうですので、どうぞ気をつけてお過ごしください。
さて、今年のクリスマス集会の案内が準備されました。22日の朝のクリスマス礼拝と祝会、そして夕べのクリスマス礼拝、そして24日夕方のクリスマスイブ礼拝を覚えて祝福をお祈りいただきたいと思います。22日の夜は、昨年に引き続き、The BRIDGEクリスマスコンサートがあります。わたしもコンサートの最後にクリスマスのメッセージをします。どうぞご家族やご友人をお誘いください。今年のクリスマスをご一緒にお祝いいたしましょう。
さて、一階ホールにクリスマスツリーが飾られています。子どもたちが本当に頑張ってクリスマスツリーやネイティビティを飾ってくれましたが、ちょっと気になった部分がありましたので、修正をさせていただきました。気になった点というのは、写真のように二つのネイティビティを左右に置いてくれたことです。子どもたちはとても素敵だと思ったのかもしれません。豪華だと感じたのかもしれません。左側は20年ほど前にキリスト教書店で購入した物で、右側はJOCSから小児科医師としてタンザニアへ派遣されたK先生が隣国ウガンダで購入されて教会にプレゼントしてくださった物です。わたしが少し気になったのは、イエス様が二人いるということです。確かにマリアも、ヨセフも、博士や羊飼いも2セットずつあるわけですが、やはり一人の赤ちゃんイエス様に集中することが大切だと思うのです。ですので、1セットはそのまま受付のところに置き、もう1セットは教会表の立て看板の中に飾りました。礼拝堂にも素敵なネイティビティが飾られています。それぞれの場所に一つのネイティビティを置くことで、幼な子イエス様に集中することができると思うのです。
イエス様にだけ集中する、フォーカスするということに関して、面白い写真を先日見つけましたので、ぜひ皆さんにも見ていただこうと思いました。この写真は、香港の街中の様子、夜の交差点を写したものです。香港では、夜の交差点で信号の光を路面に映す機械を設置し始めたそうです。その理由は、歩行者たちがスマホばかり見て、赤信号を無視して歩くものですから人身事故が増えたそうで、歩行者の目線の先にある路面を赤と緑のライトで照らすことで事故を未然に防ぐ目的があるそうです。日本も同じです。大勢の人たちが歩道や駅のホームでスマホを見ながら歩いています。とても危険です。下手すれば、大切な命を事故で失いかねません。わたしたちは、スマホとか、ゲーム機とか、本ではなく、世の光であるイエス様に集中すべきです。世の光であるイエス様がわたしたちの心の闇の部分を照らし、罪の赦しと救い、喜びと平安と希望、真の生き甲斐と感動を与えてくださるからです。
さて、先月から「わたしたちを待たれる神」というテーマで、神様が旧約聖書の時代からわたしたちを祝福するためにずっと待っていてくださるということを聴いています。そのためにまずわたしたちが神様に立ち返ること、祈ることが大切だということをイザヤ書と詩編から聴いてきましたが、今朝と来週はアモス書から神様はわたしたちにどのようなアクション、信仰的行動を待っておられるのかということを聴いてゆきたいと願っています。
今朝は、「あなたの救い主と出逢う備えをせよ」という主題で神様からの語りかけに傾聴してゆきたいと願っていますが、最初は「わたしたちの帰りを待つ神」というタイトルを考えていたのですが、12節の「お前は自分の神と出会う備えをせよ」という言葉に集中しようと強く感じましたので、「あなたの救い主と出逢う備えをせよ」というタイトルにしました。
夕礼拝でも先月分かち合ったことなのですが、青春期をアメリカで過ごした者にとって、今でも漢字に苦労しますが、漢字の「出会い」と「出逢い」の違いを最近までよく知りませんでした。国語辞典で調べてみますと、「出会い」という漢字は新しい人や物事と初めて接することを意味し、友情、恋愛、職場など様々な状況下で使う漢字で、もう一つの「出逢い」という漢字は、かけがえのない親友、恩師、結婚相手、同僚との運命的な出逢い、人生に大きな影響を与える人との出逢いを表す漢字ということで、たいへん勉強になりました。
イエス・キリストと出逢うとは、ただの出会いではありません。漢字が違います。かけがえのない救い主との運命的な出逢いが与えられ、神様の愛によって心、生き方、人生が大きく変わるという大事件なのです。出逢い方は人の数だけありますが、それぞれかけがえのない運命的な出逢いです。そのすべては神様が導いて与えてくださる恵みの出逢いなのです。
わたしたちは、イエス様がこの地上に誕生された意味と目的を知りつつ、これまで何年クリスマスを喜び祝ってきたでしょうか。あるいは、救い主の誕生の意味と目的を知らないで、これまで何年クリスマスを楽しんできたでしょうか。クリスマスを楽しむのと喜び祝うのは次元がまったく違う体験です。一方は、自分や愛する人たちの心を喜ばせるための年にたった1日のイベントです。しかしもう一方は、神様の愛であるイエス様を信じて心に受け取り、神様の愛で心が満たされる、そういう神様の愛の力を体験する、喜びが絶えない永遠の祝いです。クリスマスは一瞬のイベントではなく、神様の愛を永遠に喜ぶ礼拝なのです。
アモス書を1章から読み進めてゆきますと、北王国イスラエルと南王国ユダが神様に対していかに罪深い生活をして来たのかがよく分かります。二つの王国だけでなく、その王国を取り巻く隣国たちも同じです。北王国イスラエルは、エルサレムという聖地があるにも関わらず、自分たちの国の中にあるベテルやギルガルを聖地と定めて、民に巡礼をすることを勧めました。本来はエルサレムでささげるべき礼拝を自分たちの都合で変更したのです。
4節と5節に、「4ベテルに行って罪を犯し ギルガルに行って罪を重ねよ。 朝ごとにいけにえを携え 三日目には十分の一税を納めるがよい。5感謝の献げ物に酵母を入れたパンを焼け。大声で、随意の献げ物をする、と触れ回れ。イスラエルの人々よ それがお前たちの好んでいることだと 主なる神は言われる。」とありますが、人々は神様が喜ばれる礼拝をささげていると思い込んでいるだけで、神様は全く喜んでおられないと言っているのです。
今日においては、礼拝が形骸化している、ただの形式的な見せかけの礼拝、自己満足の礼拝になっていて、神様の愛に対する感謝も喜びもない、心がまったく込められていない、礼拝堂にただ座っていて、心はどこか他にある、そういう礼拝になっているとの警鐘がなされていると思います。皆さんの今の心はどうでしょうか。神様の愛を喜び、感謝をささげようと御前にいるでしょうか。神様を見ることはわたしたちには出来ませんが、神様はわたしたちの心とその信仰の姿勢を見ておられるのです。大いに気をつけなければならない警告です。
しかし、そのような警告がなされても、イスラエルの民は頑ななのです。心を入れ替えないのです。自分のことを言われていると思わない、誰か他の人のことを言っていると思う、そういう頑なさ、傲慢さを持っているのです。ユダヤ人は自分たちは神に選ばれた民であると主張する傲慢さがあり、バプテスマを受けてクリスチャンになったら、もうそれで大丈夫と高を括り、神様の求める実を何も結ばない、悔い改めることをしない怠慢さがあるのです。
そのような頑なさ、傲慢さを打ち砕き、悔い改めを促すために、神様は警告のしるしを5つイスラエルの民に与えます。第一が6節にある食糧難です。「お前たちのすべての町で歯を清く保たせ、どの居住地でもパンを欠乏させた。」とありますが、食べ物が何もないので歯は汚くならないのです。第二の警告は7節と8節にある異常気象です。雨が必要でない場所に雨を降らせ、必要な所には降らせないので畑は枯れ、飢え乾きを覚えるのです。
三つ目は9節に記されている植物に病気を与えて枯れさせたり、いなごの大群で収穫を食い尽くすのです。第四の警告は、10節にある疫病と戦争です。「かつて、エジプトを襲った疫病を わたしはお前たちに送りお前たちのえり抜きの兵士と 誇りとする軍馬とを剣で殺した。」とあります。最後は、11節ですが、かつてソドムとゴモラの町が一瞬で滅亡したような災害をもって警告するというのです。これらの警告はすべて過去形になっていますが、これは将来への預言であり、神様の言葉は確実だから今日悔い改めよと促すのです。
これらの五つの警告は、現代のわたしたちにも当てはまるのではないでしょうか。神様はこれらの警告をもってわたしたちが神様に立ち返ることを待っておられます。他にも深刻な格差社会の広がりがあります。社会的不正と不道徳、貧しい人々への差別や搾取、物質的な物で心を満たそうとする偶像礼拝が起こっています。まやかしの宗教もたくさん出て来て人々を惑わしています。しかし、これらの警告の言葉の最後に何とあるでしょうか。「しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと 主は言われる。」と5回も記されています。
こんなにはっきりと警鐘が鳴らされ、目に見える警告が発せられているのに、それを聞こうとも、見ようともしない。それがわたしたち人間の弱さでありますが、そのままで良いのでしょうか。良いわけがありません。12節の「それゆえ、イスラエルよ わたしはお前にこのようにする。 わたしがこのことを行うゆえに イスラエルよ お前は自分の神と出会う備えをせよ。」という言葉は、神様が裁くために来られるから待っていなさいということです。誤解を恐れずに過激な言葉で言うならば、首を洗って待っておけと言う厳しい言葉です。
神様は、13節にあるように、「山々を造り、風を創造し、その計画を人に告げ 暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を踏み越えられる。その御名は万軍の神なる主」です。確かに神様は、不正・不義を嫌われる聖なるお方、義なる神です。しかし、神様はそれにも増してわたしたち罪人を愛される愛の神であります。この神様は、わたしたちを罪という闇の中から救い出すために、神様の独り子イエス・キリストをお遣わしくださいました。このイエス様はわたしたちを裁くためではなく、救うためにこの世に誕生してくださり、この地上を歩まれ、わたしたちの罪の代償をその身に一身負って十字架に死んでくださいました。イエス様はわたしたちのために贖いの死を遂げるために生まれてくださったのです。あなたの、わたしの、わたしたちの救い主と出逢う備えをせよと神様はお命じなります。
イエス様を救い主と受け入れていない方々は、あなたの救い主とこのクリスマスに出逢う準備、祈りをしてください。イエス様を救い主と信じているあなたがたは、イエス様が再びこの地上に来られて出逢ってくださると約束されていますから、その備えをいたしましょう。それが、神様がわたしたちに求めて、待っておられることです。心の備えをしましょう。