「『今日』という日のうちにすべき事」 六月第二主日礼拝 宣教要旨 2017年6月11日
ヘブライ人への手紙3章12〜15節 牧師 河野信一郎
神が祝福をもって私たちにお与えくださるものを、私たちは勝手に比較すべきではありません。神が創造され、私たちにお与えくださるものは全て、神の愛とご計画に基づいて造られ、与えられているものばかりで、すべて「良し」とされているものだからで、それを私たちの好みや感情だけで比べたりすると、私たちの心の中に妬みや嫉妬心、怒りが生じ、不和や敵意や争いが起こります。そうなると「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」とガラテヤ5章21節で忠告されています。
私たちは、自分の持ち物と隣人の持ち物を比較したりするので、妬み合ったり、挑み合ったりし、心が頑なになって苦しみ悶え、最後は希望さえも持てなくなってしまう。自分が何のために生きているのか分からなくなる。自分に価値を見出せないで、暗闇の中で苦しみ悶えてしまう。しかし、私たちを愛とご計画をもって造ってくださり、生かしてくださる神は、「あなたはわたしの目に高価で尊い」とイザヤ43章4節で言ってくださいます。
だから、他人があなたのことをどう見ても、思っても、また自分自身のことをどう思っていても、神はあなたを愛し続けてくださいます。だから、どのようなことがあっても、私たちは大丈夫なのです。この神の愛に打ち勝つ力はこの世に存在しないのです。たとえ存在したとしても、私たちは決して負けません。この地上で定められている競走を走り抜くために必要な力と信仰と忍耐を主イエスが絶えず与え続けてくださり、御国において永遠の命、平安、祝福、を勝利として与えてくださるから大丈夫なのです。この恵みに勝るものはこの地上には何一つないのです。ですから、自分に与えられているものと隣人に与えられているものを比べることを主イエスの御名によって止めましょう。
他人は勝手に私たちを比較の対象にし、私たちの性格、容姿、学歴、仕事、収入、家族などを比較し、勝手に自慢したり、勝手に妬んだりします。実にバカバカしいことです。そういうように比較する人に限って、本当は自分自身に自信がないのです。自信のある人は比べたりせず、自分の持ちもの、与えられているものに満足し、人生を喜んでいます。自分に自信のない人は、いつも自分と誰かを比べ、一喜一憂し、文句ばかり言って人をつまずかせ、自分も知らないうちに傷つけています。
ですから、比べる事を止めましょう。神から日々与えられている恵みを数え、神に感謝しましょう。神と主イエスを見上げ、感謝してゆく時に、私たちは大きな喜びと平安に満たされるはずです。ですから、何かを比べる誘惑に直面した時には、「サタンよ、退け!」と言い、その誘惑と戦ってください。主イエスが共に戦ってくださいます。そのような戦いは、主なる神からの鍛錬と信じて戦ってください。主イエスが共にいて、あなたと力を合わせてサタンと戦い、勝利を必ず与えてくださいます。
「すべての重荷、絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者、また完成者である主イエスを見つめながら。」
最も重要なのは、神から与えられている「命・人生」というマラソンを走り抜くということ、ゴールするということです。絶対に10位以内に入らなくても良いのです。最下位であっても、この地上での人生を走り抜き、神が備えてくださり、待っていてくださる御国へと入る事が大切なのです。私たちの命は、人生は、人と競い合うために神から与えられたのではなく、共に助け合い、愛し合い、仕え合い、共にゴールを目指し、神を喜ばせるために与えられていることを心にしっかりとどめましょう。
先日、息子が通っている中学校の運動会に午前中だけ応援に行ってきました。息子の中学校は、1年2クラス、2年3クラス、3年2クラス、そして若草学級という小さな学校ですが、学生たちは力を振り絞って走ったり、飛び跳ねたり、力を合わせて競技に参加していました。最も心に残ったのは、自分の子どもの頑張り様と若草学級の生徒たちが楽しんで走る姿、笑顔で競技に参加している姿でした。ダウン症や他の発達・成長障害を得ていても、人生を最大限に楽しんでいる姿、リレーを走ったり、100m走の走り抜きゴールしてゆく姿、一生懸命に応援している姿に感動しました。大切なのは、自分に与えられている人生をエンジョイすること、自分の力だけでなくて家族や友人たちの力を借りて生き抜くこと、一人でも多くの人たちと共に御国へとゴールすること、それだと思うのです。それは、主イエスを見上げ、主に聴き従ってゆく時に私たちに与えられる恵みなのです。
今回の宣教は6月4日の宣教の続きです。その時、私たちは3章7・8節を中心に聞きましたが、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」という御言葉でした。神の声に聞くこと、「今日」聞くこと、心を頑なにしてはならないという3点となぜ心を頑なにしてしまうのかという理由を聞きました。そして、そこから読み進めてゆく中で、12節から14節に大切なことがさらに3つ記されていることに気付かされます。今回は、そのうちの2つに心を留め、もう一つは次回に残しておきます。
12節に「兄弟姉妹たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい」とあります。この手紙は、キリスト者となったユダヤ人たちに対して書き送られたものですが、彼らは迫害に遭い、最初のうちは戦い耐えていましたが、やがて耐えられなくなって、信仰を捨てたり、ユダヤ教に逆戻りしようとしていました。そのような兄弟姉妹たちを励まし、信仰にとどまらせるために書き送られ、そのような迫害の中にあっても、兄弟姉妹たちが互いに注意し合い、生ける神、イエス・キリストから離れないようにすることが大切だと示しています。
今日の日本では迫害というまでのことはありませんが、それぞれが様々な重荷を背負って生かされています。様々な誘惑や試みが襲いかかり、そのために信仰が弱り、少しずつ教会から離れ、イエスから離れてしまう兄弟姉妹たちが出て来ます。そのような神の家族、キリストに共につながる兄弟姉妹が主イエスから離れないように互いに気をつけて共に歩むことが必要不可欠なのです。互いのために祈り合うことが大切なのです。手紙やメールを送ること、電話をかけて声を聞くこと、「あなたのことを覚えて祈っているよ」と伝えることが大切なのです。
信仰が弱りかけている兄弟姉妹たちにとって、私たちがすることは、私たちには小さなことのように思えても、彼らにとってはとても大きな事、励ましであり、慰めなのです。ですから、小さい事、些細なことも主なる神は用いてくださいますから、まず小さなことに誠実でありましょう。信仰から離れないように、お互いに気をつけて、声をかけ合いましょう。そのことが励ましにつながってゆきます。
13節に、「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」とあります。これが主なる神から私たちに求められていることです。これが日々、私たちが互いに、兄弟姉妹たちに対してなすべきことです。日々励まし合う。共に会うこと。声を聞き合うこと。祈り合うこと。共に礼拝をおささげすること。仕え合うこと。いろいろとありますが、その一つを神から示されたならば、そのことを「今日」という日のうちに忠実に、誠実になしてゆく。明日でも、来週でも、来月でもなく、「今日」する。兄弟姉妹たちのためにする。それが神が私たちに求めておられる互いに愛し合うということであり、神を愛すること、主イエスの言葉に聞き従って生きることなのです。
今日、私たちはどのように互いに励まし合って生きるべきでしょうか。それを各個人に丁寧に教えてくださるのが主イエスであり、主イエスの霊であるご聖霊です。この主イエスを見上げて、日々誠実に生きてゆきたいと願い求める時に、主イエスが私たち一人一人に教え、導いてくださり、成し得る力をお与えくださいます。主イエスにいつも目を注ぎましょう。