「神との和解を与える十字架の道」 3.11を覚える礼拝 宣教 2025年3月9日
コロサイの信徒への手紙 1章19〜23節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も神様に招かれ、皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげすることができて感謝です。昨日は冷たい雨が降り、牧師室の底冷えが厳しい一日でした。昨夜は雪が積もるかと心配しましたが、今朝は天候も守られ、皆さんのお顔を拝見することができて本当に嬉しいです。ライブ配信を通して礼拝をおささげ下さっている方々を歓迎します。
今朝の礼拝は、「3.11を覚える礼拝」として神様にささげていますが、今週火曜日の11日に東日本大震災から14周年を迎えます。わたしたちにはとても早く感じるかもしれませんが、今も被災地で生活し続けておられる方々にとっては、とても長く辛い14年間であったと思います。そのような被災者の方々に、愛と祈りをもって寄り添い、共に歩み続けておられる諸教会の働きを覚えます。被災地で痛んでおられる方々を神様が憐れんで癒してくださるように、そのために教会を用いてくださるようにと祈ります。大久保教会では岩手、宮城、福島にある3つの教会を覚えて祈り続けています。それぞれの教会には様々な課題がありますが、それらことは礼拝の最後の時間に分かち合わせていただきたいと思います。
さて、2011年3月11日の午後2時46分、わたしはその当時のことを今でも鮮明に覚えていますが、皆さんはどこで何をされていたでしょうか。我が家の子たちは小学5年生、3年生、1年生でした。当時のわたしは、宣教師夫妻とそのご友人と4人で大久保小学校に向かっていました。4月から開始するキッズ英語クラスの案内チラシを校門前で配布するためでした。しかし、その行く途中、大久保通りを歩いている時、今までに体験したことのない大きな揺れを長時間体験しました。道路やその脇にあるものすべてが激しく揺さぶられ、いつまでこの大きな地震は続くのだろうと思いました。その後、チラシ配布は中止にし、宣教師たちとはその場所で別れて大急ぎで教会に戻り、教会が無事かを確認しました。
ほんの10数分前に教会で、4人でキッズ英語クラスの案内が一人でも多くの子どもたちに届くようにと祝福を祈ったのですが、本当にとんでもないことが起こりました。教会と家族の無事を確認し、新宿区内在住のご高齢の教会員の方々のお家を自転車で回り、安全を確認しました。あれから14年の月日が経過しましたが、被災地では今もなお心に大きな穴がぽっかり空いたまま、あの日突然別れることになった家族や友人や地域の人たちを偲んでおられる方々がおられます。両親や伴侶や子どもを津波で失った方々もおられます。原子力発電所の大事故で住み慣れた町・コミュニティーに未だに戻れない方々がおられます。そしてそのような方々に今も寄り添っている教会があります。その教会の方々も、みんな被災者です。
震災後、数週間して連盟からの緊急物資を運んだり、炊き出しのために宮城県石巻市の牡鹿半島に3回ほど行きました。小学校で避難生活をされている方々に温かい昼食と夕食を提供するためです。今は車で7時間あれば石巻に着くそうですが、当時は浦和教会を夜中の2時頃に出発して、わたしともう一人が数時間ごとに運転を交代して、およそ10時間かけて目的地に着きました。現地では諸教会からのボランティアさんたちが待っていましたが、運転したわたしたちは体育館裏の日向で1時間ほどの仮眠をとり、夕食の炊き出しを手伝って、夕方5時ごろに出発して、夜中の2時頃に浦和教会に戻るという荒技をやって退けました。
他の日は、Y牧師と浦和市内を車で回って、被災地に届ける衣類などを収集しました。アメリカの家族、特に妹たちとその同僚であるU航空の客室乗務員たちが乗務の傍ら飛行機で持って来てくださった支援物資を受け取りに成田空港へ何度も通いました。まだ40代半ば、まだまだ体力には自信がありました。教会からもボランティアで被災地に行って、家に入り込んだ泥などを取り除く作業をしてくださった方もおられて感謝でした。
さて、東日本大震災によって甚大な被害を受けた被災地と被災者たちを覚える時期とイエス様が十字架の道を歩んでくださったことを覚える受難節が重なっています。先週からイエス・キリストはなぜ十字架の道を歩まれたのかということにスポットライトを当てて、その理由を旧約聖書と新約聖書から聴いて行こうという旅にわたしたちは出発しました。
先週はヨハネによる福音書1章29節から、イエス・キリストはわたしたち一人ひとりの罪を取り除く神の小羊として、イエス様が罪の代価を十字架上で支払ってくださることによって、わたしたちに解放と自由と癒しを与えてくださったということを聴きました。詳しいことは先週のメッセージをユーチューブでご覧いただくか、教会のホームページから読んでいただければと思いますが、イエス様はどのようにしてすべての罪を取り除かれたのかということを聴きました。すなわち、エルサレム神殿で贖いの献げ物の小羊のように屠られて、その血潮を流して、十字架上でその命を献げてくださる方法しかなかったということを聴きました。わたしたちにできるのは、このイエス様を信仰の目で見て、その愛を感謝して受け取り、罪・弱さを悔い改めて、神様とイエス様に立ち返ることだと聴きました。
今朝は、そのような流れの中で、イエス様は何のために十字架の道を歩まれたのかということをコロサイの信徒への手紙の1章から聴いてまいりたいと願っています。その答えが今朝のメッセージタイトルにすでに記されていますが、主イエス様は神様とわたしたちとの間に「和解」を与えるために十字架の道を歩んでくださったということが今朝のメッセージのテーマです。本当は1章9節からお話しできれば良かったのですが、「神様とわたしたちの和解」というテーマに集中するため、今回は9節から18節を取り扱うことを止めました。特に15節から18節には、イエス・キリストはどのようなお方であるのかが記されていますので、ぜひ時間を作ってその箇所をお読みいただければと思います。
さて、19節と20節を読みましょう。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」とあります。このコロサイの信徒への手紙が使徒パウロによって書き送られた当時、ギリシャ圏でイエス様の神性を否定するグノーシス派というグループが存在しました。
簡単に説明しますと、紀元1世紀から2世紀のギリシャ文化圏において霊肉二元論という思想が生まれました。それは、「神は霊であり、人間は肉であるがゆえに、神が人になることはあり得ない、ゆえにイエスは神ではない」とイエス様の神性を、イエス様が神である事を否定する思想がギリシャと現在のトルコ周辺に響き渡っていました。コロサイという場所はトルコにありましたので、この影響を教会も強く受けてしまっていたのです。その間違いを正すために使徒パウロはこの手紙を書き送りました。パウロは、「イエス・キリストは神の本質・性質を完全に持つお方である」と宣言し、グノーシス思想を一蹴したのです。
21節に、「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」とあります。わたしたち人間が神様に対して罪を犯し、わたしたちの力ではどうすることもできない大きな深い溝が出来てしまい、神様から遠く離れる者となってしまいました。離れるというのは、神様の恵み、祝福の外側にいるという意味です。しかし、憐れみ豊かな神様にはその溝を埋める力はありますから、神様はイエス様をこの地上に送り、神様とわたしたちの間に和解を与えるために仲介者として立ててくださり、イエス様は自らの命を十字架上で贖いの供え物として献げてくださることによって神様とわたしたちとの間に和解を与えてくださり、神様との関係性において平和が回復したとパウロは宣言するのです。この神様との和解・平和を実現できたのは、イエス・キリストのみと宣言するのです。
パウロは続けて22節で、「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」と書き送ります。ここで大切なのは、わたしたちを救うために、神様との和解を与えてくださるために神の御子イエス様がその命を犠牲にしてくださったというイエス様の愛を信じて受け取ることです。パウロの伝えたかった真実、福音は、イエス様の十字架の苦しみと死が神様とわたしたちの間に存在した広くて深い溝を完全に埋め尽くし、その血潮によってわたしたちを罪なき者にしてくださり、神様の御前に聖なる者、傷のない者、咎めのない者としてくださったという事です。ここに神様とイエス様の真の愛があるのです。
イエス様を通して神様との和解が与えられていることを真実として信じ、神様の愛とイエス様の十字架における罪の赦しを喜びと感謝をもって受けるわたしたちが成すべき応答が23節の前半に記されています。あなたがたは「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」とあります。わたしたちの周りを見渡してもわたしたちを悩ます事柄で満ちています。自分の心の内側を見渡しても、不安や恐れ、痛みや悲しみ、不満や怒りがあります。そこに目と心を集中してしまいますと、希望を持ち続けることは困難です。混乱するだけです。
ですから、わたしたちはイエス様の十字架の道に思いを馳せ、イエス様の十字架に目を注ぐ必要があるのです。この世のものにではなく、神様の愛とイエス様が与えてくださった命に集中する時、わたしたちは慰められ、励まされ、癒やされ、神様の愛をわたしたちの近くに、そして世界中至る所におられる人々に分かち合い、イエス様が救い主であることを宣べ伝えて行くことができます。そのように生きることが、神様とイエス様の愛に対して、恵に対して、心を尽くして応答してゆくことだと今朝の御言葉から聴こえてきます。