ルカによる福音書22章39〜46節
イエス様の弟子たちとの最後の晩餐の場面は前回で終わりました。今回は、ご自分の受難が始まる直前、十字架に架けられる前に、イエス様が弟子たちを引き連れてオリーブ山にゆき、そこで祈られた場面にスポットライトが当てられます。
聖書の後ろにある「新約時代のエルサレム」の地図をご覧になられると一目瞭然ですが、オリーブ山は、エルサレム神殿の東側にあるキドロンの谷を渡った所にあります。マタイとマルコ福音書は、イエス様が祈られた場所を「ゲッセマネの園」と記録していますが、その園はオリーブ山の麓にあります。「ゲッセマネ」とは、「油しぼり」という意味ですので、オリーブオイルを絞る場所近くにある園(畑)でありましょう。21章37節に、「イエスは、日中に神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた」とありますので、その場所はイエス様が親しまれた休息の場所、祈りの場所であったと考えられます。
そのような場所へ、弟子たちとの最後の食事を終えたイエス様は戻られます。39節に、「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った」とあります。オリーブ山のゲッセマネの園へ行くのは、弟子たちにとっても、いつものルーティーンであり、イエス様にとってもいつもの場所で祈ることがルーティーンであったのです。わたしたちが水曜日には教会で祈祷会の時をもち、日曜日には礼拝をするのと同じです。神様にお祈りをささげる事も、礼拝をおささげする事も、奉仕をする事も、毎日行う事としてルーティーン化することがわたしたちの信仰生活には大切です。
さて、他の福音書と比較しますと、ルカによる福音書には祈りについての教えが格段と多く記されています。イエス様ご自身が宣教を開始する時から、節目ごとに祈られた方であること、「祈る人」であったことを丁寧に記しています。例えば、3章21・22節を読みますと、バプテスマを受けられた後に祈っておられると、聖霊が降ったとあります。6章12・13節には12弟子を選ぶ前に夜を徹して祈られたことが記され、9章18節にはご自分の受難のことを弟子たちに初めて話される前にも祈られたということが記されています。
21章34〜38節にも、わたしたちの心が鈍くならないために「目を覚まして祈り続けなさい」と言われたイエスの言葉を聞きました。そして今回も祈りがテーマとなっています。理由は、この混沌として現代、戦争や紛争が多く、自然災害が多い時代、終末が近いと感じるような時に、イエス・キリストのみ名によって神様に祈ることがわたしたちに必要であり、とりなしの祈りがこの時代には、以前にも増して必要だからです。
今回は、イエス様が弟子たちに対して繰り返しお命じになられた言葉に注目したいと思います。その言葉とは40節と46節にある、「誘惑に陥らないように祈りなさい」という言葉です。この39節から46節の箇所は、弟子たちに対するこのイエス様の言葉でサンドイッチした形になっています。
なぜ主イエス様は同じことを2回繰り返されたのでしょうか。先程も触れましたように、わたしたちには神様に祈る事が重要だからです。祈りが、神様とわたしを、神様とわたしたちをつなげるからです。「祈るとは神に触れることである」と誰かが過去に言いましたが、人生の節目だと感じた時、忙しくて心が乱れる時、試練や深い悲しみに直面する時、神様に祈って、神様にわたしたちの心の中にある思いを伝え、そして神様からの声を聴くこと、神様の愛に触れる事がわたしたちに絶えず必要なことであるからです。
40節に「いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた」とあり、46節にも、「イエスは言われた。『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい』」との弟子たちへのイエス様の言葉がありますが、わたしたちが陥りやすい誘惑とは、いったい何でしょうか。
まず弟子たちの場合から見て行きたいと思いますが、現在読んでいる22章だけに限っても、ユダの裏切り予告、弟子の中で誰が一番偉いかとの議論、ペトロがイエス様を知らないと否定する予告、お金と持ち物と剣を持つことについて触れられています。これらが、弟子たちがこれから直面し、将来的に直面する「誘惑」に直結していたと考えられます。イエス様のことを考えるよりも自分の考え、思い、願いを弟子たちは優先させています。
では、いま生かされているわたしたちが直面している、今後直面すると考えられる「誘惑」は、いったい何でしょうか。多種多様な誘惑があります。自分のことしか考えない、すぐに結論づける、すぐに人を裁く、人や持ち物を自分や自分の持ち物と比較する、新しいものがすぐに欲しくなる貪欲さ、現状維持、現実逃避、大切なことを先延ばしにしてしまうことがあります。怒る、恐れる、悲しむ、悩む、疑う、逃げる、諦めるという誘惑も常に付き纏います。その他にどのような誘惑があるでしょうか。無数にあります。
ルカ福音書から少し逸れますが、使徒パウロは弟子のテモテに次のように書き送っています。テモテへの手紙二3章1節から5節(p393)です。「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。」とあります。
「こういう人々を避けなさい」という言葉には、「このような人になることを避けなさい。すべての誘惑を避けなさい」という意味があると思います。サタンがイエス様を陥れるために、イエス様にも誘惑がありました。しかし、イエス様はサタンからのすべての誘惑に勝ちました。どのようにしてサタンとその誘惑に打ち勝つことができたのでしょうか。それは神様に祈ることにあるとイエス様は教えようとされるのです。
それでは、41節から44節をもう一度読みましょう。ちなみに、43節と44節がカッコ付されているのは、43節と44節は数多くある有力な写本の中で、この箇所が省かれている写本が一部あるので、このような形になっています。しかし、そのまま読むことが良いとわたしは考えます。
「41そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。42『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』〔 43すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。44イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕」とあります。
イエス様は弟子たちに神様に祈ることの重要性を教えようとしていますが、ルカがここで強調しているのは、イエス様の祈りの姿勢とその内容です。ユダヤ人は、通常、神様に祈る時は立って祈ります。跪いて祈ることは普通ではありません。しかし、イエス様は跪いて祈られた。その理由として考えられてきたのは、1)神様に対する謙遜と切なる祈りであったから、2)立っていられないほど十字架の重圧に苦しんでおられたからという考え方をわたしはずっと持っていましたが、事前の学びが不十分であったと痛感しています。
確かに、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」とありますし、「天使が天から現れて、イエスを力づけた」とありますから、壮絶な祈りであったことに変わりありません。それはごく当たり前です。もう数時間後には十字架に架けられて大きな苦しみを十字架上で6時間も味わうのですから。イエス様の「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」という叫びにある「杯」とはイエス様の苦しみの象徴であると同時に神様の裁きをも象徴するものです。
イエス様のその苦しい心境をお察しするだけで、心が押し潰されそうになりますが、イエス様は、ご自分のためではなく、わたしたちの罪をすべて一身に負って、十字架に架かって、死んでくださったのです。これほどまでに大きな愛、世界中を見渡しても何処にあるでしょうか。はっきり言ってないです。人間にはない。神様にしかない愛だからです。
イエス様の祈りは、神様への謙遜で切なる祈り、死の重圧に耐えながらの祈り、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と神様の御心を第一とする祈りですが、同時に弟子たちとの別れの祈りであったと註解書にありました。イエス様が弟子たちの今後のために、イエス様が天に上げられた後に降りかかってくる試練・迫害から守られるように、イエス様は父なる神様に祈られたと神学者たちは捉えています。
ルカ福音書と使徒言行録を記録したルカは、使徒言行録の20章36節、21章5〜6節、21章14節で、使徒パウロがその土地の人々と最後の別れをする時に、跪いて神様に祈ったということが記されています。それは、イエス様が弟子たちと別れる際に、弟子たちのために祈られた時、神様の御前に跪いて祈られたということがあったからと捉えています。
しかし、イエス様に祈られていた弟子たちはどうであったでしょうか。45節に「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」とあります。イエス様が自分たちのために心を注いで、汗を血のように流しながら祈ってくださっている最中に、弟子たちは寝入っていたのです。しかし、ここで注目しなければならないのは、「悲しみの果てに、眠り込んでしまった」という点です。
それでは、弟子たちはいったい何を悲しんでいたのでしょうか。詳細はここには記されていませんが、祭司長たちがイエス様を殺そうとしていることをやっと感じ取るようになり、イエス様を取り巻く状況が一変し、イエス様が直面してきたユダヤ社会からの拒絶がさらにエスカレートすることを感じとり、イエス様との別れが近いかもしれないと感じ始めたからかもしれません。思い煩いすぎることや取り越し苦労もあったでしょう。そういう中で感情的に打ちひしがれるようになっていたのではないかとも考えられます。
それでは、わたしたちはどうでしょうか。わたしたちはイエス様のことではなく、自分たちのことで思い煩い、取り越し苦労をし、悩み苦しみ、落ち込み、塞ぎ込み、疲れきって眠ってしまうことが多いのではないでしょうか。そういうわたしたちに「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬように、起きて祈っていなさい」とイエス様はおっしゃいます。
わたしたちは自分のことで忙しい時は神様に祈ることはせずに、試練や苦悩の中でやっと神様の前に跪き、身勝手に祈ります。しかしイエス様は、そのような弱さを持つわたしたちをそれでも愛してくださり、神様に祈り続けなさいと励まし続けてくださいます。
それは、わたしたちの周りに「誘惑」が多いからです。わたしたちを惑わし、わたしたちの心を神様から遠ざける力が強いからです。そのサタンの力に打ち勝つ力は、わたしたちにはありませんが、神様にあります。ですから、信仰の目を覚まして、その力を神様に切に祈り求めなさいとイエス様は弟子たちを、そして今日もわたしたちを励ますのです。