ルカ(95) 金持ちが神の国に入るのは難しいと語るイエス

ルカによる福音書18章18〜27節

ルカ福音書18章を読み進めていますが、今回の箇所のテーマも、これまでと同様に「神の国」ということが基本的なテーマとなります。「神の国が来る」と主イエス様は譬え等を通して話されますが、それはいつ、どこで、どのようにして、誰のために来るのかが分かち合われ、なぜ神の国が来るのかという理由についても触れました。

 

その理由と目的は、神様の正義がなされ、高ぶる者が低くされ、へりくだる者が神様の憐れみによって高められるためであり、それはつまり、神の愛でわたしたちの心が満たされるためです。

 

「神の国が来る」とは、神様の御前で裁きを受け、義と認められた者が神の国へ招かれて、その国で「永遠の命に生きる」、その時が来るということです。「永遠の命に生きる」とは、わたしたちが今までに体験したことのない「異次元」の中に神様によって招かれ、その中で生かされるということです。

 

「異次元」という言葉に違和感を感じられるかもしれませんが、わたしもこの言葉をある神学者の書物で最初に読んだ時に違和感を感じ、その概念に最初ピンと来ませんでしたが、冷静になってじっくり考えれば、「あー、そうだようなぁ」と納得しました。

 

「神の国」とは、わたしたちが今生かされている現状・時空間とはまったく違った次元であり、栄光の神様が臨在される空間です。もし「神の国」が今わたしたちの生きている罪にまみれ、悪に満ちた次元の世界と同じであれば、わたしたちには救いも、平安もありません。

 

たとえ「異次元」という言葉を使わなくても、「神の国」はすべてを創造し、すべてを支配されている全知全能の神様が居られる空間、時間の概念がこの世とはまったく違った空間・場所であると信じて期待を膨らませると平安になるのではないでしょうか。

 

「神の国が近づいている」ということが分かった時のわたしたちの最大の関心事は、「はたして自分は永遠の命を受けて神の国で生きられるのか」ということだと思います。そのことを深く考える時、わたしたちの大半は不安や恐れが心に生じてくると思います。ですから、あまり考えないように過ごし、心を楽しませることに集中しようとします。

 

これまでの18章の学びの中で教えられたのは、神様の前に謙遜な心がない人は、自分の力・行いで神の国へ入れると非常に大きな勘違いをするということです。イエス様は、そういう人は神の国には入れないときっぱり言います。しかし、自分の罪・間違いを正直に認め、悔い改め、神様の憐れみを切に願い求める人は、神様の憐れみによって神の国へ「招き入れられる」と約束されています。

 

17節に、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とイエス様はおっしゃいました。素直に神様の愛を受け入れる人でなければ、神の国へは招かれないのです。

 

自分の努力や力では「神の国」には入れません。地位や富がどれだけあっても、入れません。「神の国」は「入れる所」ではなく、神様に「招かれる所」であるからです。主権は神様にあります。愛と憐れみの神様から永遠の命への招きがあって、その招きに恐れ畏みつつ、喜びと感謝をもって応えた人のみが、イエス・キリストを信じる信仰によって神の国へ招かれて生きることができるとイエス様は様々な手法でお話しされてきました。

 

人間の努力では、神の国の扉はこじ開けられません。ですから、いま生かされ、招かれている間に心の扉を開けて、イエス様を救い主として信じて、受け入れていくことが大切なのです。

 

ヨハネによる黙示録3章20節から22節に、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼・彼女もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」とあります。

 

このイエス様の言葉の直前(19節後半)に「悔い改めよ」とあります。神様に背を向けていたあなたのその罪深い心の姿勢を神様に向けて、神様に向かって生きなさいという勧告です。

 

さて、今回のルカ18章18節から30節にある主題は3つで、1)永遠の命を得るために人は何をなすべきか、2)永遠の命を得るための道はイエス・キリストに従うこと、3)イエス様に従うためには持ち物を手放すことが条件であるということになります。

 

18節に、「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた」とあります。23節と25節によると、この議員は金持ちであったことも分かります。ここで「人間の側から何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」という問いがあります。

 

「受け継ぐ」というのは、旧約聖書的な表現で、「神の民として約束の地を受け継ぐ」という考えに由来し、選民ユダヤ人であるから、永遠の命を当然のこととして受け継ぐという考えがあります。

 

この部分で不思議というか、興味深いのは、「選民は、神の国に招かれ、永遠の命を受けることが当たり前」という考えをすでに持っているのであれば、わざわざイエス様にこんな質問を訊ねる必要もなかったはずです。しかし、この若い議員は、選民イスラエルであり、人が羨む地位や富も十分過ぎるほどあるのに、彼の心のどこかに一抹の不安というか、満たされない部分があったのかもしれないと考えることもできると思うのです。

 

わたしたちの心の状態も同じではないでしょうか。生きるために必要なものはひと通り持ってはいるけれども、どこか満たされていないという感覚があります。自分の持っている身分、地位、富だけでは不十分だと感じてしまう。どうしてでしょうか。理由は、それらは親が先祖から受け継ぎ、自分も親から引き継いだもので、自力で得たものでもありませんし、自分から次の世代に受け継がれてゆくものと考えていたからでしょう。そういう中で、自分の力と行いで永遠の命を得られないだろうかと考えたのかもしれません。

 

イエス様は、若い議員に対して、19節で「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言われます。イエス様の切り返しがとても面白いですね。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか」。「善」の源は父なる神のみであるから、軽々しく「善い」と呼ぶなとイエス様はおっしゃいます。

 

そして議員に対して、20節で「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言います。これは出エジプト記20章に記されている神がイスラエルの民に与えた「十戒」の中にある5つの戒めです。この5つは、隣人を愛する戒めです。しかし、議員はすぐに「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えます。

 

しかし次の22節で、「これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。』」と言われます。「あなたに欠けているものがまだ一つある」という一つとは何でしょうか。イエス様は続けて言われます。「『持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」と。ここで大切なことが言われています。

 

この若くて富んだ議員は、子どもの頃から「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という戒めは守ってきたのですが、それは自分と同レベルの人々、つまり同じような社会的地位や富を持っていた、いわゆる「富裕層」の人たちに対して守っていたということだと思います。自分の友や同じ生活レベルにある人たちのものを奪うとか、彼らが不利益になることはしてこなかったということだろうと思います。

 

しかし、この議員は、自分よりも身分の低い貧しい人たちに目を注いだり、憐れみの心を持ったり、彼らに利益を与えるようなこともしてこなかったというように聞こえてきます。彼に足りなかったのは、社会の中で貧しく小さくされ、社会からつまはじきにされている人たちを「思いやる」という心です。

 

ですから、イエス様は、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われます。

 

自分の家族や親しい人たちに持ち物を分けることは、そんなに難しくはありません。しかし、自分と何の関係もない、自分の生活の視界の中にいない貧しい人たちに財産を分け与えるのには抵抗があるわけです。

 

しかし、イエス様は、「自分の愛する家族や友人のためだけに生きてもどんな徳になるか。小さく、そして弱くされている人たちのために持っている物を分け与えて生きなさい、そうすれば、天に富を積むことになる」と言われるのです。

 

その後に、イエス様の「それから、わたしに従いなさい」という言葉があります。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるのか」という問いに対するイエス様の答えは、「あなたの持ち物すべて手放し、わたしに従う」ということに尽きるとおっしゃいます。

 

イエス様に従うということは、イエス様のように生きるということです。イエス様は貧しい人たちと共に貧しい生活を送られたのです。イエス様に従うためには、この世の富は邪魔になるから売り払い、貧しい人たちに配りなさいと勧めます。

 

23節に、「その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである」とあります。この人は、親から引き継いだ財産に束縛されていたのです。あるいは、富に束縛されることで地位も保たれると思い込み、安心感を持っていたかもしれません。その安心感の源である富を手放すことはできない。何故ならば、そうしてしまいますと、今まで一度も経験したことのない「貧しさ」という異次元に身を置くことになるので、それだけは絶対にできないと彼は強く悲しんだのだと想像します。

 

イエス様は、これまでのやり取りを聞いていた弟子たちや周りの人々に目を向けて、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われます。過激なことをイエス様は言っておられると思われるでしょうが、イエス様は弟子たちに大切なことを再度教えます。弟子として生きることの厳しさ、覚悟、条件などは、すでに9章60〜62節、14章26〜33節で、イエス様は幾度となく教え、チャレンジしています。

 

さて、26節と27節で、「これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言うと、イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われ」ます。わたしたちが、神様以外の富や権力に頼っている限り、神の国に入るのは不可能です。そして、その中で途方に暮れ、絶望する以外に術はありません。

 

しかし、富や金やプライドにがんじがらめに縛られた心でさえも、神様には解きほぐして解放することができるとイエス様は宣言されます。人にできなくても、神様にできないことなど一切ないのです。ここでイエス様が励ましてくださっているのは、不可能を可能にする神様を信じて、神様に委ねてゆく信仰が大切であるということです。

 

この不可能を可能にする神様が、わたしたちの罪をイエス様の十字架の死によってわたしたちの罪を赦し、イエス様を救い主と信じ従うわたしたちに新しい命に生かす甦りという奇跡、救いの業を起こしてくださるのです。その理由は、神様はわたしたちを尊い存在として造り、心から愛してくださり、神の国に入れたいからです。

 

神の国からわたしたちを遠ざけるのは、富というこの世の力を愛する自分です。わたしたちのエゴ・自己中心の心であり、神様よりもこの世の富に惑わされ、富を神のように愛し、それを手放したくないと思っているからだと思います。皆さんは、どのようにお感じになられますか。

 

続く28節から30節は、次回31節から34節を聴く時に合わせてお話しします。