ルカ(93) 祈りの心とその本質を教えるイエス

ルカによる福音書18章9〜14節

今回の学びの譬えは、前回の譬えに続き、ルカ福音書独自の譬えとなっていますので、そこに関連性があると言えます。1節には、「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」とありました。わたしたちが、失望せずに、神様に祈り続けるべき事、求め続けるべき事とは一体何でしょうか。

 

それは、18章の前の17章20節から37節でイエス様が教えられたことに関連します。すなわち、神の裁きの時、神の国が近づいているが、あなたは神によって御国に入れられるだろうか。もし自分は入れられないと感じるならば、自分の罪を悔い改め、神様の憐れみを祈り続けるべきではないかという悔い改めと祈りへの促しがされました。

 

すべての人は神の国に招かれていますが、神の国に入れられるためには、一人ひとりが自分の間違いを心から悔い改めて、神様の御前に「義」と認められる必要があるのですが、第一に重要なのはイエス・キリストを救い主と信じる信仰です。

 

そういう中で18章7節にあったように、「昼も夜も叫び求めている(祈り求めている)選ばれた人たちのために」、どのように絶えず祈るべきか、わたしたちが祈るときに絶えず心に持つべき「祈りの心」を今回の9節から14節でイエス様は教えようとされていると思います。

 

「選ばれた人」とは、神様のご意志によって選ばれた人たちです。ですから、自分の行いが素晴らしいからと自負して自分自身を神の民として選ぶことは、わたしたちにはできません。神様が選ばれ、神様が招かれるのです。

 

そういう中でイエス様が語られた譬えに聴いてゆきましょう。9節に、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」とあります。口語訳聖書では、「自分を義人だと自任して他人を見下している人たちに対して」となっています。

 

自任するとは、「自らを立派なもの、立派に生きることが自分の任務だと思い込む」と広辞苑にありました。また、「うぬぼれ」は、漢字では「己に惚れる」、「自に惚れる」と書きます。ナルシストの極みです。

 

いつの時代にもこういう自分は素晴らしいと思い込んでいる人はいますが、今回の学びの目的は、自分がその一人ではないかと自分を見つめ直すことではないかと思います。自分は常に正しく、他の人たちは常に間違っているとか、あるいは自分よりも一歩二歩劣っていると思い込み、人を見下している。とても残念な勘違いです。上には上がいるということを知らない愚かで傲慢な人と言わざるを得ないと思います。そういう勘違いをした人たち、わたしたちに対して、イエス様は譬えを話して大切なことを教えようとされます。

 

今回の学びの準備をしている中でローマの信徒への手紙3章10節から12節が心に迫ってきました。「正しい者はいない、一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。だたの一人もいない」という言葉です。口語訳聖書ですと、「義人はいない。ひとりもいない」と訳されていますが、神の御前に正しい人・義人が一人も存在しないのは、すべての人が罪に支配されているからです。あるいは、自分にうぬぼれ、罪の自覚がまったくないからか、自分の罪・弱さを認めつつも、自分ではどうすることもできないと罪悪感に苦しみ悶えて生きているからでしょう。わたしたちは、そのどちらかであると思われます。

 

このうぬぼれが強く、思い込みも激しく、あり得ない勘違いしている人の代表格としてイエス様が譬えの中で持ち出しているのがファリサイ派の人々です。譬えであったとしても、彼らをそのような存在として持ち出すのは危険行為だと思います。しかし、イエス様は敢えてそのようにされます。事実、ファリサイ派の人々はそういう人たちであったからでしょう。また、譬えを用いて弟子たちに真実を伝え、同じように生きてはならないことを教えようとされているのだと思います。

 

それでは10節を読みましょう。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」とあります。どちらもれっきとしたユダヤ人ですが、ファリサイ派の人は律法を厳粛に守る人たちで、社会的地位、信頼もあり、人々から尊敬されていた人たちです。

 

その一方、徴税人はローマ帝国のために税金を同胞から集める人たちで、集金したものの一部を着服したり、不正をする者たちとしてユダヤ社会から軽蔑されていた人たちです。

 

さて、ユダヤ人は、日に3度、朝9時、正午、午後3時に神にお祈りをささげますので、ファリサイ派の人と徴税人が神殿に来たのは、そのどちらかの時間帯であったしょう。神殿の境内には、他にもたくさんの人たちが祈るために居たと考えられます。

 

11節と12節に、ファリサイ派の人がどのように祈ったかが記されています。「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」とあります。

 

ユダヤ人は、神殿で祈る時は立って祈ります。エルサレムの嘆きの壁で黒ずくめのユダヤ人男性たちが立って祈っている様子をニュースなどでご覧になったことがあるかと思いますが、立って祈るのは神への「体の姿勢」です。

 

またここに、「心の中でこのように祈った」とありますが、この「心の中で」と訳されているギリシャ語を直訳しますと、「自分自身に対して」となります。すなわち、最初は「神様」と呼びかけてはいますが、祈りの内容は神様にではなく、自分を誇るために自分に祈っている、独り言を言っているような祈りです。ですから、この人は「わたしが、わたしが」と繰り返し、自己アピール、自画自賛しているのです。

 

しかし、ユダヤ人のほとんどの指導者や社会的地位のある人たちは、本当にこのように祈るそうです。自分が常日頃からどのような善行をしているのか、どのように律法を厳格に守って生きているのか、どれほど神に忠実であるのかをアピールするような祈りだそうです。

 

彼らは、自分以外の人たちを「奪い取る者、不正な者、姦淫を犯す者、徴税人のような罪人」と見ていて、自分がそうではないと神様に感謝をしていますが、ただのリップサービスです。

 

また、律法のどこにも週に2度断食をせよと命じられていないのに自分は頻繁にしているとアピールしたり、全収入の十分の一を神様にささげている、だから自分は偉い、素晴らしいだろうと自慢するばかりです。

 

彼らはユダヤ人になることを自ら選んで生まれてきたわけではありません。奪い取る者にならなかったのは、神様がすべての必要を満たしてくださったからです。不正を行わなかったのは、神様によって誘惑から心が守られていたからです。姦淫を犯さずにいられたのは良い伴侶や家族が神様から与えられていたからです。すべて神様からの恵みであるのに、自分の頑張りようで受けたかのような錯覚に陥り、自分に酔いしれていました。

 

すべては神様からの恵みであると捉えずに、神様に感謝するどころか、当然のように受けてしまい、自分の持ち物と他人の持ち物を勝手に比べて人を見下したり、裁いたりしてしまう。断食も、十分の一献金も、神様に集中するためとか、神様を愛するという思いからではなく、自分の素晴らしさをアピールするための単なるパフォーマンスにすぎません。

 

しかし、神様に祈るために神殿に来た徴税人は違っていました。13節に、「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」と祈ったとあります。

 

「遠く立って」というのはユダヤ人男性が入ることのできる庭の中でも聖所から最も遠い隅の方に立ったという意味でしょう。ファリサイ派の人は聖所の正面近くで祈ったと思われるのに対し、徴税人は神殿の隅っこから神様に祈ります。

 

「目を天に上げようともせず」とは、神様に顔向けができないという心の状態を表すものです。旧約聖書のエズラ記9章6節(p735)で、預言者エズラはこのように神様に祈っています。「わが神よ、御前に恥じ入るあまり、わたしは顔を上げることができません。わたしたちの罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪科は大きく天にまで達しています。

 

同じ9章15節後半では、「ご覧ください。このような有様で御前に立ち得ないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております」とあります。立っていられないほど、罪に打ちひしがれて弱っていたということでしょうが、今回の譬えに出てくる徴税人の心の状態も同じような状態であったのかもしれません。

 

彼は、「胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』と悲痛な叫びを上げるのです。「胸を打ちながら」とは、嘆き悲しみや悔い改めを表す仕草です。彼は心から自分の罪を悔い改めています。

 

「憐れんでください」とは、「赦してください」とも訳せますが、ギリシャ語をそのまま直訳しますと、「あなたの愛でわたしの罪を覆ってください」となります。

 

つまり、こういうことです。この徴税人は、「神様、わたしには自分の罪を償う術も、力も、何もありません。主よ、どうぞわたしを憐れみ、ありのままのわたしを受け入れてくださり、あなたの愛でつつみ込んでください」という願いをここでしています。悔い改めと罪の赦しと救いを求めています。

 

わたしたちが神様の御前に憐れみを受け、罪赦され、救われるためには、自分の弱さを認めて謙るということ、自分が神様に背を向けて歩んできた事実を認め、自分には自分を救う力はまったくないと認め、心から悔い改め(神様に立ち帰ること)、赦しを神様に求めることが必要です。

 

自分の力で律法を守るとか、自分の頑張りようだけで救われると思い込まないで、勘違いしないで、神様の愛と憐れみを切に求めることが大切です。その助けをイエス・キリストと聖霊が担ってくださり、助けてくださるのです。

 

詩編51編19節(p885)には、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません」とあります。「打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心」とは、謙遜な心です。イエス様は14節で、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われます。

 

義とされるとは、神様に御心に適った者として認められるということです。イエス様は、「だれでも神の御前に高ぶるものは神によって低くされ、神の御前にへりくだる者は神によって高められる」と言われ、いつも謙遜に、神様の憐れみを祈り求め、その恵みに日々感謝して、最善を尽くして応答してゆく者が神様の御許に招き入れられると言われます。

 

へりくだる、謙遜になるには、どのように心がければいつも必要なのでしょうか。「義」という漢字にヒントがあると思います。義という漢字を分解しますと、「我」という漢字の上に「羊」という漢字があります。羊とは、わたしたちの罪を贖うための神様への供物として神殿でささげられた犠牲であり、命です。

 

謙遜になるとは、つまり、わたしの「上に」、いつも神の小羊、イエス・キリストを常に置くということです。漢字を書く時も、まず「羊」から書きますね。つまり、日々の生活の中で何をなすにしても、羊であるイエス様を前に置いて行う、イエス様の御名によって祈ってから始める、そのような心の姿勢が謙遜に生きるコツであると言えます。信じて、実践してみましょう。そこに魂の救いがあり、平安があり、喜びが与えられるでしょう。