ルカ(94)  子どもたちを招き、祝福するイエス

ルカによる福音書18章15〜17節

18章を読み進めていますが、過去2回の学びは、ルカ福音書のみに記録されている主イエス様の2つの譬えでした。そして、そこには関連性があることを学びました。最初の譬えである1節から8節では、イエス様を信じて、「失望しないで祈り続ける」ことの重要性が弟子たちやイエス様に従う者たちに教えられました。神様にのみ信頼する信仰が大切だということを聴きました。次の譬えである9節から14節では、心から悔い改めて、神様の御前にへりくだり、いつも謙遜に、神様に救いを祈り求めることの大切さが語られました。神様の御前で高ぶる者を神様が低くされ、神様の御前でへりくだる者を神様が高められるということが教えられました。

 

失望しないで神様に憐れみと救いを祈り求める理由は、神の国が、主の裁きの時が刻々と、そして着実に近づいているからです。へりくだって祈らなければならない理由は、傲慢な者は、神様の御許に、御国へ迎え入られることは決してないとイエス様が教えるからです。この2つの譬え・教えの後に、今回のイエス様の言葉が置かれています。これにも意味と目的があります。興味深いことに、17章11節までさかのぼってゆきますと、そこからずっと神の国に関するテーマが繋がっていることが分かります。

 

すなわち、神様が招いてくださる神の国・御国は、1)ユダヤ人だけでなく、病人も、罪人も、異邦人もみな平等に招かれているということ(17:11-19)。2)神の国がいつ来ても良いように、罪から離れ、常にイエス様から信仰の目と耳を逸らさずに、神様には忠実に、隣人には誠実に生きる中で、神様によって御国へと招かれるということ(17:20-37)。3)人生の中にどのような辛いことがあっても、神様に信頼して生きる者が御国へ入れられるということ(18:1-8)。4)そして神様の御前に常に謙遜に生きる者が神の国に入れられるということ(18:9-14)が語られました。

 

これらイエス様の教えは、関連しており、すべて繋がっています。そして、今回の15節から17節に記録されている出来事は、イエス様の宣教活動の中で実際に起こった事として、神の国は誰に開かれているかというテーマに深く関連していることが分かると思います。ここでは、神様の価値観とわたしたち人間の価値観は違うということを教えます。

 

まず15節に、「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った」ということが記されています。ユダヤ教・ユダヤ社会では、祭司や長老のもとへ幼な子を連れてゆき、祝福を祈ってもらうことは習慣でした。しかし、この出来事から人々の中にあった三つの視点に注目したいと思います。

 

一つ目は、子どもたちの親の視点です。親にとって、子どもは「目の中に入れても痛くない」ほど、可愛いわけです。その愛する子どもをイエス様に触れていただき、祝福してもらいたいと親は願ってイエス様のもとに子どもたちを連れてきたと思います。これが親の視点です。

 

子どもに対する二つ目の視点は、弟子たちの視点です。弟子たちは、なぜ幼な子たちを連れてきた親たちを叱ったのでしょうか。もっと寛大でも良いのではないかと思ってしまうのですが、その理由として、彼らの心の中に、イエス様は子どもたちのために来たのではなく、大人たちのために来たという思いがあったのではないかと察します。すなわち、イエス様は、大人の病人、悪い霊に取り憑かれた人、人生に切羽詰まって救いを求めてくる人のためにおられると勘違いをしたのではないかとも思えるのです。つまり、子どもたちを「救いの対象外」と完全に見なしていたのかもしれません。ファリサイ派の人たちは、徴税人や罪人たちを「救いの対象外」と見なしていたのと同じです。そういう救いの対象外の子たちをイエス様のもとに連れて来た親たちに対して、イエス様の貴重な賜物と時間を無駄にするなと怒りをぶつけたかもしれません。そういうことも考えられます。

 

子どもに対する三つ目の視点、それはユダヤ教の視点です。ある神学者の書物に、子どもたちを連れて来た親たちを叱る弟子たちの判断は、ユダヤ教における子どもについての考え方に基づいた判断だと考えられると記していました。どういうことかと言いますと、「幼い子どもたちは、律法を守ることができないので、神の救いに値しない」という考え方があると云うのです。

 

日本には、「子ども叱るな、来た道じゃ。年寄り笑うな、行く道じゃ。」と云う言葉がありますが、ユダヤ教とユダヤ社会の権力者たちは、自分たちも昔は子どもであったという事実を都合良く忘れているようです。そういう自分の都合で生きている人たちが、自分は律法をしっかり守っているから神の国へ絶対行けると思い込み、律法を守れない子どもや罪人たちは神の国へ入れないと勝手に思い込み、勘違いをしているのです。

 

次に最も大切なイエス様の視点に注目したいと思います。16節と17節にこうあります。「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『16子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。17はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」とあります。「しかし」とありますように、子どもたちに対するイエス様の視点は、他のユダヤ人男性たちと違っているという事が分かります。

 

ここに、「乳飲み子たち、子供たち」という言葉が用いられています。この子たちには、人から尊ばれる人徳もなければ、喜ばれる人格もまだ形成されていません。律法を守る力などあるはずがありません。親や人に依存しなければ生きてゆけない存在です。しかし、子どもたちは自力では食べることも、着替えることも、おむつを替えることもできない存在です。

 

つまり、今の生きるステージは、自分の力に頼れないで、親の愛に頼って、人の世話でしか生きてゆけないことを本能的に知っているわけです。親や大人もそのことは充分知っているので、子どもの世話をするわけです。時折、その責任を知らない人、責任を放棄(ネグレクト)する人もいるので悲しい部分ではありますが、子たちは自分の無力さを知っているので、親や大人に甘えて、すがるわけです。

 

そういう子たちがイエス様のところに来ること、親が連れて来ることを妨げてはならない、神の国はこのような神様に信頼することしか知らない者たちのものであるとイエス様は弟子たちにおっしゃいます。自分の無力さを認め、憐れみ神様にだけ信頼する者たちのために、神の国はあるのです。

 

17節で、イエス様は「はっきり言っておく」と言われます。これは他の聖書訳では、「まことに、あなたがたに告げます」と訳されていますが、この言葉が旧約聖書で使われる際は、主なる神からの「御告げ」と理解されます。つまり、これからイエス様がおっしゃることは、神様のお考えであり、ご計画であるということです。ここは、「子どものように神の国を信じて、受け入れる者でなければ、神の国に入ることはできない」と未来形で語られます。

 

自分の力を誇り、自力で神の国に入れると思い込んでいる傲慢な人たちは、神の国には招かれないということです。自分の頑張りようではなく、いつも神様の愛により頼んで、語弊が生じるかもしれませんが、神様の愛と真に依存して生きる人、そのように生きたいと祈り求める人たちに、憐れみの神様の助けと導きと救いへの招きがあるのです。

 

わたしたちは、いつも神様の愛の眼差しの中に生かされていることを覚えたいと思います。いつもイエス様の優しい視線の中にあることを覚えて、それを感謝し、喜び、平安のうちに生かされたいと願います。大人は、物事をごちゃごちゃに引っかき回して、あり得ないほど複雑に考えたり、人間関係の中でギブアンドテイクの天秤にかけたりしますが、そう言うことは一切しないで、幼な子のように、本当にシンプルに、無邪気に、当たり前のように親から愛情とケアを受け取るように、何の遠慮やためらいもなく、素直に神様の愛を受け入れる心、そのような心を持ちなさいと励まされているのだと信じます。

 

最近の子どもは素直ではないと言われますが、それは親や大人が素直でないので、子どもにもその強情さが感染しているのだろうと思います。神様がイエス・キリストを通してわたしたちに求めているのは、子どものようなは素直さです。イエス様の愛と聖霊の力によって、頑なな心が素直な心に変えられます。神様に信頼する素直な心へと作り変えていただきましょう。そのことを祈り求めることが、わたしたちのなすべきファーストステップです。