ルカ(96) 神の国のために捨てるべきものを伝えるイエス

ルカによる福音書18章28〜34節

前回の学びでは、金持ちの若い議員の「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という質問に対するイエス様の応答とその後のやり取りに聴きました。そのやり取りを聴いていた弟子たちや人々に対して、イエス様は「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。

 

永遠の命を神様から受ける事ができるとすれば、わたしたちはこの地上での持ち物をすべて手放さなければなりません。しかしイエス様は、死を迎えるその時に手放すのではなく、まだ元気で若いうちから持ち物を手放して、イエス様に従って行かなければ、神様によって神の国へ迎え入れられ、永遠の命に生きることはできないと言われます。

 

イエス様の鋭い言葉を聞いた若い議員は激しく悲しみます。多くの富を持っていたからです。前回の振り返りになりますが、26節と27節に、「これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言うと、イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われ」ます。

 

富や権力やプライドに縛られた状態の心でさえも、その心の縄目を解きほぐして解放することが神様にはできるとイエス様は宣言されます。イエス様は、不可能を可能にする神様を信じ、この地上での残された人生のすべてを神様に委ねてゆく信仰が大切であるということわたしたちに教えてくださいます。

 

永遠の命を望み、永遠へとつながる平安、喜び、希望、恵みが欲しいと願うわたしたちですが、その願いを現実の恵みとして受けるためには、1)まず神の国へ招いてくださり、永遠の命を与えてくださるお方を信じなければなりません。2)そのお方から永遠の命を受けるための道を教えていただかなければなりません。3)そして、この道から逸れずに、その道の上をひたすら信じて歩んでゆく必要があります。

 

この議員は、幼い頃から神様を信じて律法をずっと守ってきたと主張しますが、彼には足らない事が一つあると主イエスは言われます。彼は、自分と同じ社会的レベルに生きる人たち、彼の都合の良い人たちだけによくして、社会の中で小さく弱くされている人たちに心を配ることをしてきませんでした。しかしながら、そのような人たちに財産を分け与えて行くことが永遠の命を神から受ける道だとイエス様に教えられたのですが、心が富に縛られていた彼はイエス様や人々の前からフェードアウトしてゆきます。

 

永遠の命は、神様から与えられる賜物・ギフトであって、わたしたちが何か目覚ましいことをしたから受けるわけではありません。永遠の命を受ける方法は、1)神様を信じ、2)その道を示してくださるイエス・キリストの声・言葉に聞き、3)イエス様に従うことが必要です。

 

富や名声やこれまでの実績を手放して、神様に信頼して、イエス様と共に生きてゆくことが神様のみ許へ迎えられる道です。わたしたちも、いつかイエス様からフェードアウトして行かないように、お互いの存在を喜び、互いに励まし合い、祈り合ってゆく必要があります。そうでないと、わたしたちを神様から引き離そうとする力・サタンが様々な方法で誘惑し、お金や物で心を魅了し、幻想を抱かせ、神の愛と神の国への招きから遠ざけようとします。

 

さて、イエス様は、弟子たちに対して、主に従うことの条件や厳しさを教え、覚悟を示し、何度もチャレンジを与えて訓練してきました。弟子としての覚悟はルカ9章57節から62節に、弟子としての条件がルカ14章25節から33節にあります。これらのイエス様の言葉は、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しく」、わたしたちでは「不可能・絶対に無理」と思ってしまうことばかりで、尻込みしてしまう内容です。

 

当時のユダヤ人たちは、お金持ちは誰よりも先に神の国に入れると信じ切っていました。多くの富を持つということは、神様に人一倍、いや何倍も祝福されている証だと思っていたからです。しかし、その富を持つ者たちが神の国に入ることが難しいとイエス様が言われるので、みな驚嘆してしまいます。

 

けれども、イエス様は「人間にはできないことも、神にはできる」と断言します。なぜならば、イエス様ご自身が、神様の力を示す証拠であり、神の愛と憐れみを示すメシア・救い主であるからです。人は必ず死んで滅びるとされてきた現実を変え、人はイエス・キリストと通して神の国へ招かれ、永遠の命を受ける約束と希望がある現実の中に招いてくださっています。神様はわたしたちを愛し、神の国に招き入れたいと願っておられます。

 

さて、弟子のペトロが28節で登場します。「するとペトロが、『このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました』と言った」とあります。「自分の物」の中には「自分の命・人生」という意味も含まれるでしょう。そのペトロに対してイエス様は、29節と30節で「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」と言われます。神の国のために、家族も、家庭も、すべての「絆」すら捨て去るという決断が要求されています。

 

「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者」という言葉を聞いて、日本の戦争の歴史の中で、「御国のために、天皇陛下のために、家族を守るために己の命をささげ、あの世で会おう」と大日本帝国軍に焚き付けられて戦地に消えて行った若い男子たちのことを思い起こす方もおられるでしょう。今年で戦後79年目です。平和ボケした人たちは、戦地や太平洋に散っていった何十万の命を他人事のように捉えられているようです。戦争で多くの命が失われ、残された家族は深い悲しみを経験されました。

 

しかし、イエス・キリストの教えも同様だと決して思わないでください。次元がまったく違います。イエス様は、はっきりと「この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」と言われます。「この世ではその何倍もの報いを受け」ると言っています。戦争で命をささげることは間違いです。命を失えば、この世で何も報いを受けることはできません。

 

この世のものをすべて捨てなければならない理由、そしてその目的とは、この世のものを手放して空になった状態の手で、神様からの祝福・恵みを受け取るためです。ですから、自分の手にあるものを、一旦手放し、神様に委ねるのです。

 

ダイナマイトを例にあげてみます。芯の部分がすでに引火しているダイナマイトを握りしめたままでは、その後どうなってしまうでしょうか。爆発して死んでしまいます。ですから、死んでしまわないために、危険物をすぐにできるだけ遠くへ投げ捨てるのです。

 

同様に、神様の祝福からわたしたちを遠ざけるもの、心を動揺させるものをすべて手放し、その手放した手で神様の愛と恵みを握りしめる必要があります。この祝福を自分がまず神様からいただくことによって、その後に家族や家庭が、友や隣人が祝福され、その人たちがイエス様と出会い、永遠の命へ向かう道を歩むことができるように、神様が愛をもって可能にして下さるのです。

 

さて、イエス様が十二弟子たちにご自分の死と復活を予告する箇所、1回目は9章21節から22節、2回目は9章44節で、3回目が今回の18章31節から34節です。「イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。32人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。33彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。』 」とイエス様は弟子たちに言われます。

 

最初の2つの予告と違う部分は、「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」という点と、「異邦人に引き渡される」という点です。イエス様の受難と十字架の死、そして復活は、旧約の時代に神様がイスラエルに約束したことの成就であるとイエス様は教えます。神様の人々を救済する計画と約束はイエス様によって果たされるのです。

 

複数の神学者たちは、ルカ福音書には主の受難の告知は7回あって、今回が完全数の7回目であると捉えます。それらは5:35、9:22、9:44、12:50、13:32-33、17:25、18:31-33です。

 

5:35には「花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食をすることになる」とあります。12:50には「わたしには受けねばならないバプテスマがある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とあります。13:32には、「イエスは言われた。『行って、あの狐に、「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にすべてを終える」とわたしが言ったことを伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」とあります。17:25には、「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」とあります。

 

今回の学びの中で注目すべきは、34節です。「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」とあります。弟子たちは、イエス様の受難の意味、それが神様の救いの計画の現実であることを理解できなかった。彼らにはイエス様の贖いの死と甦りがいったいどういう意味と目的があるのかまだ分からなかったのです。隠されていたとあります。つまり、彼らが理解する「時」はこの時でなかったということです。

 

イエス様の十字架の死と復活の意味を弟子たちが本当に分かったのは、復活されたイエス様との出会いではなく、イエス様が天に戻り、イエス様の代わりに聖霊が弟子たちのもとに降臨した時からです。聖霊に満たされた弟子たちが、福音を携えて全世界へ出かけてゆき、イエス様の十字架と復活の福音を宣べ伝え、使徒たちによって手紙がたくさん書き送られ、そして福音書が記されてゆき、聖書という一冊の書物に編成されました。

 

この聖書が神様の御心も、イエス様の言葉の真意も、生きる意味や目的も、すべて教えてくれます。聖霊がわたしたちといつも共にいて、力づけてくださり、理解する力を与えてくださいます。聖書の分からない部分は、今は分からないままにしておいて、神様が分かるようにしてくださる「時」を信仰をもって待ちましょう。