力と愛と思慮分別の霊を与える神

「力と愛と思慮分別の霊を与える神」 五月第二主日礼拝 宣教 2021年5月12日

 テモテへの手紙二 1章7〜14節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝もご一緒に賛美と礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。数週間前から美しいバラの季節となりました。教会玄関にありますミニバラも色鮮やかに咲き始め、庭の手入れをするわたしを喜びで満たしてくれます。お帰りの際にご覧になってください。実は、近所の花屋で開花時期を過ぎてしまったミニバラ、一鉢400円で売られていたものが100円でたくさん売られていました。大きめの鉢などに植え替えて肥料をあげれば、これからもきれいな花をずっと咲かせることができるので、もったいないと思いましたが、残念ながらお金を持ち合わせていませんで、帰ってきましたが、気になります。見切り品になると水も十分にかけてもらえず、枯れて行くばかりです。誰かが、お店の隅っこに置かれているたくさんの鉢に目をとめて、購入して家に持って帰ってくれれば、これからもきれいに咲き続けることができます。明朝にでも、花屋へ行ってみようと思います。

 

さて、今日は母の日であります。わたしたちは、母の胎内で神様によって見事なほどまでに形作られ、この地上に生まれ、その愛と保護の中で育てられましたので、お母さんがたに対する敬意と感謝を表したいと願いますが、わたしたちの教会では「家族の日礼拝」として今朝の礼拝をおささげしています。イエス様を通して神様から与えられている神の家族を一緒に喜び、大きな恵みを神様に感謝する、今日はそういう日です。イエス・キリストを救い主と信じ、イエス様のからだなる教会に招かれている幸いを共に喜び、互いの存在を喜び合うこと、それがわたしたちにとっても大きな喜びとなり、力となるのではないでしょうか。

 

今朝は、子どもメッセージの中で群れをなしている羊たちの写真と羊の群れから離れた1匹の小羊の近くにいるオオカミの写真を見せました。羊と同じように、わたしたちも一人だけでは、神様からいただいた信仰を持ち続け、神様が喜ばれる実を結び続けることは困難になります。サタンは、わたしたちを神様から引き離そうとし、信仰を奪い去ろうと常に付け狙っています。「わたしは一人で気ままに信仰生活をしたい、どこの教会にも属さないで自由に歩んでいきたい」という考えをお持ちの方も時折おられます。しかし、自分一人だけでは神様の愛から引き離そうとし、罪の中に再度引きずり込もうとしているサタンの巧みな誘惑や激しい攻撃に打ち勝つことは困難です。今は良くても、危険に晒され続けます。わたしたちには、信仰の家族が必要です。一緒に礼拝をささげ、共に神の御言葉に聴き、互いの信仰が守られるように祈り合う家族が必要です。神の家族、教会に属する必要があります。

 

確かに、教会生活は必要ない、信仰生活は一人のほうが気楽だし、誰からも束縛されたくない、奉仕もしたくないし、献金もしたくないし、面倒なことは勘弁してほしい、そのようにお考えになる方もちらほらおられるでしょう。しかし、そういう方々は実にもったいないことをされているとわたしは思います。何故ならば、神様の愛の力と大いなる御業の一部分だけを体験して、その幸いを最大限に体験することができていないと思うからです。

 

どういうことかと申しますと、神様から与えられる信仰は、恵みを日々受けるだけ、受け続けるだけでは真の成長はないのです。神様からいただく恵みへの応答、リアクションが信仰を成長させ、成熟を与え、神様が喜ばれる実を結ぶことができるのです。誰もが「美味しい」と言って喜ぶ果物の木は、剪定が毎年必要です。あまりにも多くの枝を付けますと養分が分散され、甘くて美味しい実を付けることができないので枝打ちをしなければなりません。恵みへの応答と無駄な枝を切る剪定。そこには関連性が見えないと思われるかもしれませんが、神様からいただいている命や健康や時間や能力を自分のためだけに用いず、神様のためにささげてゆくことが自分の枝を切るということになり、そこで成熟した木に成長と成熟さが与えられてゆき、神様が喜ばれる実をたくさん結ぶことにつながるのです。

 

では、神様から受ける恵みへの応答と信仰の成長を促す剪定を兼ね備えたことは何をすることになるのでしょうか。大きく分けて二つあります。一つは、イエス・キリストの福音のために生きること、つまり神様の愛を人々に分かち合ってゆくということです。二つ目は、キリストの体である教会を建て上げてゆく働きに参加し、教会で主に仕えてゆくということです。教会では、「福音宣教」と「教会形成」という言い方をよくします。イエス様の宣教命令に従って、全世界に出て行って神様の愛を、イエス様の十字架と復活を伝えてゆくために、しっかりとした働き人を愛と祈りをもって育ててゆく神の家族、信仰の基盤を整える教会を建て上げてゆくことが非常に重要になってゆくのです。自分が福音を携えて出かけていけない場合は、働き人のために日々祈り、献金をささげることで福音宣教の業に参与することができます。大切なことは、自分にできることを主に心からおささげしてゆくことです。

 

今朝の御言葉は、使徒パウロが息子のように愛するテモテという伝道者に書き送った手紙から選びました。このテモテという人は、祖母と母の信仰と愛と祈りに育てられ、イエス様を救い主と信じ、イエス様の十字架と復活の福音を宣べ伝える働きに献身した人です。純真な信仰、神様とイエス様への愛を持った若い伝道者です。エフェソという土地に建てられている教会で一生懸命に働き、主イエス様と教会に連なる人々に誠実に仕えた人です。

 

しかし、福音を語り、教会を形作ってゆく働きはいつも順風満帆というわけではなく、苦労の絶えないことが多く、自分の愛と知恵と力の無さを悔やみ、また同時に主の助けを祈り求めて涙を流すことも多い働きです。そのようなエフェソの地で苦闘しているテモテを案じたパウロは獄中から励ましの手紙を何度も書き送り、教会内で起こる問題や課題にどのように対処すべきかを的確にアドバイスします。それが第一と第二のテモテへの手紙として、わたしたちの手元に現代あるわけで、わたしたちの信仰生活に励ましと知恵と勇気を与え、わたしたちがこの地上で生かされている間に何をなすべきかを明確に教えてくれます。

 

さて、皆さんの中に、テモテのような伝道者を育て上げた祖母や母が羨ましいと思う方はおられるでしょうか。自分は子や孫に信仰の継承ができなかった、できていないと自分の信仰の至らなさを悔やみ、苦しい思いを抱いておられる方はいないでしょうか。もう無理だと諦めてしまってはいないでしょうか。もしそのように思っておられるならば、そのような思い、考えは、今朝この場所ですべて捨ててください。何故なら、まだ終わっていないからです。あなたがこの地上で生かされている間、教会が存在する間は、まだ希望があります。神様にできないことは何一つありません。できなくしているのは、わたしたちの不信仰です。

 

信仰とは、親から子どもへと引き継ぐものであると考えるのはどうかなぁと思います。信仰とは一人ひとりがイエス様と出会うことで神様と出会い、その豊かな交わりの中で神様とイエス様を信じるようになり、信仰を日々告白する中で育てられるものです。ですから、わたしたちの責任というのは、伴侶や子どもや孫たちが、また隣人がイエス様と出会ってゆくように聖霊の導きと助けを祈り、その人たちを心から愛し、配慮し、チャンスを作ってゆくこと、そのような状況をお膳立てすることなのです。最後の最後まで、まだチャンスはあるのです。わたしたちの生き様だけでなく、生き様の集大成である葬儀が家族への伝道の場になりえますし、家族の心を動かし、イエス様へと導くことにも神様が用いてくださるのです。ですから、主に信頼しつつ、日々、愛と祈りと証しの歩みを続ける信仰が重要なのです。

 

テモテへの第二の手紙1章7節に、「神は、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」とあります。神様は、イエス・キリストを通して「簡単に諦める霊」ではなく、諦めない霊を与えてくださっています。すなわち、わたしたちが諦めずに、主に信頼し続けるための助け主・聖霊を与えてくださるのです。そのような愛と配慮を与えてくださる神様を喜びましょう。主に感謝の賛美をささげしましょう。家族との関わり、隣人との関わりに困難さを覚え、困惑し、涙することがあっても、わたしたちを助け、励まし、道を開いてくださる主に信頼し、すべてを委ねましょう。主に信頼し続ける者に、家族や隣人を愛し続け、救いのために祈り続け、いつも心から仕え続け、共に主の平和の中で生きるために必要な助けを与えてくださる聖霊をくださる神様の栄光を表しましょう。

 

イエス・キリストを救い主と信じ、主に従う者とはいったい何者でしょうか。それはイエス様のお言葉に愚直に従って生きる者です。イエス様はわたしたちにお命じになりました。わたしがあなたがたを愛したように愛し合いなさい。愛する者となるために祈りなさい。父なる神とわたしに信頼し続けなさい。御言葉を守って、全世界へ出て行って福音を宣べ伝え、キリストの体なる教会を建て上げる働きに積極的に参加しなさいとお命じになりました。

 

使徒パウロはテモテに、わたしたちに次のように書き送って励まします。8節、「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」。9節、「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちが福音のために生きるためです。すべては神のご計画と恵みによるのです」。12節を、少し言葉を変えて補足します。「主に信頼する者を神は見捨てることは決してありません。必ず守ってくださり、成長を与えてさせてくださり、神の喜びとなる聖霊の実を確実に結ばせてくださいます」。13節、「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、イエス様を健全な手本として歩みなさい」。そして最後に14節、「あなたに委ねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」と励まします。信仰が日々サタンの誘惑から守られ、主の僕として歩み続け、主に用いられるためには、聖霊の内住と励ましと導きがわたしたちに必要であるということです。聖霊の助けを求め、主を賛美して共に歩みましょう。