神の御心をわきまえる

「神の御心をわきまえる」 六月第一主日礼拝 宣教 2024年6月2日

 ローマの信徒への手紙 12章1〜8節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。6月の第一主日の朝を迎えました。今朝も、皆さんとご一緒に礼拝をおささげすることができて嬉しいです。お帰りなさい。教会に入って来られる時にご覧になりましたか。教会の紫陽花が見事に咲いています。特に「スノークイーン」という名前の白い紫陽花、剪定を強めにしたからかもしれませんが、今年は一輪だけなのですが、ゴージャスという言葉がピッタリの大きさです。どうぞお帰りがけにご覧になってください。

 

さて、先月ぐらいから、海外からの旅行者を礼拝にお迎えするようになってきています。大久保通りにあるルーテル教会のM牧師から、ルーテル教会では英語礼拝をささげておられるので、40名を超える海外からの旅行者が毎週、入れ替わり立ち帰り英語礼拝に出席されているとお聞きして、「凄いなあ」と思っていたのですが、グーグルで、「新宿」、「バプテスト教会」と検索すると大久保教会がトップに出てくるそうです。これも主のお導きです。今朝、そのような方がいらっしゃったら、心から歓迎いたします。ようこそ大久保教会へ。

 

先週は、アメリカから4名の旅行者が礼拝に出席されましたが、水曜日の夜の祈祷会にはメキシコから旅行に来ていたバプテスト教会の若い牧師が出席されました。日本が好きで、独学で日本語を勉強されているそうで、日本語のメッセージを熱心に聞いてくださり、最後はスペイン語でお祈りをされました。この独身の牧師については、後ほどお話しすることがありますが、そのように旅行者が礼拝に出席されたら、どうぞ側に座って歓迎し、日本の教会の「おもてなし」をしていただきたいと思います。「一期一会」の礼拝になりますが、神の家族の一員であり、主にある兄弟姉妹です。お互いを喜び合いたいと思います。

 

さて、今月は盛りだくさんの月となります。9日の子どもメッセージは、M宣教師が日本語で初めて聖書のお話しをします。当日は彼女のお誕生日でもありますので、記念すべき日曜日になるでしょう。16日は各会の定例会があります。23日は、沖縄の慰霊の日ですので、「命どぅ宝の日」を覚える礼拝としておささげしますが、ハワイのGP教会から3名か4名のメンバーをお迎えします。礼拝の中で短く証しをしていただきたいと願っています。4年前のコロナパンデミックの中で、大久保教会の財政も大きな影響がありましたが、このハワイの教会の一人の姉妹が「大久保教会のために」と言って多額の献金をして送ってくださいました。どういうわけか、わたしたちの教会を愛して、いつも祈り、サポートしてくださいます。その姉妹が証ししてくださる予定です。ご出席ください。

 

また、23日から30日は神学校週間です。ミッションスクールの聖書科の教師を目指して、A姉は4月から東京神学大学で学んでおられますが、「牧師にならないのか」と時折言われるそうですが、聖書科の教師を目指しています。牧師の数も激減している昨今、神学校で学ぶ神学生の数も激減し、神学校運営も大変だと思います。祈って支えましょう。

 

30日の礼拝は、B宣教師がメッセージをしてくださいます。約1年ぶりにB宣教師ご夫妻と礼拝をおささげされたい方はご出席ください。その日、わたしは連盟から派遣されて、成田国際空港に近い教会を訪問します。この教会は、過去5年間、日本バプテスト連盟から特別支援を受けて牧師家族を支えていますが、連盟との約束でその支援が今年で終了します。教会内で来年からの歩みをどのように話し合って、準備しておられるのかをお聞きし、教会の今後について一緒に考え、神様の御心を共に祈り求めます。礼拝ではメッセージもします。必死に頑張っている若い牧師に少しでも休息をとって欲しいからです。週報に記されていますように、わたしは4つの教会を今月訪問します。どうぞお祈りください。

 

さて、5月は聖霊降臨日・ペンテコステとキリスト教会の誕生をお祝いする月でしたので、神様がイエス様の代わりとしてこの地上にお遣わしくださった聖霊とその働きについて、また聖霊とわたしたちの信仰が合体して一つになった時に教会の中で生じる神様の大きな力について4回メッセージさせていただきました。さて6月から何をテーマにメッセージを語ろうかと必死な思いで祈り求める中で導かれたのが「神の御心を求める」というテーマです。

 

大久保教会の今年度の年間聖句は、ヘブライ人への手紙11章6節ですが、その後半に、「神はご自分を求める人たちに報いてくださるお方であることを、信じていなければならないからです」とあります。「神様を求める」とはどういうことでしょうか。それはイエス・キリストを通して神様の御心を知るということではないかと思います。「御心」という言葉は、聖書では、他に「御旨」、「意志」、「願い」とも訳されます。わたしたち自身がどのように生きたいと願っているかではなく、神様がわたしたちにどのように生きてほしいと願っておられるのか、神様はどのようにわたしたちを導こうとされているのかを知るということです。

 

ですので、何も予告なしで申し訳ありませんが、今朝からしばらく「神の御心を求める」というテーマをシリーズでメッセージさせていただきます。「しばらく」という曖昧な期間設定になっているのは、今朝のメッセージを含めて、現時点で少なくとも18の御言葉が新約聖書から示されています。18回のシリーズ、長いなぁと思われるでしょうが、それらがすべて、本当に素晴らしい主の励ましのみ言葉なのです。恐らく10月頃まで続くと思いますが、牧師として霊的にスランプ気味であったわたしが神様の憐れみと励ましの中でこのような導きを受けました。これも神様の御心と感謝しています。この学びでは、神様がわたしたちに何をして、どのように歩んで欲しいのかということだけでなく、何が神様の御心ではないのかについても聴いてゆきます。ご一緒に御言葉に聴き、共に歩んでいただいたいです。

 

皆さんには、それぞれ心に願望があると思います。強い願い、計画、望みです。それらが自分の思い通りにならないと、わたしたちは大きなストレスを感じます。しかし、わたしたちを創造され、愛をもって生かしてくださる神様にも、わたしたちに対する願い、計画、望みがあることをどれだけ知っているでしょうか。どれだけ神様の御心を求めて歩んでいるでしょうか。わたしたちは、自分の思いや願いや都合を神様に押し付けてはいないでしょうか。

 

わたしは、去る一週間の歩みの中で3人の方に出会い、お話しをしました。1)神様を信じ、神様のために仕えたいと心から願っているのに、その道がなかなか開かれないで苦しんでおられる方、2)早く自分の国に帰りたいのに日本に足止めされているという方、3)ずっと祈り求めてきた道が閉ざされてしまい、他の道を進むことになったと報告してくださった方とお話をしました。メキシコから旅行で日本に来られた若い牧師は、帰国便の飛行機に席が空いていなくて、帰りたくても帰れない状況にある方で、教会やご病気の母親のことが心配で、神の御心はどこにあるのだろうと思いながら、ただ手をこまねいて、忍耐して待つしかない状態でした。もしかしたら、今日も帰れないでいるかもしれません。

 

それでは皆さんはどうでしょうか。皆さんにも、自分の願いとは裏腹に、物事がうまく行っていないで苦しみ悩んでおられることがあるかもしれません。自分自身やご家族のこと、健康のこと、仕事のこと、将来のことなど、自分の思い通りに行くことはないでしょう。日本中には、主のために地域に仕えようと福音の種蒔きをしている教会、大変な状況の中で苦闘している教会があり、涙しながら牧会しておられる牧師たちが大勢おられます。しかし、なかなか思うように実が結ばない。願っている正反対の方へ行っているように感じることもあります。どうしてだろうかと自分の弱さを責めたり、課題や問題点を総点検するのですが、なかなか問題が解決されない、道が開かれない。そういう中で意気消沈してしまうのです。

 

しかし、どのような苦しく厳しい状況の中に置かれても、サタンに惑わされ、神様から心にいただく信仰と希望と愛を奪われてはなりません。わたしたちの視線を救い主イエス・キリストから離してはなりません。主に信頼し、主に希望を抱くことをやめてはなりません。主の十字架の血潮と復活の力に救われ、神の子とされ、永遠の命が約束されていること、神様の愛と憐れみの中で、今日も生かされていることを忘れてはなりません。わたしたちが主を求めること、主を喜ぶこと、主に感謝しながら日々歩むことが神様の願いであることを覚える必要があります。もう一つ忘れてはならないこと、それは神様の愛を必要としている人々がわたしたちの周りにまだたくさんおられるということです。そのことを忘れないように、覚えておけるように、いつもわたしたちと共にいて助けてくださるのが、聖霊なのです。

 

イエス・キリストを通して神様の愛を体験し、聖霊の励ましの中で生きるわたしたちに必要なことは何でしょうか。それは、神様を礼拝することです。神様の愛と赦しと救いを喜び、感謝の賛美をささげることです。共に神様に仕えてゆくことです。どれだけ神様の事を知っているかという知識ではなく、どれだけ神様に愛されているかを体験し、喜び、感謝するか。つまり、I know about Godではなく、I know Godです。その恵みにどのように応えて生きてゆけるか、それが神様を求めるということではないでしょうか。

 

ローマの信徒への手紙は、1章から11章までは教理的部分です。つまり、罪について、神の義について、イエス・キリストにおける贖い、罪と律法からの解放、神の選び・主権などについて記されています。12章1節の最初に、「こういうわけで」というのは、11章までの教義的なことを示しています。そして12章からは、神様の愛に生かされているわたしたちがどのように恵みに応えてゆくことが神様の御心・願いであるのかが記されています。

 

使徒パウロは、「兄弟姉妹たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と言います。ここで「体を神に献げなさい」とありますが、体とは心と身体が一体化したものです。つまり、全身全霊を神様に献げること、それがわたしたちのなすべき礼拝ですとパウロは言っています。なぜ全身全霊なのか。それは、わたしたちを罪と死の縄目から救い出すために、イエス様が全身全霊をもって、その尊い命を与えてくださったからです。

 

礼拝とは、神の恵みを得るための「手段」ではなく、神から受けている豊かな恵みに対するの「応答」です。何をささげたら神様は報いてくださるというギブアンドテイクではく、イエス様を通して与えてくださっている恵みに感謝することです。

 

2節に、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」とあります。イエス様の命をもって罪の中、罪の世から救い出され、神の愛の中に生かされているのに、この世の思想、価値観、風習や伝統に従って、罪の中にとどまり続けてはなりませんということです。パウロは、「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と励まします。イエス様につながるならば、イエス様の言葉と聖霊がわたしたちの心を新たに造り変えてくださいます。その新しい心を得て初めて、わたしたちは何が神様の御心であるのか、何が善で、何が神様に喜ばれ、御心を全うすることになるのかをわきまえ知ることができるようになります。

 

使徒パウロは、神様の御心を知るために必要なことを3節以降でこう書き記しています。1)まず「自分を過大評価してはならない」、つまり常に謙遜になることです。2)「信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべき」、つまり互いの良さも悪さも認め合い、受け入れ合うということです。3)そして三つ目は、お互いの良さを持ち寄って、共に教会を建て上げるということが4節から8節に記されています。これらがわたしたちに対する神様の御心です。大久保教会に加わりたいという方が与えられて、7月から転入会に向けての準備会をもちます。この機会に、皆さんもどうでしょうか。御心を求めてください。キリスト・イエスに結ばれて、一つのキリストの体、教会を共に形づくってゆきましょう。