あなたがたは主の神殿 宣教要旨 10月第三主日』
エレミヤ7章1~4節、Ⅰコリント3章10~17節
朝の教会学校では11月まで、エレミヤ書を扱っています。7章以下はエレミヤの説教といわれる箇所で、7章4節に「主の神殿」との言葉が呪文のように3度繰り返されています。
「神殿に参拝し、呪文を繰り返せば救われる」と言われますと、純真な人にとって分かり易いメッセージになります。裏を返せば、神殿参拝は王に忠誠を誓い、愛国心現わすことでもありました。こうした神殿参拝は形だけのものであり、様々な神を拝む神殿を中心にした政治的腐敗と倫理的荒廃を生み出していました。
預言者エレミヤは、そうした時代に、差し迫るバビロンによる国家滅亡を預言する厳しいものでしたが、国民の反発を受け、エレミヤ自身も神を疑うほど苦しんで活動していきました。預言された通り、BC587年の第二次バビロン捕囚では、ユダの有能な人びとの多くが数百キロ離れたバビロニヤに引き行かれ、エルサレム神殿も破壊されてしまいました。
この後、エレミヤはエルサレムに留まり、不本意な拘留生活を過ごしますが、その中で、バビロン捕囚は祝福だと、新たな希望を語っていきます。神殿のないバビロンの生活からは、神殿を持たないで行う礼拝へと人々は導かれました。信仰を見つめ直すため、聖典の編纂を始めました。こうした不遇と思える時代を経て、それは600年後のキリスト誕生へとつながる活動ともなりました。では、本来、神殿とは何であったのでしょうか。
パウロは『あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。』(Ⅰコリント3:16)と言っています。
パウロは『知らないのですか。』とわたしたちに問うています。「知らないのですか」とは、「知っているはずでしょう」ということです。パウロはここで明確に、『あなたがた自身が神殿です』、『神の霊はあなた方の内に住んでいます。』と言っています。これは、ただ『神がおられる』ということとは違います。神はわたしたちの内に住み、聖霊の働きをもってわたしたちの内で恵みの業をなさるとパウロは言っているのです。
わたしたちの大久保教会は、五〇年以上前に、宣教師の方々が、聖霊の導きの中で、教会の基となる働きを始めてくださいました。
ガラテヤ3章には「霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。」という言葉があります。
この世にあって、見える教会とされたわたしたちは、神がイエス・キリストにあって選んでくださいました。罪を赦し、救い出し、ご自分の者として神の教会をわたしたちに委ねてくださいました。この呼びかけに応え、わたしたち自身がイエス・キリストを土台とした神の住む神殿となることを目指してまいりましょう。霊によって始められたこの業を、霊によって仕上げていただきましょう。
そのためにも、神とわたしたちの交わりが正しく保たれるように、礼拝を守りましょう。
教会の働きを通して、神がここに居られるのですと、いつもはっきりと示してまいりましょう。神は今朝、そのようにわたしたちに呼びかけておられます。