主の口から出る言葉で生きる

「主の口から出る言葉で生きる」 二月第一主日礼拝 宣教 2025年2月2日

 申命記 8章1〜10節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝は、非常に寒く、雨や雪の降る中、大変苦労をされて教会にいらしたのではないでしょうか。お帰りなさい。皆さんがこの礼拝堂におられる事を神様は喜んでおられると信じます。怪我や事故を防ぐためにオンラインでの礼拝に切り替えられて、今朝の礼拝に出席されておられる皆さんも、お帰りなさい。今朝もご一緒に賛美と祈りと礼拝をおささげできて本当に感謝です。神様が皆さんを喜んで、祝福してくださると信じます。

 

神様の御前に置かれても、わたしたちは様々な課題や問題を抱えて生きています。そのすべてを神様は知っておられますが、わたしたちはその神様に信頼し、すべてを明け渡し、自分が頑張るだけではなくて、全能なる神様に取り扱っていただくことを求めなければなりません。神様がどうにかしてくださるだろうと受け身になるのは責任放棄です。そうでなく、自分の責任はしっかり果たして、自分ではどうすることもできない部分を神様にお委ねし、神様の御業が行われてゆくと信じ委ねてゆくことが主を信じて仰いでゆく信仰であると思います。わたしたちが陥ってしまう大きな間違いの一つは、神様に委ねすぎることです。

 

卵から孵った雛鳥が巣の中で口を大きく開いて親鳥から食べ物を求めていると同じようにわたしたちも受けるだけになってしまう。雛の場合は、それで良いのですが、成長して自分の翼で飛べるようになったら、自分で飛んで行って、自分で食べ物を見つけて食べなければならないわけです。しかし、ある程度の成長が与えられ、自分でも能動的に羽ばたいて、働いて食べ物を見つけて生きられるようになっても、神様の御前で口を開いて「食べ物くれ、食べ物くれ」と求め続けても本当に良いのだろうかと思うのです。いつまで経っても雛鳥のまま、受け身のまま、お客さん・消費者のままで本当に良いのだろうかと思わないのか。いつまで親鳥を、神様を働かせ、自分は何もしないのか。大抵の場合、成長して羽ばたけるようになりますと、自分でどこへでも飛んで行って、もう巣には帰ってこない。神様のもとに帰ってこないで、自分の思い通りに生きてしまうわけです。それも問題かなぁと思います。

 

何が問題なのでしょうか。皆さんは問題だと思われないでしょうか。聖書に何度も記されています。恵みを絶えず与えてくださる神様の存在を忘れて、神様のもとに帰らないで、自分の好き勝手に生き、神様から現在進行形で注がれている愛と憐れみ、恵みに対して何もポジティブな応答をしていない。ポジティブな応答とは、神様が良いとされる日々の過ごし方、神様が喜ばれる生き方という意味です。しかし、わたしたちは、自分にとって都合の良い応答、都合の良い時だけの応答しか神様に対してしていない。果たすべき責任を果たしていない、果たさない。それは神様の御心ではないと思います。独りよがりは、自己満足、独善、自分勝手とも言えます。それは神様の意に反していること、「罪」と言い換えることができるのではないでしょうか。罪とは、的外れな生き方をするということです。神様の御心は、わたしたちが神様のもとに常に帰ってきて、神様の愛の中で、主を畏れて生きることです。

 

昨日までもそうでしたが、わたしたちは今朝も生きています。いえ、神様の愛と憐れみによって生かされています。イエス様によって生かされています。それでは何のために私たちは生かされているのでしょうか。それは命の根源であり、愛の源である神様を愛し、隣人を愛し、そして互いに愛し合って生きてゆくこと。それは、神様への礼拝・賛美、神様の愛を分かち合う伝道、そして共にキリストのからだなる教会を建て上げてゆくことだと信じます。

 

大久保教会は、今年、教会創立60周年を迎えます。これまでの60年の教会の歩みが神様によって導かれ、守られ、祝福を受けて来た年月でありましたが、神様の試みを受ける時もあったと思います。試みとは訓練の時という意味です。教会の歩みがすべてバラ色であったわけではありません。苦しい中を通らされた時も幾度となくあるわけです。しかし、憐れみの神様が、救い主イエス様が、ご聖霊がいつも共にいてくださった、守り導いてくださった。

 

それでは、これからの大久保教会の歩み、わたしたちはどのように歩んで行けば良いのかが問われていると思います。時代も変わり、環境も変わり、わたしたちの生き方も変わって来ました。その様な中、どのように神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合ってゆくべきかを考え、共に祈ってゆく必要があります。わたしは「わたしたち」と言います。皆さんは、その「わたしたち」の一員でしょうか。それともお客さんのままでおられるでしょうか。わたしたちが大久保教会であるためには、一人ひとりがそれぞれの賜物を持ち寄り、それぞれの責任をしっかり負ってゆき、一つのチームになる必要があります。一部の人たちに責任を任せきりでは、教会は疲弊し、喜び、愛が失われます。祈りが、賛美が聞こえなくなります。

 

さて、1月は、「良い」というキーワードで神様がわたしたちに求めておられることを聴きましたが、2月は「御言葉」というキーワードで神様の御心を聴いてゆきたいと願っています。わたしたちが日々どの様に生きてゆくべきかを知るためには、神様に祈り求めることだけでなく、主の言葉に聴いてゆかなければなりません。人の言葉ではなく、神様の言葉、主イエス様の言葉に日々聴いて、そして従うことが大切です。そうでないと道を誤り、罪に舞い戻ってしまうことになります。わたしたちが日々の歩みの中で個人的に聴くことも大切ですが、教会として共に聴いてゆくことも重要です。今朝と来週のメッセージは、申命記8章から御言葉を聴いてゆきます。今朝は1節から10節、来週は11節から20節に聴きます。

 

数週間前にも申命記6章からメッセージしましたので、覚えておられる方もおられると思いますが、この申命記はエジプトの奴隷から解放され、荒野の40年間の旅を終え、ようやく約束のカナンの地が目前に迫ってきたイスラエルの民に対して、これまで40年にわたって彼らを導いてきたモーセが語る告別説教です。約束の地に入ってゆくために、心の備えをしっかりしなさいと励ます言葉が語られ、申命記として記録され、わたしたちが読むように配慮されています。注解書に、「神のみことばは、『書き記されたことば』として私たちに与えられているが、それはまた、『語られていることば』として私たちに与えられ、私たちはそれによって生かされる」とあり、今さらながらに納得しました。わたしたちは聖書に記されている神様の御言葉、イエス様の言葉を「主がわたしに語られている言葉」として聴かなければ、わたしたちは信仰者として生きて行けないことを覚えたいと思います。それは、教会としても同じで、信仰共同体として、共に御言葉に聞かずして、共に教会を建て上げ、共に成長し、協力し合って神様の喜ばれる実を多く結んでゆくことはできないのです。

 

神様の御心である約束の地に入る前に、モーセがイスラエルの民、その一人ひとりの心に語りかけ、刻みたかったこと、それは約束の地に入っても、主なる神様の口から出る言葉、律法、掟、定めを守り続けるということです。1節の前半に、「今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。」とあります。約束の地に入って、「あー、良かった。もう大丈夫。」と思い込んで、自由気ままに生きようとしないで、常に神様の口から発せられる言葉に聴き従い、神様を畏れて生きるということが重要だとモーセは語ります。

 

御言葉に聴き続ける日々が、1節の後半にあるように、「そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。」のです。これは神様の祝福の御業です。わたしたちが成すべきは、御言葉にただ聴き続ける事だけです。大久保教会も同じで、60周年の感謝だけでなく、今後どのように歩んでゆくべきかを神様の口、イエス様の口から出る言葉に真剣に聴き、そして従ってゆくことが今後の教会の祝福、教会の成長につながり、聖霊の助けを受けて多くの実を結び続ける鍵となるのです。

 

2節前半でモーセは、「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。」と言っています。イスラエルの歴史の中で、神様がエジプトの奴隷の生活から救い出してくださり、これまでの40年の歩みも愛と忍耐と備えをもって守り導いてくださった恵みがあったことを忘れないで生きることが神様の御心であると常に覚えるということです。わたしたちも同じで、大久保教会の60年の歩みを守り導いてくださった主がこれからも共におられて語られるということを覚えて、主の口から出る言葉に共に聴きたいと願います。

 

2節後半に、「こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。」とありますが、「こうして」とは40年にわたる荒野の旅を神様が守り導いてくださったという事実を指し示しますが、その神様がその旅の中で民を苦しめ、試し、民が戒めを守るかどうかを知ろうとされたとあります。エジプトからカナンの約束の地へは、少し頑張れば最短で10日、余裕を持って歩けば2週間で行ける距離です。それが40年も要したのは、イスラエルの民が事あるごとに不平不満を口にし、神様を試み、挙げ句の果てには金の子牛を作って偶像を拝み、神様の言葉、戒め、定めに聴き従うことをしなかったからです。その民を入れ替える、つまりエジプトを出た民の親の世代ではなく、その子孫に約束の地を与えようとされたから40年が必要であったのです。

 

また、試みに合わせた理由として、3節で、「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」とモーセは言っています。この後半の言葉はイエス様が悪魔に誘惑された時に悪魔に対して言われた言葉でありますが、これは自分の力に頼って生きる、頑張って生き続けるのではなく、神様の力を信じて生きるということ、神様のお導きに聴き従って生きるということです。神様により頼んで生きるように、神様はあえてイスラエルの民を苦しめ、飢えさせたのです。わたしたちは生きるために物質的な物は自分で都合がつきますが、心の必要、霊的な必要を満たしてくださる神様の口から出る言葉、イエス様の言葉に日々聴いてゆく必要があるのです。

 

4節の「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」と同じように、大久保教会の60年間も真実なる神様の恵みがありました。感謝しましょう。

 

5節で、モーセは「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。」と言っています。子どもを訓練するのは、その子を愛しているからです。同じように、試練に遭う時というのはわたしたちを約束の地へ招き入れる前の準備であること、そのままでは祝福に預かれないので造り変えられるのだ、神様はわたしを愛してくださっているということを知って喜ぶことが「心に留める」ことなのです。

 

6節に、「あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。」とあります。「主の道」とは、神様の御言葉に聴き従う中で、神様が良しとされる生き方です。神様を自分の神として畏れ、その口から出る言葉に聴き従う道、それが主の道なのです。

 

7節から9節は、神様が導き入れようとしてくださっている約束の地、良い地を描写する言葉です。イエス・キリストを通してわたしたちを導き入れようとしてくださっている約束の地、皆さんは理解されているでしょうか。それはこの地上にあるものではなく、神様のおられる天の国です。その神の国に招かれる前からわたしたちがなすべきこと、御国でもすることは何でしょうか。その答えは10節にあります。「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。」と。主の口から出る恵みの言葉を日々感謝して、神様とイエス様を賛美し、告白し、証しすることをわたしたちの生きがい、生きる目的、使命として受け取りましょう。来週は、11節から20節に聴きます。