失われた人、その一人のために

宣教「失われた人、その一人のために」 大久保教会 石垣茂夫副牧師   2018/02/18

招詞 イザヤ書49章8~9節(p1142)聖書 ルカによる福音書8章26~39節(p119)

応答賛美 8「主の呼びかけに」

「ゲラサの人」のお話は、マタイ、マルコ、それにルカ福音書の三か所に書かれています。

ルカ福音書8章では、今なお生き続ける「悪霊」の存在を伝えながら、「悪霊」に取りつかれた人、その人一人の回復のために、主イエスは、危険を冒して湖を渡り、彼の内に巣食う「悪霊」を追いだして救われた主イエスを描いています。

ガリラヤ湖の対岸にゲラサと呼ばれる町がありました。ガリラヤ湖を舟でわずか10キロほど、対岸に渡った場所です。しかしそこはユダヤ人が嫌う、豚を飼って生計を立てる異邦人の町、当然、信仰を異にする人々の町でしたから、主イエスといえども、ゲラサに上陸することには、何らかの決断と、勇気を必要としたことでしょう。

ゲラサに悪霊に取りつかれた一人の男がいました。彼は自分で自分をどうにもコントロールできないでおり、家族も、彼の事が重荷であり、彼は家族から離れ、一人墓場で暮らしていました。ところが、人々と離れ墓場で暮すようになったその男にとって、墓場も安住の場ではなかったのです。間もなく彼の中に「悪霊」が住み着き、それからというものは手におえないほど狂暴になり、人々を困らせていました。さて、主イエスはどのようにしてその男の存在を知ったのでしょうか、突然のように舟に乗り弟子たちを伴って対岸のゲラサに向かったのでした。

わたしたちの教会に中国人で“沈(しん)”さんという女性がおられました。

彼女は3年間、日本で「遺跡の修復」を学ぶために来日した留学生でした。この教会に導かれてバプテスマを受け、学業を終えて昨年の春、帰国しました。彼女が聖書の言葉に触れた時、「たった一人のために」ということに驚きを感じたそうです。それは、中国では人口が多く「一人」ということは重んじられていないと、常々感じていたからだそうです。果たして現在の日本で、「一人」は重んじられていると言えるでしょうか。そのことを考えさせられる記事です。

  「イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。」(8:29)と、書かれています。主イエスは手に負えないほど狂暴になった男の中に潜む「悪霊」を見抜いていたのです。また、不思議なことは、その「悪霊」が主イエスを「いと高き神の子イエス」と証言していることです。わたしたち人間よりも、「悪霊」とか「サタン」と呼ばれる存在の方が、神を知っているという場面です。ある意味で、ユーモアさえ感じる場面でもあります。男が主イエスに名前を聞かれますと本来の名前があったはずですが、悪霊」の名前「レギオン・大勢だから」(マルコ5:9)と答えてしまいます。

「悪霊」は、なんとかして生き延びたいと思ったのでしょう、「追い出さないでくれ」と、しつこく主イエスに願ったのです。他の箇所(マルコ5:13)には、「悪霊」は近くにいた2000匹の豚の群れ見つけ、そこに入れさせてくれと願い許されたと記されています。豚など、人間以外のものが自死をすることはないといわれています。「悪霊」はそのことを知っていたのでしょうか、豚に入ってでも生き延びようと思ったのでしょう。これがせめてもの「悪霊」の抵抗でした。多くの豚は死にました。しかし悪霊は決定的な滅びは免れてどこかへと去ってしまいました(8:31)。

8:35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。

とにかく、多くの豚を犠牲にして、この人は正常な体に戻ったのでした。

ところが、「悪霊」に取りつかれた男の回復は、厄介(やっかい)な問題を引き起こすことになりました。

主イエスはこの町で、多くの犠牲を払って、「たった一人」を救われたのです。わたしたちに、そのようなことが出来るでしょうか。「失われた人」の回復よりも、自分たちの稼(かせ)ぎの柱(はしら)を失ったことが大問題だったのです。それだけにとどまりません。「悪霊」の存在よりも、主イエスの驚くような業に、更に大きな恐れを、主イエスに対して抱いてしまったのです。ゲラサの人々は皆、主イエス、あなたこそ自分たちのところから出て行ってもらいたいと、願ったのでした。

「一人の価値」  *石(いし)牟礼(むれ)道子(みちこ)さんのこと*

一週間ほど前(2月10日)、石(いし)牟礼(むれ)道子(みちこ)さんというノンフィクション作家が亡くなりました。90歳であったとテレビは速報で流していました。この方は「苦(く)海(がい)浄土(じょうど)」という作品で、熊本県水俣市で発生した企業による甚大な海の汚染と、それにつながる水銀中毒の恐ろしいばかりの人的被害の実情を取材、環境破壊とともに告発していきました。30歳の頃に水俣の出来事に出会い、以来、その地に住んで病苦の人たちと向き合い、励まし続けてこられました。

「苦(く)海(がい)浄土(じょうど)」にはこのようなことが書かれています。

最初の、企業側と患者との契約は、『この病による死者は59人、弔慰(ちょうい)金(きん)一人32万円。患者には年間10万円。そのうち未成年者の患者には年間3万円。追加補償は一切認めない。』 このように一方的な安価な補償であったと、そこに記録されています。石牟礼さんは、一人の人間の価値を軽く見、自然破壊を重視しない企業の体質に対して、全生涯をかけて戦われました。

石(いし)牟礼(むれ)さんに賛同する人たちは、患者とその家族の悲惨な有様に驚き、50年を超えての抗議活動の末、近年になってようやく和解しました。しかし、影響は、わたしたちの分からないところで、まだまだ続いていますし、終わりの見えない苦しみを負った人が無数におられます。このように、人間の命が安く値踏(ねぶ)みされているのに対して、主イエスは、一人の人間が自分を取り戻すためには豚2千匹を犠牲にされるのを惜しまなかったのです。そして最後には、ご自分の命さえ犠牲にされ、十字架の道を歩まれたのです。神の子が、まさに捨て身で人間を救おうとされるその迫力に、さしもの「レギオン」も逃げ出さざるを得なかったのです。

 

今朝は、「悪霊」が主イエスに向かって、「あなたこそ神の子」と告白しているという衝撃的な言葉に触れました。「悪霊」は巧みに人の中に入り、人を用いて悪を行います。「悪霊」は人が居なければその業をすることはできないのです。

神もまた、ご自分に向きあうわたしたちを必要とされます。実は「悪霊」こそが、わたしたち以上にそのことを良く知っています。さて、わたしたちはどちらに捕えられるのでしょうか。

そのためにも、「神の子イエス」は、今、「わたし一人のために」戦ってくださいます。

わたしたちは主イエスによって、このように力ある神に出会っています。

この朝も、自分の命さえ犠牲にされ、十字架の道を歩まれた主イエスをわたしたちの主と告白させていただきましょう。先週14日から、受難節に入りました。イースターまでの6週間です。

神の子が、まさに捨て身で、たった一人を救おうとされました。わたしたちこそ、その迫力に身を委ねる一人になりましょう。すでに救われていることに確信をもってわたしたちは歩みましょう。